2・ 幸せだったあの日に帰りたい
晩餐を終え、居室の応接セットの一人がけのソファに、膝を抱き込むようにして座りこむ。肩に頬を載せてぼんやりしてしまう。
母を亡くしたあの日から、ずっと周囲の様子がおかしかった。あまりにも人が死にすぎる。母を除き、それぞれに死の理由について不審点はない。
それでもあまりにも整然と用意されたシナリオに添って、来るべき時になるべくして何者かに殺されているような気がしてならないのだ。
そんな恐ろしい事ができそうな人間など、クリスティーンが知る限りにおいて一人しかいない。だが、その人物は既にこの世にいない。母の祖父にして稀代の策士と言われたフリッツ・シノンは、あの雨の日の三ヶ月も前に老衰で亡くなっているのだから。
兄シュテファンの乗った船が難破したというのも、殺害方法として選択するには簡単な事ではない。それを人為的に起こす事は可能なのかもしれないが、王位継承権を持っただけの第二王子を始末するのにそこまでの事をするものなのだろうか。
シュテフ兄様ともう二度と会えないのは分かっていた。それでも、それは死別を覚悟しての事ではなかった。どこかで生きてさえいてくれるなら、それだけで良かったのに。
やっと母を亡くした痛みから立ち直ったというのに、父と兄まで順に喪い、この先の事が不安でたまらなかった。心は一向に晴れず、食事もあまり喉を通らない。
こうして喪に服して部屋の中に閉じこもっていても、神の御前に還った家族が蘇る訳ではないのに、悲嘆にくれることしかできない自分が情けなかった。
悲しくて、不安で、得体の知れない何かがこちらを向いて顎を開いているのを感じて恐ろしい。
幾度目かの涙が、せり上がって溢れて頬を伝って行く。
沈んだため息を小さく吐き出したのと、自室の扉を叩く音が聞こえたのは同時の事だった。
咄嗟に涙を寝衣の袖で拭って、どうぞ、と応える。
部屋に入ってきたのは、今は唯一自分についてくれている侍女だった。
「姫様、私はもう宿舎に戻りますが、何かご入用はございませんか」
「何もないわ、ありがとうサラ。ご苦労さま」
ソファの近くに立ったサラに、笑んで見せる。だが、満足に笑えた気はしない。
年嵩のその女性は、かつて母の侍女をしていた。父との婚姻前、母が正妃選出で後宮に上がっていた頃から部屋付き侍女をしていたというのだから、かれこれ二十年は王家に仕えている計算になる。母が亡くなった時に、本来は侍女職を辞す予定であったのを、父たっての願いを受けて自分付きの侍女として残ってくれたのだと聞いている。
サラの生家は国内最大貿易企業であるベルモント商会で、夫は軍部で大佐になっているというから、当人が侍女でいるのは経済的な事が理由ではない。ひとえに、亡き母への忠誠心ゆえだ。
「何か温かい物を差し上げましょうね。ここの所あまり眠れていらっしゃらないでしょう? 哀しい事が続きましたから無理もありませんけれど、少しでもお休みになられないとお体が保ちませんから」
そう言って、サラは穏やかな笑みを浮かべた。昔から変わらないその笑顔を見ているとひどく落ち着く気がした。
母に仕えていた時から、彼女は心を察するのが上手かった。きっと、不安な気持ちが伝わってしまったのだ。
「遅いのにごめんなさいサラ」
「私は好きでこうしているのですから、お気になさる事はないんですよ姫様」
お茶を淹れてまいりますね、とサラは部屋の奥にある給湯室へ入って行った。
サラが供して行った蜂蜜の入った甘い紅茶を一口含む。両手で銀杯を包んでいると、手が温められて不安な気持ちが少し紛れる気がする。
ほう、と息を吐き出してソーサーにカップを戻した瞬間だった。
庭園側に面したバルコニーの扉がコンコンと鳴っている。ビク、と一瞬背中を震わせてソロリと視線を移すと、そこに潜むように身をかがめる兄エルセオンの姿があった。
おそらく各部屋のバルコニー伝いにここまでやってきたのだ。兄の部屋は同じ階にある。昔はよく、そうやって兄妹で遊んで叱られたものだ。
「兄様……」
すぐに扉の鍵を開けると、兄が部屋の内側に入って来た。そして驚いた事に、ベリタスも一緒だった。
「どうなさったのです兄様」
「悪いな、クリスティーン。助かる」
