(2)
前の席に座っている渚の肩をとんとん、と叩く。彼女は、読んでいた教材を閉じてこっちを向いた。
「なんだい?」
渚は高校からの同級生で、同じ専門学校に進学した。高校時代はずっと一緒にいたのでもちろんわたしの堀田くんへの気持ちも知っているし、たまにだけれど相談もしている。
「実は、堀田くんに……お誘いを受けまして……」
「ハァ!? いつ!」
「今月の二十五日」
「え? クリスマスじゃん」
渚がふふふ、とあやしい笑みを浮かべる。
「あいつ、とうとう決めてくる気だな」
「決めるとは?」
「あんたとのこれからのことにきまってんだろうが」
やっぱりそう? と言うと、それ以外無いね、と返されてしまった。やっぱり、告白とかされちゃうこともあるんだろうか。
「こ、……こくはくとか?」
「それしかないでしょ」
ずばっと真顔で言われる。渚は思っていることを素直に言ってくれる人で、そこが面白いしわたしにとってはありがたい。本人は「ちょっと言いすぎちゃったかも」と悩むこともあるみたいだけれど、わたしからすればそれは渚の長所だ。
気づけばうじうじしているわたしのお尻を引っ叩き、「とりあえずやってみな」と言われたことが数えきれないほどある。度胸のないわたしに何度もお説教をして、それでも見捨てないでいてくれる優しい友人だ。
「ええー……でもさあ……」
膝元にかけている、アイボリー色のふわっふわのブランケットに手を突っ込んで、ぬくもりを求める。あったかい。
「付き合ってない人同士がわざわざクリスマスに会うっていうのはつまりそういうことなのよ。答えはもう出ちゃってんの」
「でも、わかんないよ? 堀田くんみたいなきらきら人類からしたら、クリスマスに遊ぶのなんて普通のことなのかもしれないし」
「無えわ! 逆にそんな奴を見てみたいね! そもそも今日は何日? まだ十二月も始まって十日も経ってないのよ。普通に遊ぶだけなら前日にふらっと言ってくるよ、そういうもんなの」
姐御……! と言いたくなるくらいかっこいい。渚先輩だ。あやうく好きになっちゃうところだった。
堀田くんの好きな女の子のタイプもわからないし、そういう話になったこともない。ちょっといい感じの関係なら、そういうことを匂わせていくものなんじゃないの? わたしは堀田くんのことが好きだけど、彼がわたしのことをどう思っているのかは不明瞭だ。
「そもそも、清花がそんなに不安がってるのが意味わかんないけどね」
「ええ? なんで?」
「毎日連絡取り合ってたまに電話もして、会えたらいいねえとか言い合って、それで両想いじゃないって、じゃあ何? って話」
「いやあ、堀田くんはほら、そういうことに慣れてそうだし、リップサービスかなあ、みたいな」
言葉を選びつつそう言うと、渚が深くため息を吐く。わたしの卑屈さに呆れているみたいだ。ひどい。渚も好きな人にだけはそんなぐいぐい行けるタイプじゃないくせに。
「さすがに堀田がかわいそうになってきた……女遊びが激しいと思われてる……」
「ち、ちがうちがう! そうじゃなくてほら、お友だち多いしさ!?」
「友だちこそ多いけど、高校三年間彼女つくんなかったじゃん。中二の時も先輩に告白されて付き合って、すぐ別れてたし」
渚と堀田くんは中学からの同級生で、高校の時もよく話していた。割と仲がいい、くらいの間柄なんだそうだ。
「なんにせよ、それはデートだから思う存分おめかしして、告白すべし。いつまでもこのままでいたいの?」
「いたくないです」
「じゃあ、自分の気持ちを伝えてきなさい。だめだったら私が慰めてあげよう」
「な、なぎさせんぱい……!」
ふざけてそう言うと、渚は「まだフラれてないでしょ」と笑う。話に夢中で膝から落ちかけていたブランケットを整えたところでチャイムが鳴り、後ろを向いていた渚は定位置へと戻っていった。
*
時刻はすでに八時を回っているけれど、街はイルミネーションとクリスマスの音楽で賑わっている。どこもかしこもきらきらしていて特別感があって、道ゆく人はみんな幸せそうだ。
この雰囲気にあやかって、わたしの気持ちの一つや二つ、言えないものだろうか。彼の方の気持ちが少しでも分かれば勇気が出そうだけれど、彼の気持ちが、わたしには全く分からない。
「……このあと、どうする?」
「ご飯食べたし、イルミネーションも見ちゃったし、プレゼントも渡しちゃったしねえ」
平然と、全部済ませちゃったね、みたいな顔をするでないよ、わたし! 一番重要なことをまだ成し遂げていないよ! ばかもの!
