20・ 親しき者との再会
クリスティーンはレグルスを連れて、母の柩が安置された聖堂へ向かって歩いていた。
喪服姿の王女が、黒服の侍従を伴って内宮を歩く。内宮勤務の侍女や下女達が、その姿を確認して恭しく礼をするのを無感動に視界に映しながら、クリスティーンはピンと背筋を伸ばして歩いて行く。
母の遺した書置きのおかげで、内宮勤めの者達の空気が明らかに変わった事には気がついていた。それは一度目の人生の時にはなかった空気感だ。
侮られ、時には陰口を叩かれていたのが考えられないような変わりようだ。
もちろんあの時とは状況も違うし、雇用されている者が全て同じ顔ぶれとは限らない。
それでもわかる。秩序と統制は、そこに最低限の畏れがなくては成り立たないのだと言う事が。
人の上に立つ、という事の本質を考えた事などなかった。
母は、理のない権を振りかざすなと自分達兄妹に教育してきた。王族としての勤めを果たして品位を保ちながら、臣と国民が王家に国の舵取りを任せても良いと思えるような行動を取らなくてはならない、と。それが、搾取する者としての最低限の義務だ、と。
その意味を履き違えていたとわかったのは、この状況になってからだ。
何があろうとも、父の子として生まれて来た自分は王女なのだ。侮られてはならなかった。そして、陰口など許してはならなかったのだ。
主への礼をなくした臣を許せば、この狭い世界の統制は乱れる。臣は礼を以て主に尽くす。主は理を以て臣に返す。そうでなくては、王政を強いて統治してきた民への意義の一切が失われる。
主従関係において最もわかりやすいのは、母とレグルスの関係だろう。
後ろからついてくる老侍従は、母にとって家族同然の存在だった。それでも、死してなお母はレグルスにとって主だった。
母がこの世から居なくなった瞬間から、レグルスは自由だったはずだ。レグルス流に言えば、人の手から餌をもらって生きて来た以上野生に戻る事は困難だったのかもしれないが、母の願いなど無視しても構わなかったはずだ。それを咎める者などいないし、まして母がそんな事をレグルスに言いつけていた事を知る者などいない。
寿命が尽きるその時まで、公爵家の馬丁に世話されながらのんびりと余生を過ごしたとしても何ら困る事もない。
それでもこの悍馬は母の言いつけ通り、自分の侍従として働く為に城まで走ってきた。
母が、レグルスにとってそれだけの主であったという事だ。命尽きるその時まで母の為に働く事が自分にとっての喜びなのだと言わしめる程の。
聖堂の柔らかい光の中で、どんな時も気高くありなさい、と母は言った。
今ならその意味がわかる。自分は王女なのだ。人々が傅くに値する人間でなくてはならない。だから、もう俯いて歩いたりしない。
――― 烏姫の呪いで母様が死んだなんて、絶対に言わせない。
レグルスが聖堂に繋がる教会の扉を開けると、既に先客がいるのが見えた。
並んだベンチの最前列に座った修道女のウィンプルが覗いている ――― 母とこの教会を訪れたきり見かけていなかった盲目の修道女メリッサだ。
扉の開放音でこちらに気がついたのか、その頭が少し動いて女が席を立つ。
その様子を視界に拾って、クリスティーンは口を開いた。
「メリッサ、でしたね。後から来たのはわたくしたちです。ですから、あなたがここを出る必要はありません。良ければ、ご一緒させていただいても?」
クリスティーンの言葉に、メリッサは一瞬戸惑ったように固まってから、静かに頷いた。
「王女殿下……よろしいのですか」
「ここには母様のお顔を見に来ただけです。それに、互いを知らぬ間柄なのはメリッサにとっても同じでしょう。わたくしなら、何もしていないのに疑われたら、相手に良い印象は抱きません」
王女の言葉を受け、侍従は「承知いたしました」と頷いた。
中央の通路を挟んで、左右前後等間隔でベンチが置かれている。
メリッサの座った場所とは反対側に置かれたそれにクリスティーンは座り、レグルスはその背後に立った。
クリスティーンが座った事がわかったのか、立ち尽くしたままだったメリッサもゆっくりと腰を下ろす。
「レグルス、壇上の柩を見て構わないのよ? あなたも母様に縁があるのだから」
「同じ場所にいられるだけで十分でございます、王女殿下。それに、今は職務中でございます」
その返答に、クスリ、と笑う。
与えられた職務に忠実なのはありがたいが、そこまで固辞せずとも良いものを。母がこの馬を愛したように、彼もまた母を愛しているだろうに、本当に頑固だ。
「久しぶりに母様のお顔を近くで見たいわ」
そう言ってクリスティーンは席を立ち、母の柩の置かれた壇上に登った。
