7・ 未来への布石
母の居室へと戻ると、ソファに座るように言われる。
クリスティーンは母の指示に黙って従った。すると、母も自分の隣に腰を下ろす。
その場にはミレイヤもサラも同席している。母は二人に席を外すようには命じなかった。
アレクサンドラは真剣な面持ちで、クリスティーンの瞳をじっと見つめて口を開く。
「クリスティーン、あなたの語った未来が現実に起こった事だというのが証明されました。あなたの言葉を信じていなかった訳ではないけれど、柩の間の守護者を見るまでは、どう対処すべきか決めかねていました。わたくし達が動くという事は、それに付随する様々なものを動かしますからね」
母の言いたいことはよくわかる。国家運営は不確定な子供の言葉一つで動かせる程軽いものではないからだ。
「おそらくもう、わたくしたちのあずかり知らぬ所で、事は最悪の事態に向かって動き出しているのでしょう。父様が弑されるとあなたが言った時期まであと八年です。それまでにわたくしたちは敵を排除し、国と民を守らねばなりません。今のあなたの身体は子供でも、中身はもう大人です。ですから、一度目の人生で受けた教育はやめましょう。それだけの時間が惜しい。とは言え、できる事には限りがあります。あなた達兄妹の教育係に、ベンジャミン・キーリスを招きます」
「ベンジャミン・キーリス様、ですか?」
「ええ、彼は現在陛下の師団であるクレスティナ師団で副師団長を勤めています。我が国で、わたくしの祖父フリッツ・シノンに次ぐ知略家です。人の心を読み、戦いにおける好手悪手を様々な要因から導き出すのに長けた人物です。わたくしたちは、もう負けることは許されないのです。だれが敵か味方か分からない状態の政治の世界において、最後に頼みにできるのは自分の力だけです。力が欲しいと言ったあなたにわたくしが確実に授けてやれるものはこれくらいしかありません。あなたに穏やかな人生を全うさせてやりたかった。けれど、背負った星は変える事はできません。あなたをこの世に産み落としたわたくしを恨みなさい。それでも、どうか自分を呪ってしまうことだけはないように。最後は笑えるように、よく、お励みなさい」
自分を見つめた母の眉間が、苦痛を訴えるように歪んでいた。それだけで、いつも穏やかな笑顔を絶やさない母の苦悩が見えるような気がした。
「母様……。はい、精一杯努力致します」
母の手が伸びて来て、腕の中に包まれる。
ギュッと込められた力は、思った以上に強かった。
夜、アレクサンドラは夫カイルラーンとカウチに座っていた。
身を寄せ合って、昼の出来事について話しあう。
「そうか……予知夢ではなく、現実に起こった事というわけか」
「ええ、この目で人ならざる者をはっきりと見ました」
ふむ、と夫は考え込むようにして腕の中の妻の髪に口元を埋める。
「ティナが言ったように近衛が固めた馬車を襲撃して、お前の命までとなると、相当な手練になる。それだけの兵力を要するとなると、他国か? だが、そうであれば俺は軍を動かしただろう。それに、葬儀というイレギュラーな事態を他国の者が把握出来たとは考えにくいな」
「ティナの即位に際して、新法王が後ろ盾についたと言っていたでしょう?」
「ああ、そういう事か。……実行犯は修道騎士か」
「おそらく」
国教アレトニア聖教ではその教義に基づいて、死、破壊、消滅、断絶を忌避し、教会施設内で諍うこと、争いによる暴力を禁じている。
だが、何事も例外というものは存在する。
他国からの侵略戦争が盛んだった時代において、民衆の拠り所となったのは宗教であった。不安定な情勢の中、高位聖職者が経典の説法をするのに各地を巡るのに、その身を護るために修道騎士は存在していた。戦いの時代は終わり、その変遷とともに規模こそ縮小しているが現在も組織としては存在している。
国軍とは違う武力。当然その戦闘方法は通常の騎士とは全く異なる。教義ゆえ彼らは死を恐れない。騎士の剣は護る剣だ。王を護り、民を護り、仲間を護る。だが修道騎士の剣は信仰のためだけに存在する。
自身が傷つく事を恐れず、守らず、死すら覚悟の上で戦うと聞いている。死を恐れず守らない剣ほど強いものはない。
そして、貴族の葬儀には必ず聖職者が同席するものだ。アレクサンドラ襲撃にアレトニア聖教会に属するものが関係しているのは間違いがないだろう。
「ええ。サミュエル猊下の死についてはっきりしたことはわかりませんけれど、おそらくわたくしの母と祖父二人は自然死でしょう。ですが、敵にとっては都合の良い死であった事は確かなはず」
