3.二人ぼっち
「ただいまー」
授業が終わり、帰宅すると二十二時半を回っている。この時間に帰宅する自分が、シングルファザーをやっていくのは些か骨が折れる。けれど、ヒナのためだと思うと頑張れた。ヒナが退院してからはや四ヶ月。ヒナの記憶の一部が欠落していることを知ってから三ヶ月間は仕事を休職していたが、生活も少しずつ落ち着いてきたため、先月——今年の五月に職場に復帰したのだ。
「おかえり」
十一歳のヒナは、この時間でもいつも起きていた。子供が起きているにしては夜遅い時間だ。いつも、眠たい目をこすりながら俺のことを待っていてくれていた。
「今日も遅くなってごめんな。ご飯は食べたか?」
「食べたよ。お父さんも早く食べて」
優しい声でヒナがそう言ってくれると、俺は「ああ」と安心して食事をとるができた。ヒナは、パタパタと自分の部屋に戻り、ようやく眠りにつく。たったこれだけ。平日の親子の会話は、朝ヒナを学校に見送るときの「いってらっしゃい」と、夜俺が仕事から帰ってきたときの「ただいま」と「おかえり」だけだった。
記憶を失う前のヒナは、俺が仕事から帰ってくると実花とともに一緒に食卓を囲んでくれた。二人は先に晩ご飯を食べているのだが、俺が寂しくないように食事の席をともにしてくれていたのだ。
今は、必要最低限の挨拶を交わすだけで精一杯だった。
しかしこれでもまだ、増えた方だ。
それこそ四ヶ月前——ヒナが退院した当初は、まったく言葉を交わすことができなかった。ヒナにしてみれば全然知らない人といきなり生活をすることになったのだ。そりゃ、戸惑わないはずがない。今だって少しずつ慣れてきてはいるものの、まだどこかよそよそしさが漂う。
俺は作り置きしていたごはんと味噌汁、それから先程焼いたサバを摘みながらリビングの端に飾ってある実花の写真を見つめた。
ヒナは、いつ記憶が戻るんだろうな……。
ヒナのことになると、つい実花に弱音を吐きたくなる。本人の前では絶対に言えないことだが、ヒナが眠りにつくと自然と口から溢れてしまう。
部屋の隅に散らかったワイシャツと床に転がる靴下が一緒に視界に入ってきた。日々の目まぐるしさの中で、自分の身の回りのことを管理する能力が著しく欠けていることを知った。今まではすべて、実花がやってくれていたのだ。専業主婦で、仕事をせずに家でのんびりできる妻のことを正直羨ましいと思っていた。でも、彼女は毎朝早起きをしてヒナのお弁当を作り、洗濯機を回してくれていた。その日のうちにとりこんでアイロンをぴっちりかけてくれた。それが、当たり前だと思っていた。
でも、実際に自分が実花の役に回ると、何もかも自分一人ではできないことに気づく。平日はまだしも、休日さえも数日間の疲れがどっと押し寄せてきて、なかなか動けない。
そういうとき、ヒナは困った顔をして俺のことをじっと見つめた。その瞳の綺麗さは、俺のことを忘れる前のヒナとなんら変わりない。だから余計に辛かった。
これでもましになったほうだ。「お父さん」と呼んでくれるようになるまでは、二人の間を漂う空気がどんよりとした曇り空みたいだった。
「ふう……」
なんとかここまで持ち堪えているものの、この先どんな困難が待ち受けているのかと想像するとゾッとする。ヒナはいま、小学五年生だ。小さな頃は「パパ大好き」とひよこみたいに俺の身体に抱きついてくることもあったが、小学校低学年を過ぎたあたりから、さすがにそういうこともしなくなった。お風呂だって、一緒に入らなくなったのは二年前のこと。そのことを実花に話したら、「当たり前じゃない」と軽くあしらわれた。へいへい、そうですか。そうですよねー……と、そのときは少しばかり寂しく感じる程度だったが、実花がいないいま、ヒナの心の移り変わりと、どう向き合っていけばいいか分からないのだ。
俺は冷蔵庫の中から缶ビールを取り出し、プルタブを開けた。ダメだ。お酒を入れるとこの後何もやる気が起こらなくなるのに。疲弊した身体は、無意識のうちにアルコールを求める。飲みさえすれば、嫌なことやしんどいことを忘れられる。そう、誰かが言っていた。でも、もちろんそんなことはない。俺にとって酒は、日々のルーティンで抗えないものの一つだ。頭ではよくないと分かっているにもかかわらず、身体が求めてやまない。
日に日に冷蔵庫の中のお酒が増えていく気がする。さすがに毎日飲んでいる姿をヒナには見せられない。
「パパー、トランプしよーよ」
幼稚園児だったヒナが、夕食の後に俺を遊びに誘ってくることがあった。
「ちょっと待って。これ飲み終わったらしよう〜」
食後に日本酒を嗜むことが多かった俺は、ヒナの誘い後回しにしてしまっていた。
「えー、ケチ。今できないならママとやる!」
我が娘は「少しの我慢」というのを知らないのか、すぐにぷいっと顔を横に向けてトタトタと実花の方に寄っていっていた。まあ、そういうところもチャーミングで、自分が悪いにもかかわらず、内心ほっこりしていたのだが。
あの頃のヒナと一緒で、いまのヒナだって、父親があまりお酒に溺れていると知ればいい気分はしないだろう。
そっと、冷蔵庫の中の一番上の段に残りの缶ビールを移し替えた。
これで、ヒナにバレなきゃいいけど。
いたずらをしている気分になり、ふっと頬が緩んだ。これじゃまるで、俺の方が子供みたいだな。
今度の日曜日、久しぶりにヒナとお出かけでもしよう。
少しでも、ヒナの心に近づけるように。