エンバーミング処理を施されているとは言え、直射日光に晒されると遺体は劣化する。ガラスの柩は通常、女神アレシュテナの星に抱かれた蜂の御印の入った藍色の布で包まれている。
クリスティーンは柩の中で眠る母の顔が見えるよう、頭上の方の布を首元までめくった。
こうしてやれば、黙って背後についてきたレグルスにもよく見えるだろう。
覗き込んだ柩の中の母は、相変わらず今にも動き出しそうだ。ただ眠っているようにしか見えない。
膝を折った自分の隣で同じように片膝を折ったレグルスが、メリッサには届くか届かないかという程度の声で呟いたのを耳に拾う。
「こんな狭い場所に閉じ込められて……安心しろ、必ず守りきって見せるから」
やはり母の顔を見ると、溢れた想いが言葉になって出てしまったのだろう。
主を失って独り残されたレグルスの言葉が胸に痛かった。
しばらくそうして言葉なく母の顔を見ている間に、修道女は聖堂から去って行った。
王族の近侍というのは普通の近衛よりも忙しい。主の補佐としての仕事についている間は、騎士としての鍛錬がおろそかになる。
職分として戦闘能力を衰えさせるわけにはいかないから、業務後に自主的に鍛錬に励むようになった。
おかげで毎日城を出るのは、夜も深くなったこんな時間になる。とにかく早く家に帰って寝たいから、深夜まで営業している酒場に足を運ぶ気にはならなかった。
ほぼ毎日、市街地の露天で夕飯を幾つか見繕って自宅に戻る日々だ。
近侍として近衛所属になってから、給金は驚く程増えた。尉官時代も男独りで生活して行く分には不足がないくらいの給金が出ていたが、近衛の給金は桁が違っていた。
序列で言えば準男爵扱いになるのだから当たり前なのだろうが、今まで生きてきて手にした事のなかった額が軍の証書に記されていた時は自分の見間違いだろうかと思ったくらいだ。
だが、近衛として働き始めてから、その額の給金が支給されるのも当然なのだと思い知る。
まず、近衛に席を置くだけで馬鹿みたいに金が出て行く。
佐官以上の役職の者と既婚者は、軍の宿舎に入れない。すぐ城に登城できるようにするには王都に居を構えるしかないが、騎士は職務上馬を飼う必要があるから、厩のついた家にしか住めない。ゆえに市民階級者用の集合住宅は借りられない。そして王都はやはり家賃が高い。
馬、鎧、武器は個人で持ち出しのうえ、それらの装備は例外なく高価だ。
尉官時代に割賦で買った馬の支払いが終わったばかりだったのに、近衛に上がってフリューテッドを誂えるハメになって、また割賦生活が始まった。
武器は主であるエルセオンの星の入った剣が下賜されたので作る必要はなかったが、鎧だけでも元来平民である自分にとっては気の遠くなるような額だった。
平素の身なりについても厳しい決まりがあり、今までのように適当な格好ではいられない。そしてそれなりの衣服はもちろんそれなりの値段になる。
嫌になるくらい、何でも金、金、金だった。
エルセオンの近侍となった事で自分の世界は一変した。国の中枢は貴族階級出身者の方が圧倒的に多い。
身元の確かな者、教養のある者しか中枢に行けないのだから当たり前だが、価値観も人種もまるで違う。おかげで庶民の自分には未だに違和感しかない。
酷く精神力を消耗させられる世界で働く毎日に、肉体よりも精神がクタクタだった。
一刻も早く寝台に飛び込みたいのをグッとこらえ、たどり着いた自宅の厩に付き合いの長くなった愛馬を繋いで世話をする。
鞍を下ろし、馬体の汗を拭き、飼葉を足して新鮮な水を井戸から汲んでくる。
うまそうに水を飲み始めた馬を眺めてため息をついた。水汲みから連想した風呂の支度が面倒で、頭髪をガリガリとかきむしる。
騎士団に入るまで風呂など週に一度入れば良い方だった。それも、風呂などという贅沢なものではなくせいぜい小川か井戸の冷たい水を浴びる程度。だが今は、身奇麗にすることも職分の内だ。
衛生環境が悪くなると、国防を担う軍が病に冒されるのだと言う。上流階級と軍の上層に風呂の必要性が浸透し、市民階級に水浴びが推奨されるようになったのは、先ごろ逝去したサミュエルが法王として選出された時代に流行った病のせいだった。
春先とは言え地下から汲み上げた井戸水はまだ冷たい。夏ならば水浴びで充分だが、軍の宿舎で温かい湯に浸かる事に慣れた身で、冷水を浴びる気になれなかった。
人間とは贅沢に慣れる生き物だ。俗な自分はなんと罪深いのだろうか。
今の収入を考えれば下男を雇うくらいの余裕はもちろんある。
せめて自らの手でやらずとも衣食住が足りるよう、それも考えるべきだろうが、私的な空間に他人を入れるのが怖かった。
