序・ こんにちは、そしてさようなら
冬の終わりの事だった。大地が芽吹く春の声がかすかに聞こえ始めた頃、暖められた大気に街道の根雪は溶けて道はぬかるんでいた。
ぬかるんでいるのは、何もそれだけが理由ではない。地表近くで暖められた雪が大粒の雨となって、激しく大地を叩いているからだ。
街道沿いの林の中、口を開けたまま放置された馬車が不自然な形で停車している。
周囲には、護衛に付いていたはずの兵の遺体と傷ついた馬が散らばっていた。遺体の数と馬の数が合わないから、驚いて逃げた駒もいるのだろう。
何よりも凄惨だったのは、そこから離れた場所で見つかった、剣を手にした女の遺体であった。おそらく戦うために自ら剣で引き裂いたのだろう。黒いスカートは膝上で切られ、靴は脱ぎ捨てられて裸足だった。
剣で刺されたのか、前身頃の腹部にまだ鮮烈な紅が染み出し、雨に打たれて土の上を這っていた。その他にも内側のペチコートにまで点々と散った血の染みは、女のものなのか敵の返り血なのかは判然としない。防御するために庇ったのか、袖にも無数の小さな傷が付いていた。結い上げられていた髪は落ち、その毛先がひと房不自然に切り落とされている。それら全てが、彼女の激しい抵抗を物語っていた。
周囲には、命を狙って彼女を追い詰めたのだろう敵の遺体が転がっている。
全ての敵に止めを刺し、剣を手に目を見開いたまま天を仰いで事切れた女の瞳は、夜明けの空を思わせる金藍をしていた。
虚ろに天を仰ぐ女の側に、黒髪の男が護衛の静止を振り切って走ってくる。跳ね上げる汚泥が、男の纏った黒いズボンの裾を汚す。
それに寸毫の気も払わず女の元に駆け寄り、無残な半身を抱き上げる。
「アヴィ! アヴィ! 返事をしろ!」
女は男の妻だった。傷ついて虚空を仰いだその瞳は、もう何も映してはいなかった。
最愛の妻の魂は、もう、彼女の中には存在していなかった。
「陛下、もうこれ以上は……神の御前にお還りになられておいでです」
あとを追ってやって来た臙脂色の騎士服を纏った男が、主を宥めるように静かにそう告げた。
「俺を置いて行くな……!」
慟哭のようなつぶやきが、雨音の中で密やかに砕け散った。
三ヶ月前に王となったばかりの男はこの日、彼の生涯で唯一愛した女性を喪った。
彼女の名は、アレクサンドラ・アヴィ・ラファム・アレトニア ――― このアレトニア国の王妃にして、男のただひとりの妻だった。
濃い闇の中にある眩いばかりの金の光を放つ星が、煌々と瞬いている。
黒く塗りつぶされた天の下、王城の内宮に面した庭園で、毎年欠かす事のできない神事が執り行われていた。それは国の基となった神話に由来し、この国の王家はその神の末裔であるとされている。
神事のメインとも言える星渡りの極光が庭園に打ち上がったのと、女が内宮の一室で赤子を産み落としたのは同時の事だった。
重厚な天蓋付きの広い寝台の上、産婆の手に受け止められた赤子は、初めて人の世界の空気に触れてひときわ大きな産声をあげた。
寝台のヘッドレストに背を預け、子を産み落とすためにいきんでいた女は、その大仕事の名残からか肩で大きく息をしていた。
無事に産まれて来てくれた事への安堵で瞳を閉じた女に、傍らから声が掛かる。
被った羊水を綺麗に拭われ、産婆によって柔らかそうなおくるみに包まれた赤子が母である女の元へと戻って来る。
「おめでとうございます……王女様でございます」
呼吸は落ち着いていたが、女は初めて目にした赤子の顔を覗きこんで愛しげに微笑んだだけだった。
早く腕の中に抱きたいが、女はまだ出産が終わっていない事をこれまでの経験で知っていた。母親となった彼女は今回で三度目の出産となる。
十月腹の中で育み続けた子を胎内から失うと、揺籃となっていた子宮は元へ戻ろうとして収縮を繰り返す。子を産んだ後にも陣痛がやって来て、役目を終えた胎盤を体外へと排出する処置が待っている。
側付きの侍女に赤子が渡され、全身を襲う疲労感と貧血のような軽い酩酊感で朦朧としながら、産婆の手によって胎盤が引き出されるのを待つ。
出産による全ての処置が奥医師の指示の下行われ、寝台の上が綺麗に清められるのを待って、ようやく侍女から我が子を受け取った。
腕に抱いた赤子は軽い。初めて地上へと降り立った時には盛大に泣いていた娘は、今は泣き止んで小さな親指を口に含んで吸っている。
先に産んだ息子達より軽い気がするのは、成長と共に増える赤子の体重に慣れた自分の感覚のせいだろうか。
娘の頭に生えた産毛は、夫の髪と同じ色をしていた。それに愛しさを覚えて笑う。
入室の許可が出たのだろう、夫が待ちきれないとばかりに寝室へと入ってくる。
祭司として神事を行わなくてはならなかった夫は、急いでいたのか祭服のままだった。
部屋の中に詰めていた者達から、夫へ祝いの言葉が掛かる。それを受けながら、夫は寝台へとやって来た。まだ汗が乾ききらず、前髪が張り付いている額に軽く口付けて、妻にねぎらいの言葉を掛ける。
「よくやった。俺の娘を見せてくれ」
「はい」
手を伸ばす夫に娘を預ける。長身で体格の良い夫の腕に抱かれると、ますます娘が小さく感じる。