二人は警戒するように扉を閉めたあと、内側を隠すようにカーテンを閉めた。バルコニーがあるから、隠さずともさほど部屋の様子が外からわかる訳ではない。それでも兄のその様子を見ていると、ただ事ではないのは一目瞭然だった。
粗末な黒い外套を身にまとい、足元は軍靴だった。兄が馬に乗る時に履いているものだ。
「お祖父さまがさっきお亡くなりになった」
クリスティーンは兄のその言葉に、大きく目を見開いた。
「そんな、だってお祖父様はまだお元気でいらっしゃいましたわ」
「俺にはどうやったのかわからないが、毒殺か絞殺か……暗殺されたのだろう。そして、おそらくその犯人は俺という事になるだろう」
「そんな! 父様とシュテフ兄様がお亡くなりになってすぐなのに、エル兄様がそんな事なさるはずがない!」
立太子しているとは言え、未だ若い兄一人の力だけで国政を御して行くのは無理だ。そんな事は、政治に疎い自分にだって分かる。
「落ち着け、ティナ。もう随分前から国政は病んでる。政治を牛耳っている層には、俺たち直系の王族男子は邪魔なんだ」
「敵は保守派なのですか?」
母がこの兄を産んだ事によって、国は貴賎関係なく能あるものが国益を担って行けるよう大きく中立へ傾いたと言われている。母の生家は、中立派に属する武門公爵家だった。
それでもまだ、既得権益を守りたい保守派は確実に存在する。
「知らなければ命までは奪われない。だから教えない。朝まで城にとどまっていれば俺の命はない。正直この先アレトニア王家の復権が叶うかどうかは分からない。だが、生きて居なければそれも叶わない。ティナ、側にいてやれなくてすまない。本当に、すまない」
どこか飄々とした所のある兄が、いつもとは違って苦しげに眉根を寄せている。
打つ手もなく、まして初孫で祖父母に可愛がられた時間が兄妹の中で一番長かったこの兄が、祖父の最期の旅立ちを見送る事もできずに逃げなくてはならないのだから、その心中は察するに余りあった。
「兄様のせいではございません。お謝りにならないでくださいませ。旅立つ前に会いに来てくださって有難うございました。いつまでもお帰りをお待ちしていますから、お気を付けて行ってらっしゃいませ」
亡くなったシュテファン同様、この兄ともここが永遠の別れなのだと分かっていた。
クリスティーンの別れの言葉に、エルセオンは苦笑を浮かべた。
名残を惜しむようにどちらからともなく軽く抱擁して、そっと身体を放す。
「元気でな」
そう言って、エルセオンはクリスティーンを安堵させるように、快活な笑みを浮かべた。
今はまだ泣いてはならないのだと分かっていた。涙が溢れそうになる気持ちをグッとこらえ、自分もまた笑って見せる。
「はい、兄様も。ベリタス、兄様を頼みました」
側近くにあって何も言わず見守っていたベリタスに体を向け、軽く頭を下げた。
兄を守ってくれと頼むのなら、最後まで王族として接するべきなのだ。だから、深く腰を折る事はできなかった。
「王女殿下、命に替えましても必ず」
そう言って父の側近であった男は騎士の礼を取った。
「ティナ、この部屋の隠し通路の場所を教えて欲しい」
兄の言葉に、クリスティーンは大きく頷いた。
「ご案内します」
ベリタスが通路を先導し、兄はその後に続いて狭い扉を潜って暗闇の中へ吸い込まれて行く。狭い場所を通るのに、まとっていた外套がめくれ上がって腰に佩いた剣があらわになった。それはかつて、父が肌身離さず側に置いていた剣だった。兄は形見として父の剣を受け取ったのだとその時初めてわかった。
自分と母だけが知っていた隠し通路を使って、兄エルセオンは何処かへと落ち延びていった。
翌朝、祖父が殺された事と、その犯人が兄だという知らせがもたらされる。兄は汚名を着せられ、無実の罪で反逆者となった。
盤上遊戯の駒が欠けるように、クリスティーンの傍から親しい人達が消えていく。
兄が逃げずに自分を守ってくれたとしても、いずれ二人共盤上から退場しなくてはならない時がくる。だから兄が自分を置いて逃げたのは正しかった。知らなければ命までは取られないと兄は言っていたが、そうあって欲しいという一縷の望みだったのだろうと思う。
おそらく次は、自分の番だ ――― クリスティーンは確信に近い予感がしていた。