腹ごしらえをして少し休んでから風呂を沸かそう、と疲労の色を浮かべて扉に鍵を差し込むが、錠を回してみて異変に気がついた。
今朝登城する時に施錠したはずの鍵が空いている。
通常ならば締め忘れか泥棒を想定するのだろうが、この家に限ってはそれよりももっと可能性の高い事がある。
住んでいるのは自分だけだが、鍵を持っている人間が別にもいるからだ。
踏み入れた明かりの灯らない部屋の中は暗い。
だが、確かに人の気配がする。
玄関口付近に置いてあったサラマンダーを手に、家の何箇所かに置いたランタンに火を灯していく。
そこにいるだろう、と想定した通り、居間に置かれた古びたソファに男が座っている。
「来てたんですね、兄さん」
そう声を掛けながら、ソファの上部に吊ったランタンにもサラマンダーで火を熾す。
「近侍というのはこんな時間まで仕事をしているのか」
「いえ、仕事は夕刻には……鍛錬の為に修練場にいましたので」
兄が来ると分かっていたら、もっと食料を買い込んできたのに、と、センターセーブルの上に露天で買った夕飯を置いた。
「まぁ良い、問題なく潜り込めているなら、な……」
含みのある兄の物言いに、怪訝な表情を浮かべて向かい側に腰を下ろす。
「どういう意味です……」
視線の先の兄の表情は硬い。
「お父様に、お前が裏切ったのではないかと疑われているぞイシュ」
その言葉に、イシュは大きく目を見開く。
「なぜ俺が裏切ると言うんです」
「こちらの計画がことごとく巧妙に潰されているんだ。サミュエルの神託に関する事はともかく、オンソンの接収の件は聞いているか」
「いえ、俺の耳には……」
「一週間程前の事だ。一斉接収は軍主導で行われた。騎士団の上位士官だけが各地に飛んで動いたらしいが、それでも相当な人数だ。城内で動きを察知できなかったのか? モアレの一件でもそうだが、情報がつかめないのであればお前を敵の手の内に入れた意味がないではないか」
近衛は確かに騎士団内での階級は上位になるが、だからと言って軍の動きが全てわかる訳ではない。近衛と各師団は連携をとって動いているが、互いに役割は違い、独立した組織であると言える。
七つある各師団の動きの全てを把握しているのは、騎士団でも名誉職以上の者達だけに限られる。
そしてアレトニアの軍の機密情報の取り扱いは、驚く程に厳重だった。
王太子の近侍として常に後ろについて歩いていても、その王太子が軍部上層と接触していないのだから動きなど知りようがない。
一週間前と言えば、毎日王太子の勉強の供と、近衛の修練場での鍛錬に付き合っていただけだ。元々戦闘センスの高かった王太子の剣の相手は、すでに佐官クラスでなければ成立しなくなっていた。
エルセオンは軍の新体制の始動で多忙なギルウェスト師団の上位士官に相手をさせるのは忍びないと言って、その頃は剣の師であるサイラス・セザールの所属する近衛に通いつめていた。自分もそれに付き従っていたのだから、各師団には顔など出していない。
モアレに同行する近衛が重鎧装備で帯同される事は想定していなかったから、王妃の暗殺に投入された仲間は全員生きて戻る事はなかった。後に回収のために訪れた現場には、遺体すら残されていなかったのである。
多くの仲間の血が流れたはずだが、その血痕すら、雨に流されて目を凝らしてみなければ分からないほどだった。
王妃が賊の手にかかって死んだ事も公表されていないから、国民はサミュエルの遺した神託を美しく綺麗なものだと思い込んでいる。
あの雨の日に生き残ったのは自分のみ。そして重要な資金源を失ったのだから、お父様が怒るのも無理はないが、それでも自分は裏切ってなどいないし、情報についても知り得る立場にはなかった。
「裏切りについては誤解です。中央に居ながら情報を得られなかったのは俺の力不足ですが……主に誓って嘘は言っていません」
「わかった。俺はもちろんお前の事を信じているが、あまりにも成果がなければ庇いきれないぞ。今回はお父様をどうにかして宥めておく。ともかく今後も励め」
「はい。よろしくお願いしますレザン兄さん」
じゃあな、と言い残して、兄は夜の闇の中に紛れて帰って行った。
脱力するようにソファに座り込むと、露天で買った夕飯が瞳に映る。
どんな時でも食えるのは、教会育ちという生まれの卑しさ故だろうか。
包を開いて口にしたそれはすっかり冷たくなっている。腹が空いていたはずなのにちっとも旨くなかったし、風呂を沸かす気力も失せた。
汗を流すために浴びた井戸水の冷たさに、己に課せられた使命を忘れるなと横面を張られた気分になった。




