奴隷
大切なものを失い、そして己を失った。
頭に浮かぶとは「どうして」「なぜ」ばかり。
答えてくれるものは誰一人いなかった。
こうして、リーネは奴隷として隣国でしかも敵対国であるロデンワイナ王国へと売られることなった。
纏う服は、服とも呼べないくらいぼろぼろで、首には冷たく重い鉄の首輪。反抗的な態度や目をすればその分、いやそれ以上飛んでくる鞭。
昼夜問わず働かされて、殴られて、蹴られて、鞭で打たれ、その怪我は放置されて膿んでいく。
だんだん「どうして」という疑問さえ浮かばなくなった。
ただ息を続けてる。命じられるままに動く。
「くそ!図体がでかいくせにまともに働かねぇ!」
「もう売り飛ばしましょ」
食事もろくに与えられなければ、体もどんどん思うように動かなくなる。力自慢だったリーネは、今はその面影もなく、細くぼろぼろだ。
そうして、また売られ、買われ、売られる。
犬が入るような檻にいれられ、次の飼い主をまつ。涙は既に枯れ果てて、思い出せたはずの楽しい記憶も遠くうすれてしまった。
「ロナウド…男爵様…奥様」
大好きだった人達。死んだらまた会えるだろうか。このまま息を止めて。
(だれかきた)
「こいつ、いくら?」
「ああ…おすすめしませんよ貴族様」
また買い手が現れた様子に、リーネはゆらりと目を開ける。顔を上げる力はなかった。だらりと弛緩した体がやけに痛む。
「かまわない。あの人はこいつが欲しいと言った」
ムスッとした声に、リーネはようやく顔を上げ買主をみた。
同い年くらいの青年に、少し驚いたように目を見開く。真っ黒な男だった。さらに言えば、なかなか見ないくらいの美しい男だった。夜の湖を思い浮かばせるような瞳に、新雪のような肌をしている。冬の化身だ。
「動けるか」
男が話しかける。
リーネは緩慢な動きで深深と頭を下げる。
ガチャと鍵が外され扉が開けられる。
「行くぞ」
顔をそっとあげれば、手をさし伸ばす男。
まさか掴めというのか。
リーネは恐る恐るその手に、己の手を伸ばす。
パシン!!!!!!
その瞬間慣れた痛みがリーネの腕を襲う。
ムチで打たれたのだ。試されていのだろうとリーネは理解し、また深く頭を下げる。
「申し訳、ございま、」
「おい!やめろ!なにするんだ」
リーネの謝罪は男の怒気を含んだ声に遮られる。
ビクリと肩を震わせるリーネに、申し訳なさそうな視線を男が自分に向けていることにはもちろん気が付かない。
「い、いえ、こいつが貴方様の御手に触れようと…」
慌てて取り繕うとする商人に、男は舌打ちをしてから、声色を和らげ悠仁の手をそっと掴む。
「俺はロイという。ヴィクター・シェラードという男の代理できた…怯えなくていい。さあ、こんな所からは抜け出そう、な、リーネ」
「え」
名前を呼ばれて、リーネは驚き顔をあげる。
リーネなんて呼ばれるのは何年ぶりか、なぜこの男は自分の名前を知っているのか。リーネの混乱した様子に、ロイと名乗った男は少し眉を顰めた。
(なんて、細い。栄養失調も酷い。それ以上に精神的なショックが大きいのか…)
そう直ぐに見抜いたからの顰め顔であったのだか、当のリーネは
(あ、俺…臭い、よな、汚いし)
と、悲しい顔をして、しかし待たせる訳には行かないと、あまり掴まれた手に力をかけないようにしながらゆらりと立ち上がった。
「こっちだ。馬車を用意してある」
ロイに手を引かれて、店を出る。冬の冷たい風がツンとリーネの鼻を突き抜ける。小さく震えたのをロイは決して見過ごすことなく、己が着ていた上質なコートをリーネの肩にかけた。
「だ、だめです!おれは、奴隷ですから…」
「寒いんだろ?奴隷だろうが関係ない。着とけよ、風邪ひくぞ」
「いや、あの」
「じゃあ、命令」
そう言われてしまえばリーネは何も言い返せない。きゅっとコートのあわせを握り、ズレ落ちないようにし、馬車のドアを開けてまつロイに小さくお礼をしてから、乗り込んだ。
馬車の中でロイは一言も話をしなかった。
リーネも慣れたもので、何も質問はしない。許されるのは、質問を許された時だけだ。そんな時はきたことがないが。奴隷に興味を持つ人間なんていない。命令だけ聞けばいいのだから。
馬車の揺れは穏やかで、だんだんと眠気がリーネを襲う。コートの暖かさも相まっていたし、何より空腹で意識が飛びそうだった。
「寝てていいぞ。暫くかかる」
「いえ、そういう訳には」
「命令、寝てろ」
そう言えば、いいと思ってるだろあんた。そんな軽口は、リーネの口から出ることはなく、抗いがたい眠気にとうとう身を任せて目を閉じた。
こんなに穏やかな眠りは久しぶりで、リーネは何一つ悪夢を見ることは無かった。