1・ 父様は母様を愛しすぎてた
「本当に、王女殿下に何も告げなくてよろしいのですか」
王城の内宮の一角にある王の私室で、近衛の隊服を纏った壮年の男は黒髪の男にそう問うた。
問いかけに疲れたような表情で壮年の男を見上げた黒髪の男は、このアレトニア国の現王カイルラーン。そして、問いかけたのは誰よりも長く王に付き従って来た側近だった。
「クリスティーンは三人の中で一番アヴィに気性が似ているからな……。中途半端に真実を告げれば、自ら動き出しかねん。何も知らなければ、やつらも娘には手を出すまい。辺境の修道院に送られるくらいはするかもしれんが、それでも命だけは助かる」
王はそう言って、小さくため息を吐きだした。
長年側近として仕えてきた男には、主のその様子だけで、彼がこの結果に納得していないのが手に取るように分かった。
だが、不本意なのは自分も同じだ。即位時には賢知王とまで呼ばれたこの主を、愚王とそしられる屈辱。真実の姿を偽って敵を探って来たが、それでもあと一手及ばなかった。
敵の正体に気付くのが遅すぎた。敵の手に掛かって亡くなった主の最愛の女性にして、この国一番の策士と呼ばれた男の孫であった王妃アレクサンドラが生きていれば、もしかしたら事態は変わっていたのかもしれないと、今更考えても仕方が無いことを思い浮かべてしまうのは己もまた口惜しいからだ。
最後の最後でこの主を独りにしてしまうのに、納得などできるわけがない。
「そんな顔をするなベル。私は敵との勝負に負けたのだ。無能だったのだから仕方があるまいよ。だが、子供達だけはどうにかしてやりたい」
「あなたが無能であったなら、私はこんなにも長くお側にはおりません」
「真実がどうであれ、歴史は勝者に都合の良いように改ざんされる。だから私が無能なのは間違いない……それが正史として残る、それだけの事だ。だが、悪いことばかりではない。やっとアヴィに会える」
苦痛に耐えるようにして眉根を寄せる側近 ――― ベリタスに、王は笑ってみせた。
妻を喪ってからここまで、永劫とも思えるような長い時間だった。たかだか五年でしかないというのに。
婚姻前に交わした約束を果たそうとあがいていたが、それはついに叶わなかった。まだ若かったあの頃。妻と初めて口づけを交わしたあの夜の約束を果たせずに逝く。
彼女は怒るだろうか。それとも赦してくれるだろうか。きっと両方だ。アレクサンドラとは、そういう女だから。
――― どうぞ、豊かな国をわたくしにくださいませ。
「王とは虚しいものだな」
「他の誰が愚王と言おうとも、私だけはあなたが賢知王であったことを覚えています。よくお励みになった……そして、よく治められた」
それは長く己の側に居たこの男からの、最期の別れの言葉だ。
「ああ。子供達を頼んだベリタス。二度とアレトニアの土を踏めずとも、生きてさえいてくれたらそれでいい。仇討ちや、まして復権など考えずに自由に生きよと」
不自由な身の上だった。心から愛したアレクサンドラとの婚姻でさえ、道のりは単純ではなかった。子供達には、王族などという身分に固執せず自由に生き、心のままに伴侶をえて欲しい。
「お前を残して行くとは言え、エルセオンの道が一番困難だろう。最後まで苦労を掛ける、許せ」
第一王子として生まれたエルセオンは、アレトニア王族の証である金色の瞳を持っている。市井に身をやつしても、この先の道は困難を極める。その息子と共に落ち延びよと命じたベリタスもまた、この先の命の保証がないという事に他ならなかった。
「いまさらでございますよ、陛下」
そう返し、ベリタスは苦笑した。
「それでは、御品をお預かりします」
主が座る席の前の机に、ひと振りの剣と護符、そして小さな短剣と花瓶が載っていた。
ベリタスは護符と短剣を騎士服の内側に収め、剣を手にして立ち上がった。
そして、深々と頭を下げる。
深く折った腰が上がるのと同時に、王カイルラーンは机の上の花瓶を思い切り投げつけた。扉に当たって、盛大な音を立てて弾ける。
「おやめ下さい陛下! ご乱心なされたか!」
ベリタスが大きく叫んだのと、扉の外側で護衛という名目の見張りで詰めていた近衛が乗り込んで来たのは同時の事だった。
アレトニア国歴538年初秋、第152代国王カイルラーン・シルバルド・ラ・アレトニアは、国政を放棄し、城内において多数の殺戮を行った罪により投獄された。同年冬、国法に則って裁かれ斬首刑を受ける。享年46歳。遺体は罪を犯した王族が眠る地である、王家の直轄地南領ハシャトリムの深い森の中に埋葬される事となった。
クリスティーンは自室で、父の側近であった男と向かい合っている。
最後まで父の側にあり諫言を呈して来たが、長らく仕えたこの男の言葉にさえ、父は耳を貸さなかった。そして、とうとう心を病んで暴君となってしまった。
母が生きていた時はあんなにも立派だったのに、クリスティーンには失望しかない。そして、幼い頃の思い出が、自分を際限なく苦しめる。
言葉は少なかったが、立派で優しかった父の姿を知っているから、罪を犯して処刑された今でなお、父を憎んでしまう事ができなかった。
「陛下がお持ちだった、アレクサンドラ様の御遺品を持って参りました」
側近はそう言って、懐から取り出した白い布包みを机の上に置いた。
