5・ 幸福な日常
クリスティーンは寝台の上で目を覚ました。
まだ夜は明けていないのか、部屋の中はほんのり薄暗い。
もぞり、と寝具の中で身じろぐと、視線の先に誰かの鎖骨が見えた。
見覚えがあるような気がして見上げると、そこに父の端正な寝顔がある。
柩に収められていた父の遺体よりも、若い気がする。そしてすぐに、それは当然の事なのだと思い出す。なぜなら、今の自分は八歳だ。物言わぬ父と久方ぶりの対面を果たしたあの時、己は十五歳だったのだから。
いつの間に眠ってしまったのか分からないが、一日ずっと母と一緒に居たのを覚えている。仕事の邪魔をしたというのに、母はそれを咎めはしなかった。
思う存分泣かせてくれたし、遡る事のできる記憶を話した事も、悪い夢だと切って捨てはしなかった。嘘だとも信じるとも言わなかったけれど、心細く不安を抱えて歩んだ五年分の思い出を受け止めてくれた。
思えば十一で母を喪ってから、常に心は張り詰めたままだった。城の中から信頼できる人間は姿を消して行き、最期の日が近くなる頃にはサラさえ遠ざけられていた。
母の腕に抱かれていると、言いようのない安堵感で胸が一杯になった。自分は母の温もりを何よりも求めていたのだ、とこうなって初めて自覚した。
父が隣に寝ているという事は、母もこの寝台にいるのだろう。
クリスティーンはもぞもぞと動き、反対側へと寝返りを打つ。
思った通り、そこには母の姿があった。それに気を良くしてふふ、と笑うと、母の瞼が開いて視線が合う。
「おはようティナ。よく眠れた?」
そう言って伸びてきた母の手が愛しげに額から頬を撫でる。
「母様、起こしてしまってごめんなさい」
起こしてしまった、と申し訳なさから眉根を寄せると、母は良いのよ、とクリスティーンの小さな体を抱きしめてくれる。
「お腹は空いてない? 父様には内緒で母様とお菓子を食べましょうか」
そう言って、母はいたずらっ子のように覗き込んで来る。その様子に思わず笑った所で背後から父の低い声が響く。
「抜けがけは良くないな……平等に三等分だ、アヴィ」
その言葉に再び体を父の方へ向けると、いつの間にか父は頬杖をついていた。
「父様」
おいで、と父が言うのに笑顔で頷いて、体を寄せる。迎えにきた腕の中にしがみつくようにして包まれると、母の腕の中より広かった。
母様にするみたいに、おはよう、と額に口づけてくれる。
うんと小さい子供みたいに、行くか、と父に抱っこされたまま寝台を降りて母の居室へと移動する。
元々の自分の体に返ってきたのだとしても、記憶は十六まで生きたまま固定されている。だから本当は少し恥ずかしい。
けれど、死の間際に帰りたいと渇望した幸せな過去だから、八歳の自分を享受することにした。もしかしたら、この幸せな過去も明日には崩れ去ってしまうのかもしれないから。
親子三人寝衣のまま、母手ずから淹れた茶と茶菓子で夜明けまで過ごす。朝になって起こしに来たバファとサラから、揃って小言を頂戴するハメになった。
朝が来て身支度を整え、父は政務のために部屋を出て行った。それを母と二人で見送ってからしばらくすると、兄シュテファンが母の部屋を訪れた。
午前中に外す事のできない仕事があるから、その間はシュテフ兄様と遊んでいなさい、と母は言う。
自分の記憶が確かならば、八歳ならばもう兄も自分も王族として必要な教育は始まっていた。それを疑問に思って問うと、しばらくの間お勉強は休みで良いのだという。
ティナには心の休息が必要なのよ、と母が言うので、ありがたくそれに甘える事にした。
正直な所、まだ気持ちの整理はついていない。一度目の人生の時、母は自分が十一歳の時に亡くなっている。過去へと時間が巻き戻った二度目の今、一度目と同じようになるとは限らない。それでも、手をこまねいていたのでは、再び同じ事が起こるような気がしている。それをどうしても回避したかった。けれど、十六まで城の中で暮らした経験があっても、どうやって動いて行けばそれを回避できるのか、見当もつかなかった。