「……もう遅くなるし、行こっか」
彼が静かにそう言ったので、駅に向かって二人で歩き始める。
どうしよう、絶対言うって決めてたのに、全然なにも言えてない。今日、それだけは、頑張ろうって決めてたのに。
今日一番の沈黙がわたしたちの間にある。会った時からずっと空いたままの、人半分の距離が余計に切なさを感じさせた。
ぽつりぽつりと話していると、あっという間に駅に着いてしまった。名残惜しいと思っているのはわたしだけなんだろうか。それもまた切ない。
彼の半歩後ろをわざと歩き、お金を小さく折りたたんで彼のポケットにこっそり忍ばせる。また隣に戻って堀田くんの様子を窺ったけれど、気づいている様子はなかった。
告白、してしまえ。誰かがそう囁く。けれど、もし拒否されたら? もし彼も同じ気持ちじゃなかったら? 恥ずかしいし――この心地よい関係も一緒に終わってしまう。ここでフラれて話すこともできなくなるよりは、このまま、〝お友だち〟を続けた方がいいんじゃないの?
わたしのネガティブ思考は、今に始まったことではない。前向きな思考を母胎に置いたまま誕生したのか、ポジティブで明るい弟たちとは正反対に暗くてじめじめしていてやたら後ろ向きだ。
渚や、弟たちみたいに生きたい。自分の気持ちを素直に表現して、前向きでうらやましい。そのような羨望も、余計にわたしを仄暗い気持ちにさせる。
せっかく好きな人と一緒にいるのに、こんな暗いことばっかり考えている。最低だ。この記憶を持ったまま、今日一日をやりなおしたい。もう少し可愛く、きれいなこころのわたしのままで彼のそばにいたかった。
ああ、駅に着いてしまった。楽しいクリスマスも、ここで終わってしまうのか。細く、ばれないようにため息を吐く。
「……着いちゃったね」
「じゃあ、また連絡する」
ばいばい、と手を振ったら、彼はその場に立ち止まってひらひら手を振った。ばいばいしちゃうんだ。
どうやらわたしの想像通り、彼の方にはわたしへの気持ちなんてこれっぽっちも無いらしい。クリスマスに誘われちゃったし、堀田くんの特別になれたのかな、なんて高揚していたのがばかみたいだ。盛大な勘違いだった。恥ずかしい。燃やされて灰になりたい。
振り返って、改札へと向かう。手を振る彼の姿をこれ以上見ていたら、泣いてしまいそうだった。
あんまり好ましくないけれど、外から帰ってきた服のままベッドにのぼって、体育座りをする。膝におでこを擦り付け、ダンゴムシのように丸まると、情けなさや後悔から自分を守れるような気がした。
普通に電車に乗って、普通に帰ってきてしまった。最悪だ、消えてなくなりたい。
何にも言えなかった。わたしの気持ちも、帰りたくないということも、なんにも。緊張していたとか、そんなのは言い訳にならない。自己嫌悪を持て余して息苦しい。
――高校生の頃、彼にたすけてもらったことがある。すごく些細なことで、けれどわたしはそれを忘れられずに生きている。
*
うう、と声が出る。体のあちこちが痛い。歩けない。
登校した時から、なんだかいやな予感がしていた。くる、と思った時には痛み止めを飲もうと決めていて、けれど今日はそれができなかった。リュックサックの中に常備していると思い込んでいた鎮痛剤が、今日たまたま切れていたのだ。
二限の化学の途中からお腹が痛くなって、それでも我慢しようと思った。今、三限が始まって十分ほどしか経っていないが、もうギブアップだ。げんこつで殴られているみたいな腹痛と、脳みそを縛られているみたいな頭痛と、金槌で叩かれているみたいな腰痛と、激しい嘔吐感が一気にわたしに襲いかかる。もうだめだ、ここで力尽きて死ぬのかもしれない。
三限の音楽が始まる前、トイレに行ったけれどまだ血は出ていなかった。なのにこの痛みは異常だ。歌なんてうたえる体調じゃない。音楽の教科担任である森川先生がわたしの顔色を見た瞬間に「出席にするから、保健室行ってきなさい」と真剣な顔をして言ったので、甘えることにした。青ざめているらしい。
音楽室から保健室までがまた遠い。保健室は教室棟に、音楽室は別棟にあって、しかも反対側に位置している。三階にある音楽室から一階に降り、渡り廊下を通った後にしばらく歩くと保健室にたどり着く。
平常時は何てことない道のりが、今のわたしにとっては険しい山道のように感じる。一歩踏むたび、腹痛と頭痛と腰痛と吐き気が強まっている。
