4・ 時を超えた英雄
アレトニア国の王位の継承は例外を除き、当代から数えて二代後の王位継承者が立太子する事で完了する。すなわち、現王太子の子であるエルセオンの立太子と、カイルラーンの戴冠は同時に成されるという事になる。
王位継承第二位であるエルセオンは現在十二歳。慣例に従うと、概ね十五歳前後での立太子となるため、カイルラーンは父王ディーンからの本格的な政務の引き継ぎの移行期間に入っており、多忙も極まっていた。
夫の政務の調整をするのが面倒で、結局アレクサンドラは自分付きの近衛であるミレイヤを伴って義弟サルーンの居室を訪れていた。
結婚した当初は正寝に近い内宮の一角にあったサルーンの私室は、古書研究に没頭するうちに、柩の間に程近い内宮の外れに移動していた。
居室の扉を叩くと、内側から義弟の声が返ってくる。扉前に詰めた近衛が扉を開けるのに従って、アレクサンドラとミレイヤは部屋の中へ入った。
元々この場所は居室として想定されて作られた部屋ではなかったから、本来の使用目的である倉庫としての趣が強い。
部屋の主であるサルーンは気にならないようで、殺風景な部屋にうずたかく紙の資料や本が積まれている。
「珍しいですね義姉上、どうかなさったのですか」
そう言って、部屋の奥に立ち古い巻物を広げていたサルーンは義姉の方へと顔を向け屈託のない笑顔を浮かべた。
幼少期から変わらぬ銀色の髪と薄紫の瞳を持つこの男は、成人男性としてはやや痩せ気味だ。実母エリーゼに似たのか、儚げな印象を与える美形でもある。
「あなたに訊ねたい事があって来たのです」
サルーンは義姉の言葉を受け、手にしていた巻物を本が乱雑に置かれた大きな机の上に載せた。
部屋の隅に置かれている気休め程度のソファへと手を流し、あちらへ、と客を誘った。
そのソファと対になっているセンターテーブルの上にも、古書が数冊積まれている。
姉弟はテーブルを挟んで向かい合って座った。ミレイヤはアレクサンドラの席の後ろに立った。
「それで、僕にお訊きになりたい事とはなんです?」
アレクサンドラは義弟の瞳を真っ直ぐに見つめた。
「今の待遇に不満はないのですか、サルーン」
アレクサンドラの問いかけの意味を測りかね、サルーンは怪訝な表情を浮かべる。
「義姉上の意図は量りかねますが、王位の継承に興味はありませんし、妻帯しないのも僕の意思です。兄上との婚姻前の事を言っておられるのなら、僕の手持ちの駒はあの時に使い切ったと言っていい。今更どうなるというものでもないですしね」
「では、今有効な駒が手に入るのだとすればどうです?」
「兄上からあなたを奪って、僕が実権を握りたいか……という意味ですか? 今更そんな熱もないですよ。母上に実権があれば可能だったかもしれませんが、僕には後ろ盾がない。政治力学的に、僕が実権を握るには誰かの傀儡になるしかないわけで、その状態で王位に着くぐらいなら趣味に没頭している方が余程気楽でしょう。義姉上の心は完全に兄上にしか向いていないのに、わざわざリスクを犯してあなたを奪う意味も感じられない。ご存知でしょう、僕が性的に不能だということを」
この義弟は、幼少期から人の心の裏側を読むという事ができない性質だった。今は年齢を重ねた分多少はマシになったようだが、それでも本質的に人の心の機微に疎いところがある。それは己の感情を説明する事も同様で、いくら義姉とはいえ女性であるアレクサンドラに対しても明け透けだった。ゆえに裏表がない分わかりやすいとも言えるのだろうが。
「それを僕にお訊きになるという事は、そういう懸念がある、ということなのですね?」
サルーンの問いかけに、アレクサンドラは諦めたように小さく息を吐きだした。
再び義弟の瞳を直視して口を開く。
「以前あなたに聞いた"ハイルデンの英雄"について訊きたいのです」
思わぬ話題が出たな、とサルーンは顎を揉んだ。
王家主催の茶会や夜会等、どうしても王族として出席しなければならない行事がある。一年の内に片手に満たないほどだが、それでも参加してしまえば手持ち無沙汰なものだ。
