(4)
「……大橋?」
駅前で俯いて佇んでいると、横から名前を呼ばれて、勢いよく顔を上げた。
「えっと……え、あ、加藤くん!?」
顔をしばらくじっと見つめてようやく分かった。彼と会うのは高校ぶりで、しかも彼の見た目が高校の時のものより相当変わっているのでぴんとこなかったのだ。
「やっぱ大橋だった。よかった、違う人だったらどうしようとか思ったわ」
「加藤くん、結構久しぶりなのによく分かったね? 全然わかんなかった」
「髪生えたしなあ」
そう、加藤くんは丸坊主だった。今は髪がふさふさだ。とは言ってもそんなに長くはないけれど。
彼は野球部に所属していて、野球部員は別に定められてもいないのに八割が丸坊主だ。気になって聞いたら、帽子やヘルメットを被った時、髪の毛があると鬱陶しいんだ、と教えてくれた。
「どうしたの?」
「芽依と会った帰り。そしたら知ってるっぽい女子が突っ立ってるから」
「そっかあ、いいね」
芽依、というのは彼の恋人のことだ。芽依ちゃんと加藤くんは高校の時から付き合っていて、関係は順調らしい。
芽依とは茶道部で一緒だったのでわたしも仲が良い。うさぎみたいな見た目で可愛らしいのに、中身は暴走機関車みたいにいつも突っ走ってる面白い子だ。加藤くんと別れそう、と部活中に泣きそうになっていたのも二度や三度じゃない。それも芽依が勝手に勘違いして変な方向に走っているだけ、というのが常だった。
それでも芽依が話すだけでにこにこしているのは、男子では加藤くんだけで、加藤くんの隣にいる芽依が一番可愛いんでは、とみんなが思っていた。実際わたしも彼女たちを見て、わたしもあんなふうに誰かの〝特別〟になりたいと何度も羨んだ。
ああ、芽依に会いたくなってしまった。帰ったらメッセージを送ろう。
「大橋こそ、どしたの? 最寄りここじゃなかったよな?」
言いづらい……堀田くんの家に押しかけようとしていたなんて、口が裂けても言えない。恥ずかしい。考えただけで顔がかっかしてきた。
「えっと……まあ、諸事情?」
「そういえば、海星は?」
「え?」
「あ」
斜め上にある顔を見上げると、しまった、とはっきり書かれてあった。なんで彼がそれを? というか、ええ、海星って、堀田くんのことだよね?
「……あー、海星が言ってたんだよ。大橋とクリスマスにで、……会うって」
堀田くんと加藤くんは、卒業しても連絡をとっているのか。なぜだか少し嬉しくなった。彼らは高校の時もよく一緒にいて、堀田くんのことを目で追っていたから、加藤くんのことも自然とよく見ていた。
そうだ、加藤くんは、彼の家を知っているんじゃないか? でも、聞くの?
いや、聞くべきだろう。ここまで来たんだから、できることはやっておくべきだ。
わけのわからない勇気みたいなものがわたしの身体を支配している。正気を失う、というのはこのことなのだろうか。
「加藤くん、堀田くんのお家、知ってる?」
「俺の家のめちゃくちゃ近くだけど」
「……あの、案内! してくれない、かな!」
「お、おう、任せとけ」
わたしに気圧されたように、加藤くんはこくこく頷いた。
「ついた、ここ」
「おお」
「そんで俺の家はあれ」
「そっか」
「全然興味ねーじゃん」
興味がないんじゃないよ! 今から告白するから緊張して言葉が一つも出てこないんだよ!