廊下の端に蹲って、痛みをやり過ごす。下腹部に手を当てたら、心なしかあったまるような気がする。もうこのまま四限まで過ごしてしまおうか。幸い、ここは人気がない。渚とは同じクラスだけれど芸術の選択している科目が別で、渚は美術選択だ。チャイムが鳴ったら立ち上がって教室に戻り、渚に助けを求めに行こう。
うめき声を上げながら廊下の片隅でしゃがんでいる存在を咎める人もいないので、しばらくそうしていた。
「……だ、大丈夫すか」
どのくらいその体勢でいただろうか。五分か十分か、三十秒だったかもしれない。上から声をかけられて、閉じていた瞼をゆっくり開いた。
顔を上げる元気はないので上履きで学年を確認すると、同級生らしかった。
「だいじょうぶにみえますか……」
「見えないっすね、スミマセン」
嫌な返し方をしてしまった、と反省して「……八つ当たりしちゃってごめんなさい」と謝る。聞いたことのない声だ。多分、同じクラスの人ではない。
「保健室行くんですよね」
「もう、いいんです……ここで死ぬので」
「死ぬって……俺、一緒に行きますよ」
「見知らぬ人の、お手数をおかけするわけには……うう」
「見知らぬ人じゃないっすよ。立てますか」
同学年の人間が何人いると思っているんだろう。九クラスだから、三六〇人か。頭痛がするからか、無駄なことばかり考えてしまう。
ふるふる、と首を振ったら、「触っても大丈夫ですか」と横から声をかけられた。顔を上げたいのに上げられない。首だけで頷く。
見知らぬ彼は、わたしに付き合って一緒にしゃがんでいるのだ。本当にたすけてくれるつもりなのか。少し驚く。
「大橋さん、俺が支えるから、せーので立ち上がって」
腰のあたりに手を当てられて、「せーの」と小さな掛け声がした。ぐ、と足に力を入れると、横のしっかりとした支えがあるせいか自然と立ち上がることができた。
目が回っている。立ち上がった途端に、いろんなところが痛む。
「ご、ごめんなさい、ご迷惑を……」
「いいんすよ、俺も授業サボる理由になったし」
「はきそう」
「がんばれーがまんだぞー」
隣の彼は結構背が高いらしい。気の抜けた応援が上から声が降り注ぐ。やわらかい声だなあ。頭痛に響かない。
ゆっくりと二人で廊下を進む。頑張ってわたしの歩幅に合わせているのか、たまに一歩が大きい。足元だけを見ているから、そんな気遣いにも気がついた。
背中に置かれている手もぽかぽかしていた。あったかい……。
「う、はきそう、ほんとにはく」
「あと五歩ぐらいで着くからほんとに頑張れ」
もう迷惑をかけているのに、ここで吐いたらいけない、と気を引き締める。あと五歩、という言葉に力をもらって、吐き気を喉の奥に押し込んだ。
それから二十歩ぐらい歩いて、やっと保健室にたどり着いた。嘘を吐いた彼を睨もうと思ったが、そんな気力はもう残っていなかった。
「病人でーす」
「あらあら、どうしたの」
彼がそう言って扉を開けると、保健室の先生が慌てて駆け寄ってきた。わたしよりも身長が小さいから顔が見える。わたしの顔色を見て、ああ、という顔をしていた。
高校に入学して半年、ここに来るのは五回目だ。先生は、わたしが酷い生理痛持ちだということを理解している。ほっとして、足の力が抜けそうだった。
「堀田くん、そのまま大橋さんのことベッドまで連れて行ってくれる?」
「ういっす」
ほったくん。堀田くん、だろうか。覚えておこう、菓子折りを持っていかないといけない。
堀田くんはそのままわたしの背中を支え、ベッドのある場所まで案内してくれた。そのまま彼は静かにカーテンを閉めて立ち去った。
清潔そうな、真っ白くて硬いベッドにお尻をつける。ふう、ふう、と荒い息が出る。吐き気がひどい。横たわったらその反動で吐きそうだ。
「先生、大橋さんが、吐きそうってさっきから言ってんすけど」
「大変。堀田くん、これ大橋さんに渡して」
大橋さん、開けるよ、という声がして、返事をする間も無くカーテンが開けられる。まあ、堀田くんが出て行った時の格好のままなのだから、何の心配もないけれど。
堀田くんがわたしの目の前にしゃがみこんで、そこで初めて目があった――気がした。実際のところ、あまりよく見えていない。目が回っているのだ。茶色っぽい黒と、ぼんやりした顔立ちだけが映っている。