父や兄夫婦のように外せない社交があるわけではないし、パートナーもいないので女性をエスコートする必要もない。
甥姪の相手をしたり、自席に休憩に帰ってきたこの義姉と盤上遊戯を打ったりして適当に時間を潰すのがいつもの流れだ。古書に記載のあったそれを話題に出したのも、そんな折りだった。随分前に話したそれを、この義姉はよく覚えていたな、と思う。
「今でいうハシャトリムの近くですが、そこにハイルデン王国という王政の国があったようです。千年以上前の神話に出てくる国の話ですから、それが真実なのかはわかりませんが。人間が地上で覇権を握る前は、三つの種族が存在していた。人間、獣、半神種。この獣、というのも今でいう野獣の類ではなく、人の手には負えないもっと凶悪で禍々しいものであったようです。僕ら人間は穀物や果物といった植物だけではなく獣肉を糧として食べますが、それと同じように半神種は人間を糧として食べていた。その代わり、人間の手に負えない獣を上位種である半神種が追い払っていた。けれど、最下種であった人間は、いつも獣と半神種に怯える生活を強いられていた。その時代に終止符を打ったのが、ハイルデンの英雄といわれている人物ですね。聖遺物である浄化の剣を使って大地にはびこる獣と半神種を一夜にして駆逐した。その事で英雄となったのだ、と」
「でも、今はその国はありませんね。当時の王都がハシャトリム周辺にあったと仮定して、アレシュテナ聖教国に吸収されたのだとしても、系譜としてハイルデン家は残っていない。どうしてです? 本来人類の英雄であれば、覇権を握ることだってできたでしょう?」
「今の国家規模でいうと、一つの大陸に小国が複数あって、そのうちの一つの国に英雄が誕生したとして、それでどこまで覇権を握れますかね……外敵の脅威に怯えなくて良くなったのはどこも同じですから、あとはどこまで軍拡できるかが物を言う時代だったのではないかと。群雄割拠の時代なら、他国に飲み込まれて民族浄化の憂き目にあったと考える方が自然では」
なるほど、と義姉は呟く。
「僕は、アレトニア王家の祀る神アレシュテナが、半神種だったのではないかと考えています。多くの文献に散見されるのですが、ここサンスルキトは呪われた地と呼ばれていたようです。古語でサンスは昼を意味し、ルは接続語、キトは殺すという意味になる。つまり、日没という意味です。そこに王都を置くというのはなかなかに不吉でしょう。夜を意味する場所に国を興す……それが意味するところは、創始の王族にとって夜は忌むべきものではなく神聖なものだったということです。そして、半神種は夜の力を持っていたと多くの古書に記載されている。英雄が駆逐したはずの半神種の末裔が国を興す……奇妙な齟齬ですね」
そこまでを説明して、サルーンは一息ついた。
会話が途切れたというのにアレクサンドラから何も返ってこないので、彼女の求める情報と合致しているのか分からない。
この義姉は昔から頭がキレる。打てば響くような会話が常だから、こうして考え込んで黙ってしまうのは珍しい事だった。
「少々話は逸れましたが、義姉上はどうしてそんなにもハイルデンの英雄が気になるのです?」
問いかけに一瞬口を開きかけてやめる。そんな迷うような様子を見せたあと、アレクサンドラは意を決したように口を開いた。
「荒唐無稽と言われるかもしれないけれど……クリスティーンが十六歳までの人生を生き、死んで戻って来たと言うのです。実際には、予知夢のようなものではないかと、わたくしもカイルも思っているのだけれど」
「その予知夢に出てくる訳ですね? ハイルデンの英雄が」
「ええ。ティナが言うには、わたくしの祖父フリッツの死が最初の引き金であったような気がする、と。順に外祖父フリッツ、母マリィツア、わたくし、祖父グスタフ、カイル、シュテファン、陛下……そして、十六歳の誕生日、女王として即位したその日に最後は自分が夫となったクリストファー・エル・ハイルデンという名の赤毛の男に殺されそうになった、と。得体の知れない夫に理由も分からぬまま殺されるならば、己の手で、とわたくしの形見の短剣で命を断ったと」