「おはよう、ティナ。どうかしたの? まだ元気出ない?」
二つ年上の兄は、今は十歳だ。旅立って行ったあの時よりもずっと幼くて小さかった。変声期途中のまだ子供の声。それでも、優しい笑顔と気性は一度目の人生の時と違わない。
もう二度と会えないと思って居た兄に再会出来たことは、純粋に嬉しい。
「ううん、シュテフ兄様と遊べてうれしい」
そう言って笑って見せると、兄も嬉しそうに笑う。
「何して遊ぼうか」
そう聞いてくるのにしばらく迷って、クリスティーンは口を開いた。
「秘密基地ごっこ」
いいね、とシュテファンが応じた。
義弟の部屋を出たアレクサンドラが昼前に帰室すると、そこに子供たちの姿はない。
シュテファンがついているからサラには部屋にいなくて良いとは言ってあったが、あのいたずらっ子達はどこに行ったのだろう。おおよその検討はついているが。
「姫様とシュテファン様はどちらに行かれたのでしょうね」
帰室するのに付き従って来たミレイヤが思案してそう言うのに、アレクサンドラは薄い笑みを浮かべる。長子エルセオンが赤子だった頃に王太子妃付きの近衛として彼女が配属されてきた当時は、自分や子供達の誰かが姿をくらませれば慌てふためいていたものだ。人間慣れるものである。それを成長というのかもしれないが。
「多分、バルコニー伝いで樫の木に登っているわ」
主の言葉に、ああ、とミレイヤも得心する。
専属の教育係による本格的な王族教育が始まってからは遠ざかっていたが、子供達はみなあの大木に登るのが好きだ。
落ちたら大事だと言うのに、見つかったら叱られるのを承知であの木に登りたがる。
上の男子二人はともかく、クリスティーンまでもがそうなのは淑女としてはしたないからやめさせるべきなのかもしれないが、自分の幼少期などもっと淑女としてはあるまじき事ばかりしてきた自覚があるから、あまり強くは言えないのだった。
特に娘の記憶が複雑な今は、心を落ち着かせるためにもあまり制限はしたくなかった。
「着替えて迎えに行くわ」
さすがにスカートでは木に登れない。
タイミングよく様子を見に来たサラに乗馬用の着替え一式を用意させ、アレクサンドラは着替えてミレイヤと共にテラスへと向かった。
お気に入りの木の太い幹に兄と二人で座っていると、そこに母が迎えにやってきた。
小言めいた事は言われたが、本気で怒りはしなかった。苦笑したあと、手が伸びてくる。それにしがみつくようにして体を預ける。ひとりでも降りる事はできるが、今は母に甘えたい気分だった。
婚前は騎士として生きていた母は、今でも体を動かしていないと落ち着かないと言って、鍛錬を怠ってはいないらしい。時間があれば剣を振り、修練場で女性近衛相手に打ち合いもするようだが、現役を退いて十年は経っているのにミレイヤは未だに母に勝てないと言う。おかげで母は身軽だ。こうして自ら木に登ってしまうくらいに。
その鍛錬の結果があの雨の日に繋がっているのだとしたら、はたしてそれが良い事なのかは分からない。
けれど、それを指摘した所で、きっと母は習慣をかえようとはしないだろうと思う。母はそういう人だから。
未来を変えようとするのなら、周囲を変える方向に動くより、まずは自分が変わって行かなくてはならないのだ。無知だった自分。弱かった自分。母が亡くなったくらいで臣に侮られていた自分。
母に抱かれながら部屋に戻る途中、良い匂いのする首元に顔を埋めて呟いた。
「母様、わたくし、力が欲しい……母様みたいに強くなりたい」
「そうね、強くなければ誰も救えない。でも、弱い事は悪い事ではないの。強さと弱さは一枚の紙の裏と表のようなものなのだから」
母がどんな顔をしてそう言ったのかは分からなかった。そしてその言葉も、クリスティーンには酷く哲学的に感じられておぼろげにしか理解する事はできなかった。
