4.父と子
「ヒナ、準備できた?」
「ちょっと待って」
週末の日曜日がやってきた。武藤家の朝は忙しかった。普段なら家でのんびり昼まで寝て、テレビを見てゴロゴロし、元気をチャージしたところで家事を始めるのだが、この日は違った。ヒナと久しぶりに「家族の休日」を過ごす予定だからだ。
ヒナにどこか行きたいところはないかと聞いたら、「動物園に行きたい」とリクエストされた。おお、それはいいな。俺ものった。動物園といえば昔、ヒナが二歳ぐらいの頃、キリンを見て大泣きしたことがある。俺はヒナを肩車していた。キリンが食べようとした葉が、ちょうどヒナの目線の位置にあった。やつは長い舌をべろりんと出して葉をむしゃむしゃ食べた。いいなあ、豪快な食べっぷりで。と俺が感心したのも束の間、ヒナはあまりにグロテスクなその舌をまざまざと見せつけられて怖くなったのだろう。大きな声をあげて泣き始めた。周囲にいた観客たちが一斉に俺たちの方を見た。頭の上で泣き喚く我が子とオロオロする俺。そういうとき、あっけらかんとしてそばでニコニコ笑っている実花。
よくある家族の風景といえばそうだが、たくさんの視線が自分たちに注目しているとなると、変な汗が滲み出てきたのを覚えている。当のヒナはその後結局すぐに泣き止み、かと思えば突然笑い出したものだ。
懐かしいなあ。
あれ以降、ヒナとは数年に一度動物園に行っているが、彼女は覚えているだろうか。もし忘れているとすれば、何か思い出すきっかけになるかもしれない。
「準備できたよ」
ティアードの白いワンピースにショートパンツをはき、普段よりお洒落をしたヒナが俺の前に現れた。小学六年生ともなれば、女の子として可愛らしい格好をしたくなるのだろう。ヒナが休日を精一杯楽しもうとしてくれているようで、俺は心が浮き立った。
「よっしゃ。では、行きますか!」
思いのほか、俺はヒナとのお出かけにワクワクしていることに気づいた。実花を失ってからというもの、ヒナの記憶喪失も相まって、俺たち武藤家は家族の休日を楽しもうなんてどころではなかった。一日一日を問題なく過ごすだけで精一杯で。まだまだ問題は山積みだけれど、たまの休息ぐらい楽しんでも罰は当たらないだろう。
目的の市営動物園まで、車で三十分といったところだった。まさに、家族で出かけるにはちょうど良い。助手席に乗ったヒナは、終始窓の外を眺めていた。
俺は、車内のスピーカーをBluetoothに繋ぎ、スマホで音楽を再生した。まずはロックで気分を高めよう。ヒナが昔好きだった曲だ。チラリと横目でヒナを見ると、わずかだが肩を上下に揺らしている。何かの本で読んだことがあるが、記憶障害の人に思い出の音楽を聞かせて、記憶を呼び起こすという方法があるらしい。もしかしたらヒナも、思い出の音楽を聞けば何か思い出すかもしれないという淡い期待からだった。
「……」
俺の期待とは裏腹に、流れる曲について、ヒナは特に何も触れなかった。まあ実際こんなものなんだろうと、淡い期待を諦めに変換する。そんなにすぐに解決するようなことならば、俺も悩んでいない。
「よし、もうすぐ着くぞ」
なるべく平常心を保ちつつ運転をし、目的地にたどり着いた。
日曜日ということもあり、動物園の駐車場はごった返していた。なんとか停める場所を見つけ、二人で車を降り、動物園の入り口へと向かう。
「トイレ行きたい」
入場券を買う前にヒナがそう言うので、お手洗いを探し彼女を待つことに。入場ゲートをくぐるお客さんは、家族連れ、カップル、母子、若者の集まり。意外といろんな層がいることに驚く。動物園に来る人たちなんて、家族連ればかりだと思っていた。
しかしどこを見渡しても、「父と子」という組み合わせは見つけられなかった。そりゃそうか。そもそも、父子家庭というだけで割合的に少ない。その中で今日、同じ動物園に遊びに来ている父子ともなれば、相当珍しいだろう。それならそうと、今のこの状況を精一杯楽しむしかないな、と心に誓う。俺とヒナはマイナーリーグの選手だ。
「お待たせー」
お手洗いからヒナが戻ってきたところで、俺たちは入場券を買い動物園の中へと足を踏み入れた。