義姉の言葉に、サルーンは目を見開いた。詳細は省いているが、アレクサンドラの言った事が現実に起こるなら、それは国家転覆を意味している。
女性であるクリスティーンが王位を継承するには、自分以外の王位継承者が全員いなくなっていなければならない。
「エルの名前が出ていませんね」
「エルセオンは陛下を弑した嫌疑をかけられ、アルラッセ少将と共に出奔したと。だから、法王ジェームズの後押しを得て即位する事になった、と言うのです。傀儡であることは分かっていた。それでも民に何がしかの利をもたらしてやれるのならばと思って婚姻を承諾したと」
「その相手がハイルデンの名を持つ男……ですか」
この義姉がこうして自分の元にやって来たのが腑に落ちた。
確かに自分以外の人間には、到底信じられるような話ではない。ややもすれば、クリスティーンの母親がこのアレクサンドラでなかったなら、悪い夢を見たのだと、それで片付けられて終わりだったはずだ。それくらい、荒唐無稽な話だった。
だが、目の前に座るこの義姉は、福音の御子と呼ばれ、国が祀った女神アレシュテナの祝福を受けたとされる女性だった。
その福音を授けたのが現法王のサミュエルである。国教聖教会の頂点にある人物が自ら認めた、生きた聖人とされるこの義姉は、その生家が公爵家ということもあって政治力学的にこの国にとって重要な重石であるのだ。宗教が国政と密接にある関係上、法王の権もまた大きい。アレクサンドラがアテになどしていなくても、法王は彼女の後ろ盾であると人々は見る。
予知夢の中のクリスティーンが十六歳時点で法王が代替わりしているという事は、おそらくその時点でサミュエルは亡くなっている。
兄カイルラーンが亡くなるまでに、法王とこの義姉が亡くなっているのなら、その時点で王家は聖教会と公爵家の影響力を失っている事になる。
それだけで王家が崩れ去るわけではないが、その後の席についたものが意図をもってアレトニア王家の敵に回れば、相当厄介な事になるのは想像がついた。
起こりえないことだが、万が一にも起こってしまえば、予知夢通りに進む可能性は高かった。
保守派だとか中立派だとか、そんなわかりやすいものが敵ではない。
何者かすら分からぬ神話の時代の英雄が、国家転覆を狙って国教を操って王家を滅ぼさんと動く。
それが民族浄化の憂き目にあったハイルデン王家の宿願ならば、その計画は一体いつから始まっていたのか。
現実に起こりうると仮定して動き始めるのならば、もう既に手遅れなのかもしれなかった。
「義姉上が僕を疑うのは無理もありませんね……僕は過去に弓を引いた実績があるし、古語の研究をしていて古代の事も知識がありますしね。現実にそれが起こりうるとしても、僕は敵にはなりえません。敵の意図がアレトニア王家簒奪による王族浄化なら、僕の命だって危ないでしょう。ティナの死亡者リストに僕の名前が出てきていないのは、僕の利用価値が薄かったからですよ。おそらくティナの後に殺されるでしょう」
「わたくしもそう思います」
義姉は硬い表情でそう返した。そう思っていながら確かめずにはいられなかったという事なのだろう。それも無理からぬ事だ。
事の危険性を考慮すれば、身内の裏切りが一番ダメージが大きい。
「そうそう義姉上、長い間疑問だったでしょう? ティナの瞳の色。最近アレシュテナの夫と思しき人物の日記のような物が出てきましてね。そこに記載があったのです。時を超える前の妻の瞳は血のような紅だった。今の金色の瞳も私は好きだけど、というようなね」
アレクサンドラは珍しく驚いたように目を見開いた。
「時を超える……それに血のような紅い瞳。奇妙な一致ですね。おそらくティナは先祖返りでしょう。ティナを連れて柩の間に入られてはどうですか? もしかしたら何かわかるかもしれませんよ。人知を超えた力の働く部屋です。何が起こってもおかしくはない」
義弟の提案に、アレクサンドラは硬い表情のまま頷いた。