稀代の知略家と言われたアレクサンドラの外祖父フリッツの頭脳は、老いてなお健在だった。生きてさえいれば、孫娘のためにその頭脳を使っただろう。そして、同じく騎士爵を持ったもう一人の祖父グスタフもまた軍部への影響力は大きい。それはアレクサンドラの生家であるローゼンタールの名を持つもの、その影響力下にある者全てが王太子妃に力を貸すという事に他ならなかった。
「カイル、政教一体の我が国において、王家を転覆させるのに効率が良い事はなんだと思いますか?」
「それはまぁ、王家の神性を否定する事だろうな。俺たちは神の末裔とされているが、それ自体が最初から嘘であったと信じ込ませればいい。……そうか、だからお前が最初だったのか」
「ええ。女神の祝福を受けたとされるわたくしは邪魔だったはずです。偽の神の末裔に生きた聖人とされているわたくしが嫁している。神性を担保する存在でしかないわたくしと猊下があなたよりも先にいなくなっていれば、王家の神性を否定するのにちょうどいい」
「聖教会に切り込まねばならんのか……厄介だぞ」
「ひとまずわたくしは猊下に会って参ります」
妻の言葉に、夫は「わかった」と頷いた。
「今は忙しすぎて身動きがとれん。お前にばかり負担を掛ける」
「熱烈な愛の言葉を未来から受け取ったのですもの、これくらいの事、負担でもなんでもありませんわ」
――― アヴィの居ないこの世に何の未練があろうか。
妻の言葉に一瞬口の端に皮肉な笑みを浮かべたあと、意趣返しをするようにカイルラーンはアレクサンドラの唇を奪った。
唇を放してコツン、と妻の額に自分のそれを重ね、口を開く。
「未練を残さぬようにしておかねばな」
そう言ってニヤリと笑った夫に、思わず吹き出してクスクスと笑う。
長い夜が、始まった。
アレトニア国王都サンスルキトにある国教聖教会の聖堂で休日礼拝が開かれていた。
その聖堂に、珍しい人物が訪れている。
聖堂の扉が閉まる刻限に滑り込むようにして入って来たのは、この国の王太子妃であるアレクサンドラだ。
彼女は護衛騎士である男女の近衛を一人ずつ伴っていた。
王族が休日礼拝に訪れるのは珍しい事だ。本来なら、出向かずとも直接城に聖職者を呼びつける事ができる身分だからだ。慶事に対する祝福を授かる事も、通常ならばそうして行われる。
だが、この王太子妃アレクサンドラに限っては、それはなんらおかしい事ではない。
福音の御子と呼ばれる彼女は、まだ母親の胎内にいた頃に、聖堂の壇上に立つ法王サミュエルから女神アレシュテナの祝福を授かっていた。
彼女自身も敬虔な信徒であるとされ、サミュエルとの結びつきも深い。頻繁にではないが祈りを捧げるために王太子妃が折に触れこの場所を訪れる事は、アレトニア聖教を信奉する者ならば知っている。
礼拝に訪れた者は聖職者から経典の一節を祝福として授かるが、アレクサンドラはいつもそれを辞退していた。
祝福を授かるなら、貴人ゆえ誰よりも最初になる。社会構造上序列あることは致し方のないことだが、聖職者を直接城に招く事のできる身分でありながら下位者に先んじる事を好ましいと思えないからだ。
アレクサンドラはいつものように聖堂の一番後ろの席に静かに座って祈りを捧げ、礼拝の全ての行程が終わるのを待っていた。
礼拝に訪れた者達がサミュエルから祝福を授かったあと、聖堂に集った者全員で聖歌を歌う。それが礼拝の全てだった。
人々がアレクサンドラに会釈しながら聖堂を出ていくのを座ったまま見送って、信徒がいなくなったのを確かめてから席を立った。
アレクサンドラは壇上を降りて待っていた法王サミュエルの元へと進んだ。
「猊下、お久しぶりでございます」
「王太子妃殿下、お変わりないようで何よりです」
サミュエルは孫が訊ねてきた祖父のような眼差しでアレクサンドラに笑んだ。
「今日はご相談があって参りました」
「さようですか……それならば、庭園でお伺いしましょう」
教会の中庭にあたる庭園の木陰にあるベンチに移動して、二人はそこに腰掛ける。
護衛騎士はいつものように、アレクサンドラの後ろと、人の出入りの見える場所に立った。
おもむろにアレクサンドラは話し始める。
「わたくしの娘クリスティーンが、神の導きを得ました」
アレクサンドラのその言葉に、サミュエルは一瞬驚いたような表情をしたあと、心底嬉しそうに笑った。
