2.職場にて
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「……藤。武藤」
デスク越しに上司の田中さんが俺を呼ぶ声がして、はっと我にかえる。進学塾『英生会』に勤めている俺は、毎日十三時に出勤し、二十二時に退社している。就業時間がそれほど長いわけではないため、普段寝不足でぼうっとすることはないのだが、最近は考え事をしていることが多いせいか、こうして誰かに何度も呼びかけられることが増えていた。
「どうした。大丈夫か?」
気もそぞろに仕事をしていたら、普通は窘められるのだろうが、田中さんは真っ先に俺を気遣ってくれた。田中さんだけじゃない。ここにいる従業員の大半が、最近の俺の様子を見て心配してくれたり静かに見守ってくれたりしている。本当に、感謝しかない。
「すみません。ちょっと考え事をしていて」
正直に詫びる。デスクを挟んで対角線にいる田中さんが、「そうか」と何かを察したように頷いた。
進学塾にしては少々広めのオフィスだが、その広い空間で全員の気遣いが漂っているのが目に見えて分かる。かつてあれほど他人から蔑まれて生きてきた俺にとって、今の職場環境には恵まれすぎていると言っても過言ではない。
「武藤さん、お茶飲みませんか? あたし、煎れますよ」
そう声をかけてくれたのは、入社して二年目になる竹田瑠里だ。彼女はもともと小学校教員になりたかったらしいのだが、教員採用試験に落ちてしまったため、ここで働いている。中学・高校生相手の塾でもいいのか、もっと別の仕事をしながら教員試験に再チャレンジするのはどうかなど、入社時に散々聞かれたらしい。本人は、「まあ、落ちちゃったんですけど、やっぱり教えたいので!」と明るく答えていたという。
竹田さんは、俺の中では天真爛漫な天然キャラのイメージなのだが、本人に伝えると「えー、そんなふうに見えるんですかあ」と拗ねるのであまり言わない。まあ、年配の多い職場では彼女の若さと陽気なキャラクターは重宝しなければならないのだが。
「瑠里ちゃん、また武藤の気を引こうと思って」
「な! そんなわけ、ないじゃないですかあ。稲葉さん、変なこと言わないでください」
いつものごとく竹田さんをからかって遊んでいるのは、稲葉翔介。俺の三つ上の先輩にあたる。もう二十年近くも前になるが、ここで働き出した当初、俺の教育担当をしてくれた人だ。子供好きで、授業もわかりやすく、おまけに顔もイケメンとあらば、生徒からの人気はうちで一番なんじゃないだろうか。ただ、その見た目が余計にそう思わせるのか、割といつも適当なことを言って、チャラい、と思っている生徒もいるとのこと。
「んなこと言って、実際そうだろう? 武藤が入院してる間、毎日『武藤さん今頃どうしてるかな〜』ってぼやいてたじゃん」
「も、もう! なんで言うんですかあ!」
竹田さんが、躍起になって翔介さんに噛みつく。周りの講師や事務員たちは、「また始まったよ」と知らんふりをして仕事を続けている。
「はは、翔介さん。そこまで言わなくても」
「武藤は分かってねえなあ」
いや、竹田さんが俺に気があることは随分前から知ってるし、なんなら翔介さんが竹田さんを密かに狙っていることも承知の上だ。俺にはその二人の方がお似合いに見える。年齢差で言うと二十は離れているのだが。
四十代半ばでいわゆる「イケオジ」の翔介さんなら、竹田さんくらいの年齢の子だって落としてしまえるのだろう。俺には絶対に無理だし、そもそもそういう気は微塵もない。
竹田さんはぷりぷりしながらも、「授業してきます!」とオフィスを出ていった。事務所にいるときは末っ子ポジションにいる彼女も、いざ授業を始めるとにこやかな表情で教鞭を執る。若くて可愛らしい先生だと、女子生徒たちから評判だ。まあ、授業後女子生徒たちと話している竹田さんはさながら女子高生のようだが。
「俺も、授業行ってくるわ。武藤、頑張るのは当然だがほどほどにな」
「ありがとうございます」
ここにいる同僚たちは全員、俺のことを心配してくれている。先程の竹田さんと翔介さんの掛け合いだって、俺を元気づけるためなのかもしれない。それが痛いほどよく分かり、竹田さんが煎れてくれたお茶の温かさが身に染みた。