二人で他愛ない会話、主に芽依の話をしていたはずが、彼の家を前にした瞬間に緊張が喉まで競り上がってきた。ここまで案内してくれた加藤くんは、今さらわたしに怪訝な目を向けてくる。
加藤くんの家、と指していたのは堀田くんの家の向かいの家の四軒隣で、似たようなデザインだった。幼馴染ということなのだろう、どうりで仲がいいわけだ。
鼓動が激しい。関係のないことを考えていないと、はちきれてしまいそうだ。
「大橋、……何するつもり?」
「あ、危ないことは、しないから、安心して」
「そ。まー、いいけど。じゃ、俺は退散するんで。頑張って」
「うん、ここまでありがとう」
「どうせ帰り道だし。またな」
加藤くんと話したことは、そんなにない。高校三年生の時、やはり彼も同じクラスで、文化祭の時に同じ係を担当したくらいだ。
それなのに、わたしにここまで親切にしてくれた。優しい人の親友も優しいんだなあ。高校生の時、坊主頭がちょっと怖いと思っててごめんね、と心の中で謝罪した。
堀田くんの家の近くの電柱に立つ。十二月の寒さが突然わたしを襲った。寒さと緊張で指先の感覚がないまま、スマートフォンをコートのポケットから取り出した。
震える指先でメッセージアプリを開いて、堀田くんのアイコンをタップする。ふう、と息を吐いて『音声通話』と書かれているところを一度押し、スマホを耳に当てた。
何秒か待っていると、発信音が途切れる。
『……大橋さん?』
「堀田くん? あのね、こんな夜遅くにごめんなさい」
『全然。どうしたの?』
「い、今から、外に出てこられる?」
『……外? うん、どこに行けばいい?』
「いまね、あの、おうちの前にいるの」
どこぞの怖い話か、と自嘲した。言葉を発するたび、白い息が暗闇に溶けていく。
『あ、大橋さんの家に向かえばいい?』
「いや、堀田くんのおうちの前」
『はあ!? そのままちょっと待ってて!』
瞬間、ぶつっと電話が途切れた。やっぱり、気持ち悪かったかな。走ってここから立ち去ろうか、でも待っててって言われたし、と考え込んでいると、別れた時の格好そのままの堀田くんが何かを持って道路に飛び出てきた。
きょろきょろあたりを見回して、外灯の下にいたわたしをすぐに見つける。小走りでこちらに来て、わたしの肩に持っていたものをかけてきた。大きめのマフラーだった。
「堀田くん」
「堀田くん、じゃない! さみいだろ! 何してんの!?」
「ちょっと寒かったからたすかった、ありがとう」
「いやいやいやいや、待って、ほんとに何してんの」
堀田くんが困ったように前髪をくしゃくしゃと乱した。困らせちゃったな、と反省しながら鼻を啜ると、彼の香りがふんわりと鼻腔をくすぐった。わたしの胸をときめかせる匂いだ。
「加藤くんに駅前で会って、ここまで教えてもらって」
「永輔……うわ……」
「それで、あの」
大きく息を吸って、胸に溜めた。意味は特に無い。
「わたし、……堀田くんのことがすきです! 堀田くんに助けてもらってから、ずっと」
「ごめんね、きもいよね!? 今日伝えないとって思ってて、クリスマスだし、こう、奮い立っちゃって、来ました!」
彼が目をまあるくして固まっていた。わたしがやったら間抜けなだけだけれど、彼がやると可愛さがある。
「大橋はこれで帰ります! 明日からは、またお友だちとしてよろしく! では」
マフラーを返して、くるりと彼に背を向けて歩き出す。彼は何も言わなかった、それが答えなのだろう。じんわりと滲んできた涙を無視する。引っ込め、泣くな、何も期待しないでここに来たんだから。
彼の家の、隣の家の表札を過ぎようかという時、後ろから身体ごと捕まえられた。声が出なかったのは、泣いていたからだ。
「大橋さん、……清花」
丁寧に呼ばれた。ぴたっと涙が止まる。
「好きだよ」
「俺も、ずっと好きだった」
うそだ、と笑ったら、冷たい声で「嘘じゃない」と即座に返された。怒っているみたいだった。背後から、耳に直接吹き込むみたいにして言葉が降ってくる。
「ずっと言おうと思ってて、でも……ばかみたいだけど、恥ずかしくて言えなくて」
「せっかく今日会えたのに、何も意味無かったわって落ち込んでた」
わたしと一緒だ。全部一緒だった。わたしだけじゃなかったんだ。嬉しさだけが、わたしの内側をぐるぐる走る。
「堀田くん、ほったくん」
「……なに?」
「顔、見たい」
「ダサいからやだよ」
「ええ、見せてよ」
振り向こうとするけれど、彼が腕の力を強めて、させてもらえない。苦しくなるぐらい、彼の腕の中に閉じ込められる。
はあ、と堀田くんが息を吐いた。耳にその息が当たった瞬間、身体が勝手にふるっと震えた。