「それは誠に喜ばしいことです。さすがはあなたのお子というべきでしょう」
「それが、素直に喜べる内容ではないのです……このまま手をこまねいていれば、おそらくわたくしは三年後に命を落とすでしょう。神の御前に還る事がわたくしの運命であるのならば、それも致し方のないことです。けれど、それによってこの国は多くの犠牲を払うことになる可能性があるのです」
硬い表情のそうまま述べたアレクサンドラに、サミュエルは怪訝な表情を浮かべた。
この貴人とは長い付き合いだ。それこそ彼女が母の胎内にいる時からなのだから。その性質は思慮深く、賢い。何の根拠もなく、また私利私欲のためにこのような事を言う人間で無いことは知っている。
「娘が言うには、猊下もわたくしも近い将来神の御前に還るというのです。そのせいで国政は乱れ、王族の殆どが死に絶えると。もちろん夫も例外ではありません。誰かの手に委ね、国を上手く治めて行く事ができるのならそれも良いでしょう。けれど、娘の話を聞く限りではどうしてもそうは思えないのです。娘が十六になるまでに、変革は急速に進みます。時代が変わって行くには、緩やかな流れが必要でしょう。強すぎる潮流は、多くの物を犠牲にして、その勢いに巻き込んで跡形もなく押し流してしまう。後に残るのはその残骸だけです」
想いを馳せるように遠くを見つめたまま、アレクサンドラはそこで口を噤んだ。
「確信がおありになる、という事は分かりました。それで王太子妃殿下、あなたが私にお望みになられる事とは何ですかな?」
「神の御前にお還りになられる前に、再びわたくしに祝福を授けていただきたいのです。できれば三年後までに……福音の御子は神の意思によって御前に還る事になる、と」
法王サミュエルは大きく目を見開いた。
アレクサンドラが言わんとする事。それは、嘘の福音を授けよ、と言うことだ。
彼女が胎児であった頃に授けた福音は確かに神からもたらされたものだった。サミュエルは自身の恥じることのない信仰心に従って、それを確かなものだと信じている。その証拠に、この目の前の貴人は男性から女性へと転換したという経緯がある。
だが、自分達以外の者にとって、それは目に見えないものだ。真実など確かめようもない。
「それは、御自身の死を予言される事に等しい……それで御身に何の利がありましょう。もしや国のために殉ずるおつもりか」
「万一のときのために、布石を打っておきたいのです。わたくしとて死にたくはありません。やり残したことが多すぎますから……それでも、それが民のために必要な一手であるのなら、わたくしの命など喜んで差し出しましょう。それが王家に嫁したわたくしの責務です」
年老いて暑さ寒さには鈍くなってきている。それでも額から、汗が一筋伝い落ちて行くのを自身で感じる。
アレクサンドラの言わんとする事、思い描いている絵がおぼろげに見えたからだ。
政教一体とはいえ、本来聖教会と国政は互いに不可侵だ。そうであるにも関わらず、この王太子妃は政治に信仰を利用しようとしている。それはつまり、政治を信仰が脅かす懸念があるという事だ。己とアレクサンドラが神の御前に還ったあとの事を想定すれば、聖教会と武門公爵家の影響力を失った王家に何が起きるのかを思い浮かべる事はそう難しくない。
アレクサンドラにとって死が避けられないものならば、それを不慮の事としてではなく福音による必然である事にしておきたいのだろう。王家の神性を維持しておくために。
福音で死を授けたとしても誰も傷つかない。それでもこの王太子妃が権を握り込むためだけに己との結びつきを利用しようとするのなら、その願いを叶える事はなかっただろうと思う。彼女の覚悟を信じよう、とサミュエルは思った。
「王太子妃殿下のお心に沿うように致しましょう。私はあなたを信じます」
「もしかしたら、わたくしこそが悪であるのかもしれません。ですから、お信じにならないで下さいませ。わたくしは自らが信ずる道の為に猊下を利用します。その為に必要ならば、詐欺師にも咎人にもなりましょう……黒く染まる事も厭いません」
「たとえ誰もがあなたを責めようとも、私があなたを赦しましょう、王太子妃殿下」
ありがとう存じます、とアレクサンドラは深く頭を下げた。
彼女の王太子妃としての立場を考えれば、それは許されざる行いだった。
それを失念するようなアレクサンドラではない。その行為に、サミュエルは覚悟をもって罪に踏み込んだ彼女の懺悔を見たような気がしていた。