昼になって父が昼食を摂るために自室へと戻って来たのにあわせて、一番上の兄エルセオンも母の部屋に顔を出した。今は親子五人揃って、母の私室で昼食を囲んでいる。
本来なら、父も兄も王位継承者として忙しい。だからこうして五人揃う事が珍しかった。
兄の立太子が近付いているのもあって、現在は軍部の再編が行われていた。
アレトニア国には七つの師団がある。現在父が率いている師団は王直属としてそのまま残るが、それ以外の六師団から兄エルセオンが率いる師団を整えなくてはならない。
アレトニア王族の直系は、国の基となった神話の星の名前と、その星を模した御印を受け継ぐという慣習がある。
父はシルバルドの星を、兄エルセオンはギルウェストの星を受け継いだ。七つある師団の名もそれに由来し、エルセオンは立太子後からギルウェスト師団を率いて行く事になる。
母も出征していた隣国との戦いの折、ギルウェスト師団はその警戒区域であった辺境スルソーニャに駐屯していた。
交渉の要として隣国に関わる全権を委任された辺境伯イヴァーノ・シュペが師団長を兼任して率いていたが、戦後処理も終わって十年以上が経過し、隣国との再戦はもうないと判断して師団そのものは城に帰還してきていた。
イヴァーノと数人の士官はそのまま現地に残って隣国との窓口となって領を治めて行くことになる。ゆえに現在ギルウェスト師団は長不在の状態だった。
騎士は肉体のピークというものがある。故にこの軍部の再編に合わせて各師団の正副師団長が少将以上の名誉職へと格上げされ、師団長の顔ぶれも一新される。
その軍部の再編に、もちろん兄は次期王太子として関わって行かなければならなかった。
立太子して一師団を率いてゆくのに、王子とはいえ十代の若造が組織を掌握できるほど騎士の世界は甘くない。
エルセオンは立場上ギルウェスト師団長となるが、実務面で師団を任せられる者が必要だった。王族とは言え人間である以上、どうしても相性というものがある。各騎士団を巡って自分の目で騎士を見定め、父カイルラーンの助言を受けながら軍部での副官となる士官を探すのである。
軍部を掌握できてこそ国政を御して行けるのだというのがアレトニアにおける統治の基本で、兄エルセオンは武術を学びながら、帝王学も同時に勉強しているという状態だった。
午前中に剣術指南を受けていたとかで、育ち盛りの兄は凄まじい勢いで昼食を平らげている。
それに目を丸くしながらクリスティーンは口を開く。
「エル兄様……そんなにお腹空いてらっしゃるの?」
「うん。食べても食べても腹が減る。何でだろうなぁ、不思議だな」
食事のマナーとしてはいささか行儀が悪いのだろうが、家族ばかりなのを良い事に、お構いなしに大口をあけている。
外でこれならダメなのだろうが、こう見えてエルセオンはそつのない所があるので、父も母も大目に見ているようだ。その証拠に、母が苦笑しながら手をつけていなかった自分の料理の皿を兄の近くに置いてやっている。
母が甘いのを良い事に、兄はその皿に嬉々として取り掛かっている。
「エル兄様、わたくしの分もお食べになる?」
末娘の可愛らしい提案に、その他の家族が一斉に吹き出した。
「母上は太っちゃうのが嫌なんだってさ、ずっと父上に綺麗だって言ってもらいたいから。ティナはちゃんと食べな。お前も大きくならないとな」
そう言って隣に座った兄がニカッと笑い、手が伸びて来て頭をくしゃくしゃと撫でる。
「エルセオン、適当な事ばかり言わないのですよ」
母が兄の言葉にげんなりとした表情を浮かべている。
「兄上それよりも、母上は騎士だからと言うべきかと」
「ああ、なるほど! それは良いな。今度からそう言おう」
悪知恵ばかり働く息子達に苦笑しながら、母は諦めたようにパンをちぎっている。
そんな子供達のやり取りを、父は何も言わず穏やかな眼差しで見守っていた。