3.ざわめき
「全部任せきりでごめん。母さんにも、心配かけてるやろうな……」
母さんはいま、介護施設で暮らしている。10年前に軽度な認知障害を発症したためだ。父さんは俺が高校生のときに骨肉腫で亡くなっている。まだ50歳だった。その頃から、母さんの物忘れが始まり、足が悪いこともあったため、介護施設に入れることにしたのだ。
武藤家全体が、重たい空気に包まれていたあの頃とは違う。咲良は志望していた職業に就き、俺は実花と家庭を築いてヒナが産まれた。ヒナを介護施設に連れて行くと、決まって母さんはヒナを可愛がり、久しぶりによく笑うようになった。
それが、また俺たち家族の事故によって、崩れ去ろうとしているなんて。
「だ、大丈夫だよ。お母さん、良くも悪くもすぐ忘れちゃうからさ。あまり思いつめない方が良いよ」
咲良の言葉が、寄る辺のない俺にとっては幾分か頼もしく思えた。
「ありがとな」
「ううん」
咲良は、栗色の髪の毛をさっと耳にかけて周りを見回した。いつの間にか、咲良の髪の毛や爪の先は華やかに彩られている。
何の変哲もない病室だが、父を病気で亡くし、母を介護施設に送った俺たちにとっては、病院という場所が、自分たちと縁遠いものとは思えない。
「ヒナちゃんのことなんだけど」
咲良は、これを告げるためにやって来たのだと分かる真剣な表情と声色で切り出した。
「ヒナがどうした」
咲良はヒナが産まれてから、帰省の度にヒナと遊んでいた。ちょうど就職して数年が経ち、仕事にも慣れてきた頃だったため、気持ちに余裕があったらしい。新入社員の一年間は迫り来る営業の仕事に辟易としていたことを、たまのやりとりで知った。
ヒナも咲良に懐いていた。物心がつくまでは、咲良のことを何度も忘れていたが、次第に「この人は自分の叔母さんだ」と認識してくれたらしい。お盆や正月には俺を置いて、実花と女三人で出かけることもあった。帰って来た女子たちはニコニコと満足げな様子で様々なショップの手提げ袋を持っていた。
そんな咲良とヒナだったため、咲良がヒナのことを心配しているのは当然だった。
「ヒナちゃん、事故のときに頭を打ったみたいで。怪我自体、そこまでひどいわけじゃないらしんだけど」
そこで咲良は一呼吸おいて、俺の目に「続きを話してもいいか」と訴えかけてきた。
それで、どうしたんだ。
ヒナのことになるとどうしても周りが見えなくなる。大切な妻との間に初めてできた子だったから。悪魔の子と呼ばれ恐れられた自分の子供時代を思うと、ヒナが本当に天使に見えたのだ。まあ、単に親バカなだけかもしれないが。
俺はじっと見つめてくる咲良に対し、ゆっくりと頷いた。早く、彼女の言わんとすることを知りたかった。
「記憶が、ないらしい」
「は……」
咲良の言っていることの意味が、分からない。
いや、言葉の意味ぐらいはもちろん分かるが、それが意味するところの現実が理解できないのだ。
「ヒナちゃん、事故が起きる前の記憶が、なくなっちゃったって」
俺の背中越しに見える病室の窓の方へ、咲良は視線を飛ばしていた。
このおよそ現実味のない知らせに、俺はショックや悲しみより、戸惑いの方が膨らんでいた。
「どうして……そんなこと」
咲良は医者ではない。だから、彼女にこんなことを聞くのは間違っているのかもしれない。けれど、上手く言葉が見つからない俺は、母親に置き去りにされた子供のように誰かにすがりたかった。
「事故で頭を打ったせいで、記憶がなくなることがあるらしい。ヒナちゃんの場合、直近数年の記憶が曖昧だって……。たぶん、お兄ちゃんのことも……」
数年?
まだ10歳のヒナの記憶が、数年分も失われているというのか。
それって、彼女が生きてきた時間がほとんど消えてしまったということなのか……?
考えるだけでぞっとした。
大切なヒナは、俺や実花が全力で注いできた愛情の数々を、忘れてしまったというのだろうか。
それとも、忘れてしまったのはほんの少しの時間で、時が経てばまたすぐに戻るほどのことなんだろうか。
そのすべての疑問を、咲良にぶつけたかった。でも、咲良は咲良で唇を噛み締めて辛い気持ちを湛えていた。だから俺は、沸々と湧き上がる熱い怒りとも悲しみとも言えない感情たちを、必死に抑え込んだ。
ヒナが、俺や実花、咲良のことを忘れているかもしれないこと。
俺たちと紡いできた思い出が、溶けて消えてしまっているかもしれないこと。
どれも現実であって欲しくないけれど、最悪の事態を思い、胸の辺りをぎゅっと掴んだ。
遠い世界にいってしまった実花に、心の中で必死に呼び掛けた。
どうかヒナの記憶障害が、すぐに良くなりますように、と。