8・ 正義と言う名の謀略
アレクサンドラが休日礼拝を訪れていた頃、王太子は自分の執務室に息子二人を呼び出していた。
通常であれば、まだ成人していない王子二人も国民同様この日は休息日である。
あまり広くはない執務室で、父の側近二人が同席する形で親子は向かい合って簡素な応接セットに腰掛けている。
「お話があるなら僕ら二人を私室に呼び出せば事足りるのに、わざわざここに呼び出すという事は、ベリタスとセーラムにも情報を共有しておかなくてはならないという事ですね、父上」
会話の口火を最初に切ったのは次男であるシュテファンだった。
「そうだ」
王はあまり多くを語らないものだ。その意思は側近に伝えられ、下位の者達へと伝達される。将来王位を継ぐべく教育されてきた王太子も、日頃は寡黙な部類に入ると言っていい。
息子の問いかけに返した言葉も、簡潔にして最小限だった。
「まぁ、僕は大体予想はついていますけどね……ティナの中身の事でしょう。僕が母上の部屋に呼び出されたあの日から明らかにおかしいですし」
シュテファンの言葉に、父は口元に愉快気な笑みを刷いた。
「ああ、やっぱりそうなのか。ここんとこしばらく会えてなかったから、お利口になっただけなのかと思ってたんだけどな」
とエルセオンが繋げる。
「アヴィがティナを連れて柩の間に入った。そこで人ならざる者を見たという。アヴィが言うには、それは神の世界に在る者だと。それ曰く、ティナは一度十六歳までの人生を生き、死んで再び今の体に戻って来たと。そして、それはティナ当人も自覚している」
予想外の事だったのか、子供達はそれぞれに驚愕の表情を浮かべた。
「ティナの記憶を詳細に辿って行くと、王家にとって厄介な事が起こる。あくまでティナが見たものしかわからぬゆえ確かな事は言えぬが、それを聞く限りにおいては国と民にも影響を及ぼす。詳しい事はアヴィに聞くと良いが、ティナが十六になった時点で、エル……お前と、サルーン以外の王位継承者は全員死んでいるらしい。城の中に居る者で最初に死ぬのは、お前たちの母だ」
なるほど、と王子二人は納得したように頷いた。
家族として母の死は歓迎できない事柄だが、それよりももっと深刻な事態になる事を、二人は理解していたからだ。
「王族として生を受けていても、せめて立太子するまでは子供であって良いと、俺もアヴィも思っていた。俺もお前たちの母も、子供でいられた時間が短かったからな。だが、そうも言ってはいられなくなった。お前たち、自分の能力を低く見せているだろう」
そう言って、兄弟の父であるカイルラーンはほんの少し眉を上げた。
近代まで近親婚を繰り返してきた王家には、弱い子供が生まれやすくなっていた。その結果が腹違いの弟サルーンであり、幼少期のカイルラーンだった。
武を修めたおかげで頑健になったが、自身の婚姻に際しその血の性質を最も恐れたのは兄弟の父である王太子自身だった。
福音の御子として性別を定められず生まれてきたアレクサンドラは、性自認の転換期までの間、ほぼ男性として生きていた。騎士として武の道に進み、頑健な肉体と精神、明晰な頭脳をもっていた。そのアレクサンドラを妻とした事で彼女が王家にもたらしたもの ――― その最たるものが、健全な肉体と精神を持った子供達だった。
そして、それに付随してきたものがある。長男のエルセオンには武門公爵家である妻の父系の血の性質が、次男のシュテファンには軍略家である妻の母系であるシノン家の血の性質が濃く受け継がれた事だ。
当人達と同年齢時の自分と比べ、その能力は息子たちの方が高い。自由にさせてやりたかったからあえて手を抜いているのを見ぬ振りをしていたが、そうも言っていられない状況になったのだから仕方がない。
「特にシュテファン、フリッツ卿に似ているお前の事だ。盤上遊戯は得意だろう?」
そう言って、兄弟の父は不敵に笑んだ。
「上手く隠せてる自信あったんだけどなー……なんで父上にはわかっちゃうのかな」
「兄上、きっと母上にもバレてます。監視の目が二人分ですよ、僕らの勝目は低いです」
はかりごとが露見したかのように、ふたり揃って悔しそうに言ってのける息子達に苦笑する。だが、それを痛いとも思っていそうにない所が、妻に似ている。現在エルセオンは十二歳、シュテファンは十歳だ。年齢で言えばまだ雛の域にいる自分の息子達だが、末恐ろしいような、頼もしいような、複雑な気分だった。
「いつまでも先達の力に頼っていたのでは、この難局を乗り切ってもあとがないからな。エルセオン、お前は軍部を。シュテファン、お前には人心を掌握してもらう。その為に教育係として軍師であるベンジャミン・キーリスを招く。敵を懐に入れる覚悟で励めよ?」