「はい、これ持って。あとこれで熱測って」
手渡されたのは、ピンク色の大きめな洗面器と体温計だった。洗面器は、これに吐けということなのだろう。
保健室の隣にトイレがあるけれど、そこに自分の足で行って吐けるほど元気ではなかったので助かった。
「ふう、ごめんなさい、ほんとに、」
「いいよ。だいじょうぶ?」
「うん、すわったら、まし」
「……マシって顔色じゃねえけど」
「ちょっと、堀田くん? 大橋さんつらいんだから寝かせてあげて」
「ごめん、出るわ」
思わず、あ、と音が転げ落ちる。蚊の鳴くような声だったのに、彼は耳聡く拾い上げてくれた。
「どうかした?」
「あ、いや、……ごめんね、ありがとう」
「いいよ。お大事に」
今度こそ彼は出て行った。洗面器をベッドの横の机に置き、ゆっくりと寝転んで顎の下あたりまで布団を被る。
吐き気がやっと治った。目はぐるぐるしているけれど、何とか眠れそう。熱を素早く測って、先生に伝える。
ほったくん、ほったくん、ありがとう、わたしの命の恩人だ。堀田くんが助けてくれなければ、わたしは今頃廊下の隅で戻していたかもしれないし、あまりの痛みに気絶していたかもしれない。そうならなかったのは、全部堀田くんのおかげだ。
堀田くん、ありがとうございました、何か彼にいいことがありますように、と願って目を瞑る。
「……きよか、起きて。いつまで寝てんの」
おでこに小さな痛みを感じて目を開ける。映ったのは真っ白な天井だった。
どこ? ああ、保健室だ。生理痛で気絶するように寝て、それから――
「何寝ぼけてんの? はい、痛み止めと水」
「ありがとう……」
ベッドの横にパイプ椅子を持ってきて腰掛けていたのは渚だった。ゆっくり起き上がってそれらを受け取り、すぐに飲んだ。深く眠ったから、痛みがだいぶマシになっている。
「いくら生理痛って言っても、そんなに痛いのとか眠るのとか、大丈夫? 病院行ったら?」
「うん、今度行ってみる……いま、何限?」
「お昼休み。清花の弁当も勝手に持ってきたからここで食べよ」
「なぎさぁ」
持つべきものは気遣い上手の友人だ。優しさが腹痛に染みる。だいすき、とすりすり甘えたら「ハイハイ」と軽くあしらわれた。冷たい、でも好き。
いつもの二倍の時間をかけてご飯を食べ、渚とともに教室に戻る。今日は六限終わりで部活がない日だから、渚からもらった鎮痛剤で乗り越えられそうだ。
歩きながら渚に堀田くんの話をすると「へー、あいつがね」と意外そうな顔をしている。
「知り合いなの?」
「うん、まあ、中学同じだったし」
「ええ!? そうなの? 明日、堀田くんにお礼言いに行こうと思ってるんだけど……」
「私について来いと?」
「よろしければ」
「……はいはい、わかった」
呆れたような声で渚が言う。なんだかんだ言いながら渚は親切だ。わざわざ保健室まで迎えにきてくれるし、お弁当も持ってきてくれるし、渚のことがもっと大好きになってしまった。
渚の腕に腕を絡めたら、「きもい」と言われたけれど解かれる気配は無い。照れてるだけかな、かわいい。
「なぎさ、だいすきぃ」
「もう、それいいから」
次の日、渚を連れて堀田くんに謝罪とお礼を伝えに行く。彼のクラスのドアの前で堀田くんを待っているだけなのに、なぜか緊張している。前髪、へんになってないかな。トイレで確認してから来ればよかった。
「堀田くん、昨日は本当にありがとう」
「別に、俺も授業サボる口実になったからいいよ」
彼が小さく笑う。右頬にえくぼが浮かんで、それを見ただけでなんだかどきまぎした。
「それよりも、今日は体調大丈夫なの?」
「う、うん、ぜんぜん平気です」
「そっか、よかった。お菓子ありがとう。……呼ばれてるから、行くわ」
わたしがお礼の品として渡したチョコレート菓子の箱をふるふる、と振って、彼はクラスの喧騒の中に戻って行った。坊主頭の男の子たちが「かいせー! 数学教えてくれー!」「かいせー!? 海星はどこなの!?」と大きな声で叫んでいる。
えも言われぬ感情に脳が支配されて、しばらく立ち尽くす。
彼にとっては、困っていそうな人を助けるとか、体調の悪い人を気遣うというのは当たり前のことなんだ。
脳みそをフル回転させて、自分の気持ちを正確に表すような言葉を探した。すぐにぴんときた。
ああ、これは感動だ。彼に、感動している。