「よく産まれてきた、我が娘。お前は俺と同じ色の髪だな」
そう言って、外では硬い表情しか見せない夫の目元が柔和に笑む。その夫が、驚いたように目を見開いた。人前ではこのように、笑む事も驚く事も珍しい事だ。
「紅い瞳とはまた珍しい……」
男の腕に抱かれて瞼を開けた赤子は、血のように紅い瞳をしていた。
「本当に、烏姫様にも困ったものね。あの辛気臭さ何とかならないのかしら」
「しっ、誰が聞いているかわからないんだから。あれでも一応王女様なんだから気をつけないと。それに、めったな事を言うと呪われるって言うわよ」
「あー、あの紅い瞳が怖いわよね、本当に人間だかどうかも疑わしいわよね」
「アレクサンドラ様がお亡くなりになられたのも、姫様の呪いのせいって噂もあるしね」
王族の正寝に近い内宮の一角だと言うのに、そこで働く侍女がかしずくべき相手である王女の悪口を堂々と言っている。
それを、彼女は息をひそめるようにして隠れていた木の幹の上で聞いていた。
悪口を言われるのは、今に始まった事ではない。
母を亡くしてから、この国の政治は完全に緩んだ。賢知王として名高かった父はもうどこにもいない。
母をなくして一年程は、暗殺を企んだ首謀者を躍起になって探していた。それが、父を支えていたのだろうと思う。
けれど、雲を掴むように全くその首謀者を追う事は出来なくなった。そして二年が経つ頃、重臣達から他の政務にも首謀者探しと同じだけ力を入れよと言う声が上がり始める。それが、父を変える引き金になったのだろうと思っている。それ以降、父は臣を御す事に興味をなくしてしまった。
今は王とは名ばかりの父は、ただ玉座にあるだけだ。
王位を譲って隠居していた祖父が院政を敷いて実質の政務を行い、父の即位と共に立太子した兄がその補佐をしている。そして、最近は成人した二番目の兄もそれに加わっているという。
表向きまだ政治は何とか回っている。だが、そんな状態だから王城の中の求心力は緩んでぐらついていた。
母が亡くなったのは自分のせいだ。おそらくあの場で自分を見捨ててさえいれば、母は死なずに済んだ。
母が儚くなったあの日は、亡くなった祖母の葬儀のためにシノン領モアレ州へと向かっている最中だった。
長らく病床にあった祖母マリィツアは、母の戴冠を見る事なく曾祖父フリッツのあとを追うようにして亡くなった。
本来ならば王都へと遺体を運ぶべきだったのだろうが、長らく暮らし、愛したモアレ山の麓に、夫と共に埋葬して欲しいという生前からの遺言があった。
国の英雄として王都に程近い戦死者墓地に埋葬された祖父の墓へは、体の弱かった祖母は殆ど訪れる事はできなかったという。
神の御前に還る時は、空気の綺麗な場所で二人きりで静かに眠りたいというのが祖母のたった一つの願いだった。
だからこそ、母が亡くなったあの日、父母と兄二人と共にモアレに向かっていたのだ。
何者かに狙われたのは、その道中だ。
前を走っていた父と兄が乗った馬車の轍に、後続していた母と乗った馬車の車輪がはまりこんで動けなくなった。
当初は馬車の脱出に時間を取られると思っていなかったから、警備を半分にわけ、父と兄達の乗った馬車は先へと進んだ。
そして、その隙をついて襲われたのだ。
折り悪く、護衛に着いた近衛は女性騎士が多かった。男ばかりの近衛では、女性王族を護るのに不足がある。化粧室や寝所に踏み入る事はためらう上に、いざという時に身代わりになれない。
だから、母と自分の乗った馬車の護衛には若い女性騎士が多かったのだ。それが、あだになった。馬に乗って逃げよ、と馬車の扉が開いた時、そこには近衛は男女一人ずつしかいなかった。迫り来る敵に応戦しながら男性騎士が背後を護り、馬車の扉を女性騎士 ――― 母付きの女性近衛であるミレイヤが開けた。
何とか馬車を降りたのと、最後の男性騎士が首に致命傷を負って倒れたのは同時の事だった。
母はミレイヤに言った。クリスティーンを連れて陛下の馬車を追え、と。
ミレイヤは主命に逆らったが、母はそれを許さなかった。何故なら、第一線を退いてなお父と結婚するまで騎士として生きていた母の方が強かったからだ。精鋭と言われる男性近衛である護衛が敵わぬ相手である。ミレイヤ一人が残ったとしてもおそらく全員助からない。だが、あなたの操馬技術があれば、きっと全員助かる。それまでは自分がこの敵を押しとどめているから、助けを呼んで来て欲しい、と。
焦燥と不安の中、ぬかるんだ道をミレイヤは駒を潰す覚悟で自分を乗せて走った。
だが、それは間に合わなかった。
むごい最期だった。致命傷は腹に受けた一撃。そこから大量に失血していた。
だが、母は王家に嫁してなお騎士だった。背にあったのは、父を庇って負った古い傷跡だけだった。英雄となって死んだ祖父ジレッド同様、母の背中には新しい太刀傷は一つもなかった。
その時から、ずっと黒い服を着ている。父も自分も、導となる光を失ったのだ。
ゆえに人々は自分を揶揄して言う ――― 烏姫、と。
ぼちぼち書いていきます。見捨てず読んでくれたら嬉しいです。