仕方がありませんね、と二人は父の言葉に頷いた。
「それはそうと、父上はどうなさるのです?」
そう言ってシュテファンは首を傾げた。
父が息子二人に命じた事、それは本来王となるカイルラーンが担うべき性質の事だ。将来的に後を継ぐのだとしても、あまりにも早くそうなってしまえば、父の威光が霞みかねなかった。
「一度目の俺は、自ら死を選んだらしい。二度目の今回は、何としても生きていなくてはな」
そう言って、また不敵に笑んでいる。相変わらず父の言葉は少なかった。
だが、その言葉から分かる事はある。
父の性質上、無意に国政を投げ出すような真似をするはずがない。自ら死を選ぶという事は、その選択には何らかの意味が存在する。追い詰められ、打つ手がなくそうなったのだとも受け取れるが、父当人がその気になれば、側近を伴って隠し通路を使って城から逃げ出す事は可能だったはずなのだ。だが、父はそうしなかった。そして、その選択は父の予想とは違った結果をもたらしたのだろう。すなわち、悪手であったのだ。だから二度目はその選択はしないという事なのだ。
「俺は末期に、アヴィの居ないこの世に何の未練があろうか、と言い残したらしいぞ」
父が言ったその言葉に、父以外の男四人は一斉に吹き出した。側近二人は拳を口元に当てて声を押し殺している。
「ぶっ……とんだ愚王じゃないですか父上」
「末期の言葉があるという事は処刑されたのでしょう? よくもまぁそこまで国政が病んだものですね。わかる者にはわかる王命というわけですね」
王は国政において絶対的な権を持っている。たとえその指示が不条理でも、臣は王命には絶対に逆らえないものだ。ゆえに、本来は王を捕らえる事など出来はしない。
革命によってその地位を追われたのならば、最期の言葉は秘匿されて表には出てこない。勝者にとって敗者の言葉など取るに足らぬもの、あるいは不都合なものだからだ。
自ら死を選んだという事は病死ではなかった事を意味し、末期の言葉が残っているのなら、それは捉えられ処刑された事を意味している。
父はあえて敵には愚王と思わせる言葉を残した。つまりは、その譲位が正当な手続きを踏んだものではなかったという事だ。
「ティナが死んだ世界の父上は俺たち兄妹に国の未来を託したんだな……。父上のありえない末期の言葉を知った忠臣が城の外に出た俺達を担ぐのを期待された。自分の首を切らせる事によって敵の油断を誘い、機が熟す時間を稼いだという事か。死んだとされているシュテフもおそらく生きていた……父上の誤算は、ティナが死んでしまった事ですね」
エルセオンはそう言って、自分と同じ色の父の瞳を見つめた。
「おそらくな。女ゆえティナが何も知らなければ、手は出さぬと踏んでいたのだろう。だが、結局十六で一人孤独に死ぬ事になったのだから不憫でならぬ。二度と同じ轍は踏まぬ」
猶予期間はあと三年だぞ、と父は続けた。
王子二人は、心得たとばかりしっかりと頷いた。
休日礼拝でサミュエルと密約を交わしたアレクサンドラは、その日の午後、サルーンの母であるエリーゼの居室を訪れていた。
エリーゼはアレトニア聖教に帰依し、修道女として世俗と離れた生活をしている。
城内に居室があるとは言え、その生活は質素だ。元々は現王の側妃であったため、修道女となっても市井の教会で暮らせるわけではない。
必要最低限身の回りの世話をする下女がつき、自室で神に祈りを捧げる以外は、縫い物をしたり本を読んだりして生活している。
気まぐれに息子サルーンが訪れる事もあるようで、それを楽しみにしているのだとか。
「いつもありがとうございます、アレクサンドラ様」
その寂しい生活を気にかけて、アレクサンドラは折に触れエリーゼを訪っていた。清貧の教えに従って嗜好品の類を自らの意思では手に入れる事のできないエリーゼの為に、訪れる時は質の良い茶葉と砂糖、それに少しばかりの菓子を持ってくることにしている。
穏やかではあるだろうが、張り合いのない生活。少しでもその慰みになればとの思いだった。
「わたくしが口にしたくて持ってくるのです。エリーゼ様のためではございませんわ」
それでも建前として、訪れた自分が口にしたいから持ってくるのだという事にしている。
客が訪れる事を前提とした生活ではないから、当然そういったもてなしの為の食品は何一つこの部屋にはない。それほどに質素な生活だ。
王太子妃が自分の為に用意し、それを部屋に残して帰ってしまったあと残ったものをどうしようとそれはエリーゼの自由だ。
だが、エリーゼにはその意図は伝わっている。彼女の言葉に、そうですか?と言って、ふふふと楽しげに笑んだ。