クリスティーンは婚儀を終え、自室の中で母の形見を手に夫となった男と睨み合っていた。
祖父の葬儀が終わった直後、王位継承権を持つ王族が全て居なくなった国政の中で、臨時政府が立ち上がった。
宰相を筆頭に緊急措置として国を動かしていたが、未だ王政が解体されぬアレトニア国の玉璽は周辺諸国に対して効力を持たなかった。
喪も明けきらぬ一ヶ月後に、宰相は法王を伴って自室へとやってきた。直系王族として王配を定めて婚姻し、新女王として王位を継げ、と。それは傀儡になれと言われたのと同義だった。
法王ジェームズは言った。誰かが国の頂に立たねば、民が寄る辺を失う、と。
民なくして国は成り立たない。それは王族として生まれたのだから分かっている。亡き母に、よくよく言い含められて育ったのだから。
頭がすげ変わる事は、民にはさほど問題ではない。誰が統治しようとも国として機能しさえすれば、民の生活は守られる。
この国をこんなふうにしたのはお前たちだろうと叫び出したかったが、甘んじて傀儡になることを受け入れた。今まで王族として何不自由なく過ごして来た。生きていなければ、国民に何も返してやる事は出来ないのだ。
傀儡でもなんでも、しぶとく生きてさえいれば、多少は民に何がしかの利をもたらしてやれるかもしれないと思ったからこそ、喪も明けきらぬうちの婚姻を承諾したというのに。
クリスティーンは追い詰められるように、じりじりとバルコニー側の扉の前へと後ずさる。
「そんな小さな剣で私を殺せるとお思いですか?」
そう言って名ばかりの夫となった赤毛の男は、粘りつくような笑みを浮かべた。
素材は悪くないのだろうが、醜悪なその表情で台無しだ。男の手にした銀色の大剣が、室内を映している。
「婚姻によって王族という身分を手に入れた今、わたくしは用済みという訳ですね」
「話が早くて助かります、クリスティーン。こうなったのは全てあなた方アレシュテナの一族のせいなのですよ。おまけにその紅い瞳……呪われた血など引いて生まれたあなたが悪い。そしてその忌まわしい黒髪。あなたの存在こそが罪なのだ」
「わたくしにはあなたのおっしゃる事の意味がわかりませんわ、クリストファー」
夫となった男の名は、クリストファー・エル・ハイルデン。ハイルデン伯爵家の直系男子だと聞いていたが、家名の前に聞いたことのない称号を持つこの男は、一体何者なのだろう。自分と男の名が似ているのは、偶然か、あるいは必然なのか。
だがもう、そんな事はどうでもいいことだ。やはり、自分の直感は正しかったのだ。今夜自分はここで死ぬ。
利き手に護符と短剣を持ち、もう一方の手でまさぐるようにして扉の鍵を開ける。
そのまま後ろ手に扉を開け、バルコニーへと後退する。その先に広がる闇夜には、煌々とアレシュテナの星が輝いていた。本来ならば、今夜は星渡り祭が行われるはずの日だった。今はもう、神事を行う直系男子がいない。
「逃げてどうするのですか。あなたには飛び降りるか、私の剣で切られるかしか選択肢がない。どの道死ぬのだからどちらでも同じですがね」
自分とて死ぬ事は怖い。それよりももっと怖いのは、死への恐怖でこの男に屈服してしまう事だった。
王家の統治に不満があったのは仕方がない。全ての民にとって納得の行く政治など存在しない。それでも祖父も、父も、兄も、国を良くしたいと働いていた。民にはそれが伝わらなかったのだろう。それだけが、悔しい。
「いいえ、もう一つ選択肢はございます。自分の幕は自分で引きますわ」
バルコニーの欄干に背を預け、クリスティーンは手にした短剣で自分の首を掻き切った。
細く白い首に刃が沈み、時を置かずして紅い血が吹き上がる。
それが、白い婚礼衣装を染め上げる。
――― 何故。母様、父様、兄様方……幸せだったあの頃に帰りたい。
バルコニーの欄干から滑り落ちるようにして、赤く染まった婚礼衣装が闇の中に広がる。
その瞬間、クリスティーンの身体は極光のような輝きに包まれた。それは、ほんの一瞬の事。
時を置かずして、白いドレス姿の華奢な身体は、鈍い音を立てて階下の庭園に叩きつけられた。
クリスティーン・ピノワ・ラ・アレトニアは女王として即位した日、その短い生涯に幕を下ろした。まだ、十六歳でしかなかった。