堀田くんの腕が緩んだ瞬間にくるっと振り向いて、彼と向かい合う。またしても大きめのマフラーをぐるりと肩にかけられて、まるで、逃がさないと言われているみたいだった。
「へへ、堀田くん」
「……マジ、見ないで」
「ううん、見ちゃう、ごめんね」
外灯のぼんやりとした明るさしかないのに、それでもわかるくらい、彼の頬も耳も赤く染まっていた。寒さのせいではないだろう。勝手に頬がゆるむ。ぜんぜん、ダサくなんかない。
彼に手を取られて、目が合った。黒い瞳に、真剣と、少しの緊張が浮かんでいるような気がした。
「清花のことが好きだよ。付き合ってほしい」
「わたしも、堀田くんのことが好きです」
「堀田くん?」
不安そうな顔で、下から覗き込まれた。目を見るだけで、彼が言わんとすることが伝わる。ずっと堀田くんと呼んできたのに、今この瞬間から変えるなんて、できるわけがない。そう思うのに、彼の瞳に見つめられたら、いやだと言えない。ずるい。
「か、」
「か?」
「海星……さん?」
「海星」
「か、海星」
勇気を振り絞って言うと、にこにこと笑いながら頭を撫でられて、ついでにと言わんばかりに前髪も整えられる。
えくぼ、両頬、かわいい。
いっぱいいっぱいで頭がふわふわして、そんなことしか考えられない。
「夢、なのかな」
「夢になんかさせねえわ」
「ええ? でも、夢みたいすぎて。だって、わたし、か、……海星のこと、高一から好きだったんだよ」
「そんなの、俺もだわ」
「ええ!?」
全然気づかなかった。わたしが彼に好きになってもらえる要素なんて、一つも無いように思える。
でも彼は嬉しさだだ漏れの顔をしていて、ちょっと信じてしまいそうだ。こんなに子どもっぽい笑顔は、高校の時だって見たことがない。
これが恋人にしか見せない顔、というやつなのだ、たぶん。
「清花」
「うん?」
「クリスマスの言い伝え、知ってる?」
「言い伝え?」
そう言うと、彼は今度は左の頬にえくぼを浮かばせる。不敵な笑みだった。
「……え、」
一音だけ口からこぼれ落ちた。彼に顎を掬われて、これが正解だ、と咄嗟に目を瞑る。やわらかいものが、優しくわたしの唇に当たった。
家を出る前に、リップぐらい塗り直せばよかった、今さら後悔しても遅い。一度離れて、もう一度くっつけられる。
離れていく気配がして、目を開けた。一番に映ったのは――彼の照れた表情だった。頬も耳も真っ赤だ。かわいいなあ。
「ええ? 自分でやっといて照れるの?」
「いや、マジでくさいな、やばい」
「くさくはないよ」
「そんなまじまじ見られたらまたしちゃうから見ないで」
彼が見るなと言うのでなんとなく後ろを振り返ったら、表札の上にあたりに小さなリースが吊るされてあった。よく見るもさっとしたものではなくて、それよりも少し素朴で、シンプルなものだった。
白くて小さい、丸い花がアクセントになっていてとても可愛い。
「うわあーー……はずい、人んちの前で……」
「まあまあ、誰も見てないよ、多分」
「清花の顔見てたらやっちゃったんだから、清花がわるい」
「ええ!? わたし!?」
今度はちょっと拗ねたみたいな顔で「そう、清花のせい、うそ、やっぱちがう」と言われた。かわいい。本当に子どもみたいだ。
こんなふうに、感情がむき出しの彼を見られるのも、わたしだけにしてほしいな。
わたしがずっと願っていたのは、堀田くんが欲しい、ということだけだった。恋人だけに見せる優しさや、好きな人にしか見せない表情を、わたしに向けてほしかった。
わたしの心には堀田くんしかいないみたいに、堀田くんの中にもわたしだけならいいのに、と思っていた。
それも、クリスマスに願っていたんじゃなくて、わたしはずっと彼に願っていた。――わたしに気づいて、わたしの気持ちを受け取って。
それが叶うなんて、少しも想像していなかった。いまでも信じられないし、うそみたいだと思う。
でも、彼と繋がれた左手が現実だと教えてくれている。何時間か前までは空いていた人半分の距離はすでになくなって、ぴったりとくっついている。どきどきして、落ち着かなくて、でも、すごく心が暖かい。十二月とは思えないくらいだ。
海星、という呼び方に、清花、という呼ばれ方に慣れたら、その時やっと信じられるのかもしれない。
やっぱり、勝手に口元が弛む。わたしの表情を横から覗き込んで、海星もにこにことしている。ああ、うれしい、そのえくぼが一番好き。
勝算も無いのに、賭けてよかった。
ずっと、あなたがわたしだけに特別な表情を見せてくれますように。来年のクリスマスは何も要らないから、それだけを叶えてほしい。