5.よくできました
入り口で渡された園内マップをもとに、順番に動物たちを見ることにする。様々な鳥がいる温室のような大きな鳥籠を歩けば、頭上を飛ぶ鳥たちにヒナは身を低くした。鮮やかなピンク色のフラミンゴに見惚れていると、ヒナがずんずんと前進するのに置いていかれそうになった。鳥コーナーは気に入らないのだろうか。動物園の記憶のないヒナからすれば、いきなり身近に現れる鳥が怖いのかもしれない。
急ぎ足で鳥たちのいるエリアを後にし、大型の動物を見られる「サファリゾーン」にやってきた。
「わっ」
唐突に現れた檻の中のトラに慄いて一歩後ずさるヒナ。子供らしい反応だな、と思うと同時に、昔のヒナならトラを前にしても「かっこいいー!」と舌足らずな声でニコニコと笑っていたことを思い出し、胸が締め付けられた。幼い女の子がトラを前にした際の反応にしては、些か勇しすぎるとこちらは苦笑したが。今のヒナにとって、ガラスの向こうでのそのそと歩くトラは「初めて目にした猛獣」に過ぎないのだ。
ヒナは震える足を一歩ずつゆっくりと踏み出し、あまりトラをじっくり見ることなく前へと進んだ。その間、俺は狭い世界で多くの人目に晒されるトラに同情しつつ、そのスマートな外見と強さに心の中で称賛を送った。考えてみれば狩などしなくても餌がもらえる動物園は、彼らにとってある意味幸せな檻なのかもしれない。
「お父さん、私ペンギンが見たい」
「お、ペンギンか。いいな。多分あっちの方だろう」
「行こ!」
トラやライオン、チーターに怯えながらサファリゾーンを超えたヒナが突然声色高くそう言ってきたので、嬉しくなった俺はペンギンのいる「氷山」とマップに示されたペンギンエリアにヒナを早速連れて行った。
「可愛い〜! でもくさい」
「氷山」を模した岩の上を歩くペンギンたちを見たヒナが褒めているのか貶しているのか分からな
い評価を彼らに下しているのがおかしかった。しかし、よちよちと小さく行進するペンギンや水の中を優雅に泳ぐペンギンを眺めるうち、どんどんヒナの表情が明るくなった。
退院してから、ヒナがこんなに楽しそうにしているのを見るのは初めてだった。気がつけば、目尻に涙が滲むのが分かった。なんだ俺、こんなところで恥ずかしい。誰かに見られでもしたらたまんねーな。
「お父さん、大丈夫?」
見られていた。しかも、我が娘に。
「怪我でもした? それとも、お腹すいた?」
優しくも子供らしい問いかけに、不意に幼い頃のヒナがフラッシュバックして余計に胸がじわりと疼くのが分かった。俺がむすっとした表情をしていると、小さなヒナはいつも、「おとーさん、どったの」と俺の足にすり寄ってきた。その可愛さに、俺はたちまちヒナを抱き上げ笑顔になった。代わりにヒナの方はびっくりして目を丸くしていたのが懐かしい。
「ごめんな。ちょっと目に砂が入って」
「それなら目、擦っちゃダメだよ! 早く洗わないと」
「あ、ああ」
まるで母親のように俺のことを軽く叱るヒナは、以前よりも自分の意思を主張してくれるようになったと思う。俺にはそれが嬉しかった。記憶に大きな変化は見られないけれど、些細な成長が、揺れてばかりの俺の心を平静にしてくれた。
ヒナに導かれて、近くのお手洗いで目を洗う。というか、洗ったフリをした。
「よくできました」
と言わんばかりに、ヒナが背筋を伸ばして得意げに俺を見つめていた。そうか。ヒナは俺の役に立とうとしたのだ。だからこそ、俺の目が治ったと知ると嬉しそうに笑ったのだ。
なんでもいい。ヒナが、自分の意思表示をしたり、俺の役に立ちたいと思ってくれたりする。それだけで心が躍るのだ。少しでいいから、ヒナが前へ進もうとしている様子を感じていたかった。