男がそれを開くと、内側から現れたのは黒瑪瑙細工で出来た戦女神ヴァルキュリアの護符だった。その護符に、精緻な刺繍の施された紅のリボンがついている。
「ご結婚前、戦場に赴かれる陛下のために、アレクサンドラ様がお作りになったものです」
置かれたそれに手を伸ばす。持ち上げてみると、紅いリボンには王家をあらわす星と、父の御印であるシルバルドの星が入っていた。
結婚する前の品だと言うことは、少なくとも贈られてから二十年は経っている。その割には状態が良い。それだけで、父がこの護符を大切にしていたのだとわかる。
あまり感情を表に出すような人ではなかった。寡黙でありながら研ぎ澄まされた剣のような存在感を放つ人で、一見して近寄りがたい印象があったが、母の前だけでは少年のように笑い、自分達兄妹をその深い懐に入れて護るように愛してくれる人だった。
今でも、父が乱心して城内衛兵を殺めた事など信じられなかった。
「ベリタス……父様はご遺言等は……」
「それは……私が申し上げるのは」
ベリタスはそう言い澱んだ。父の側近であったこの男にしては歯切れの悪い物言いだ。
「良いご遺言ではなかったのですね? 大丈夫です。何を聞いても驚きませんから」
そう言って男の瞳を覗き込む。
観念したように、ベリタスは口を開いた。
「アヴィの居ないこの世に何の未練があろうか、と」
ああ、とクリスティーンは瞳を瞑って顎を上げた。
父は王だった。一度玉座に着いた以上その責務からは逃れられない。
最期の言葉までもが亡き母への執着でしかないのなら、愚王と言われても仕方がない。
「父様は母様を愛しすぎてた」
そう呟き、黒衣の王女は両手で顔を覆った。その頬に、涙が止めどなく滂沱した。
父の葬儀から二ヶ月後、政情が不安定であるにも関わらず、第二王子シュテファンが見聞を広める為だと称して前王妃リカチェの生国であるバイラントへ遊学する事が決まった。
国の中では、王家を排除して民主主義国家へ移行せよという声が高まっていた。
王政を廃止するには、王位継承権を持った直系男子は邪魔なだけの存在だ。どこからか、担ぎ上げようとする者が必ず出てくるからだ。
それを危惧して、政治を影で動かしている層が王宮から追い出しに掛かっているのだ。
今はまだ、何の罪もない第二王子の首を落とす事はできない。外に出ている隙に、あわよくば暗殺してやろうと企んでいるのだろう。
クリスティーンは目の前に座る兄シュテファンを眺める。
この兄は、母によく似ていた。祖父ディーンと同じ色の髪を持ち、母と同じ色の瞳を持っている。祖父と違って父の髪質と似た直毛だが、顔の作りがどことなく母に近い。
父と相貌の似たもう一方の兄エルセオンと比べても、若干線が細かった。
「クリスティーン、こんな時に側にいてやれなくて済まない。兄上も心配だが、兄上は男だし、いざいう時はベリタスが何とかするだろう。だけどお前は女の子だから近侍もいないし、後ろ盾さえ用意してやれなかった。何の力も持たない僕を許してくれ」
そう言って、シュテファンは苦しげに眉根を寄せた。
「兄様がお謝りになられる事ではございませんでしょう。それに、わたくしは女ですし、不吉だと言われて利用価値も低いですから命まで取られはいたしませんでしょう。兄様の方が余程心配です。くれぐれもご用心下さいませね」
「ああ、もちろんだよ。僕にはセーラムとシャルシエルがついてきてくれるから大丈夫だよ。だから、これをお前に渡しておくよ」
そう言ってシュテファンは二ヶ月前にベリタスが置いて行った護符同様、机の上に小さな短剣を差し出した。
「これは……母様の形見の品ではございませんか。わたくしも形見の品は受け取りましたから、こちらは兄様がお持ちになってください」
「兄上と僕には手練の騎士がついている。長年父上を護って来た者達なのだから、強さは折り紙つきだ。でも、お前には自分の身を護ってくれる者がいない。この大きさなら、衣服に隠して身につける事もできるだろう。いざという時のために持っておいて……僕にはこれくらいしかしてやれる事がないんだから」
「わかりました。ありがとうございます兄様」
うん、と笑んだその顔が、在りし日の母を思い出させた。
おそらくもう、この兄とは二度と会えない。兄はこれから、落ち着くまで逃亡する生活が待っている。それが果たしていつまで続くのかわからないし、手練の騎士が一緒であっても、最悪の場合命を落とす可能性だってあるだろう。
別れの言葉を伝えるべきなのだろうが、それが最後の言葉になってしまう気がして口にする事はできなかった。兄が、神の御前に旅立つような気がして。
「兄様、行ってらっしゃいませ。お帰りをお待ちしております」
もちろん、自分もまた、兄の帰りを待っていられる保証もない。
それでも兄には伝わったのだろう。シュテファンは苦笑して、クリスティーンの濡れ羽色の黒髪の上にポンと手を載せた。うんと幼い頃、父もまたそうして大きな手を載せて褒めてくれたのを思い出す。
「うん、できるだけ早く帰るよ」
シュテファンはそう言って寂しそうに笑ったあと部屋を辞して行った。
一番上の兄エルセオンよりも線の細いその後ろ姿を見送ったのが、兄妹の今生の別れとなった。
シュテファンが乗った船が、海洋上で難破したという知らせが届いたのは、それから三週間後の事だった。