アレクサンドラは部屋を尋ねるのに、ミレイヤとサラを連れて来ていた。それはいつもの事なので、サラが持参した物を使って茶の用意を整える。
エリーゼとアレクサンドラは質素なアフタヌーンティの用意の整ったテーブルを挟んで向かい合って座り、ミレイヤは主の席の後ろに立った。
しばらく、互いに物言わず茶を口に含む。元来エリーゼは物静かな女性だった。会話が少ないのはいつもの事なので、それを気詰まりには感じない。
エリーゼが茶器を机に置くのを待って、アレクサンドラは口を開いた。
「今日はエリーゼ様にお願いがあって参りました」
「お願い、でございますか……もちろんわたくしにできる事であればなんなりと。ですが、わたくしでもお役に立てますかどうか」
自分が側妃であったのは過去の事。息子の王位継承権も形だけで、政治に介入できる力など残ってはいなかった。だが、そんな事はこの王太子妃ならば承知しているはずだ。
「革命から既に十年以上が経ちました。そろそろ、陛下の御代の間に恩赦を賜っても良い頃だと思うのです。還俗される事は叶わずとも、ご生家であるロレイン家と連絡を取る事が可能になります」
隣国との戦争終結直後、革命の翌日に起こった国王ディーンの行方不明騒動は、このエリーゼの息子であるサルーンが引き起こしたものだった。
表向きはエリーゼの犯行として処理され、息子の身代わりでその責を負って髪を落として修道女となった経緯がある。
その騒動から既に十年以上が経っている。サルーンがしでかした事は重大だが、それでも誰の命も奪ってはいない。
聖教会に帰依したこれまでの時間も、エリーゼはこの寂しい暮らしに文句も言わず、ただひたすらに懺悔して暮らしてきた。政治的な復権は叶わずとも、もうそろそろ赦され、その立場に見合った名誉を回復しても良い頃だ。
「陛下に恩赦を賜って、その上でわたくしは何をすればよろしいのでしょう?」
「城内に教会を建てたいのです。そしてその教会の司祭に就いて頂きたいのです」
アレトニア聖教では、教門に帰依して十年以上修行を積んだ者しか司祭になれないという掟があった。
「それから、ロレイン地方の教会支部と繋がりを得て頂きたいのです。できれば、寂れて中央からは支援の手が届いていないような支部と」
エリーゼの生家ロレイン家はかつてアレトニア国の国境と接した小さな土地を治める豪族だった。現王ディーンの父である先王の時代にアレトニア国に吸収され、現在はロレイン領としてアレトニア国の領のうちの一つになっている。
エリーゼはその豪族の姫だった。政略結婚でディーンの後宮に入り、国力の関係から正妃としての地位を得る事ができず側妃に収まったという経緯があった。
中央からは離れた辺境にある領だが、吸収されたことによって国教であるアレトニア聖教も形としては受け入れざるを得なかった。
ロレイン族は本来、自然崇拝を信仰する部族で、吸収された今なおその習慣は残っている。
国もそれはわかっているが、国教を無理やり信奉させるような真似はしていなかった。他国の例を鑑みて、宗教弾圧や改宗を押し付けると、それが国を弱体化させる要因になる事を充分に理解しているからだ。
そのおかげか、ロレイン領のアレトニア聖教会の支部は、粗末な建物と名ばかりの司祭が存在するような怪しげなものも多かった。
「何か、お考えがあっての事なのですね」
もうそろそろ赦されて良い、と思っているのはアレクサンドラの本心なのだろう。だが、それを利用して何かを企んでいるのは明白だった。
それにしても珍しい。そういうやり口はあまり好まない女であるはずなのに。
「ええ。わたくしはエリーゼ様を利用します。ご気分を害されるのは承知の上です。それでもわたくしに協力して下さいませ。わたくしを毒殺しようとした時の借りを返していただけますか?」
この王太子妃が王家に嫁して来る前、まだ後宮で騎士として生きていた頃、自分は彼女を毒殺しようとした事がある。革命をおこした現王ディーンの弟であったアルフレッドにそそのかされて。それが息子の為になると信じていた。
その毒殺は未遂に終わった。だからこそ彼女は今ここにいる。
過去の因縁などもうとっくに清算されて、アレクサンドラ自身もそれを気にすらしていなかった。彼女は、髪を落として表舞台から身を引き、寂しい暮らしをしているこの身を気にかけてくれる数少ない人だった。ゆえにそれを理由に脅さずとも、何も聞かず協力くらいしたものを。
それでも何かあった時のために、王太子妃に脅されてやむなく協力せざるを得なかったという事にしておきたいのだ。つくづく、公平な人間だと思う。
「喜んでご協力致しましょう、王太子妃殿下」
アレクサンドラとエリーゼは互いに穏やかに笑いあった。