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ハンマースホイからハマスホイまで

作者: 上高田志郎

 歳を重ねるということに何の感動も持たなくなったのは白髪の多さが証明している。歳を重ねるという事は日々を続けているということだが、そのどれをとってもまったく同じ、クソまみれとまではいかないが、どれも生活の汚れがこびりついていて、顔をそむける匂いがただよっているはずだ。振り返りたいとは思わない。


 前回の展示は12年前になるらしい。12年という響きに声も出ない。口の端が引きつる笑いしかない。


 それでも、この12年の日々の中で前回の展示が人生で忘れられない一日になったことは間違いない。大人になってからそんな日に出会うとは思わなかった。あの一日は与えられたのだ。


 私は何度も何度もあの日のことを思い出していたのにあの展示が上野だったことはまったく覚えていなかった。渋谷じゃなかったっけと勘違いしていたぐらいだ。人生最悪の日だなんて思うのは甘いのだぞと12年前の自分に声をかけてやりたいぐらいの毎日。気分転換というより、ほとんどすがるような思いで街に繰り出していたのではないか。どういうきっかけだったのかまったく覚えていない。あの展示にいつどんなふうに興味を持ったのか。どこで情報を得たのだろう?


 中学生の男子3人女子3人グループが楽しくてしょうがないといった具合に体をぶつけ合っていた。男どもはホイホイと自分達が知ってる曲をホイで歌って笑い転げていた。「美術館なんだから静かにしな!」「他の人に迷惑でしょ!」ある子は真剣に注意し、ある子は笑いながら注意していた。6人はライオンの親子が狩りの練習でもしているかのように好き勝手に館内を駆け回って行った。にぎやかな足音が遠ざかっていく。女子は私に向かって必死に頭を下げていった。そんなことが許されるほどに館内には人がいなかった。館内には6人と私しかいなかったのだ。私はあの6人の中に自分がいたような気がした。彼らの言動、どれを取ってもかつての私にほかならない。あんな時間を私も確かに過ごしていたのだ。

 

 誰にも信じてもらえない体験というのはある。私にとってこの日がそうだった。信じてもらえなくていい。それが確かにあったということを私が知っていればいい。この後どれくらいの時間だったのかは分からないが、館内で私だけの時間を過ごした。終わりの絵にたどりついたとき、我ながら信じられなくてもう一度最初から見ることにした。もっと時間をかけて一つの絵と向き合った。二回目も終わりまできたときはさすがに困惑した。人は本当に望んでいたものが思いがけず与えられると困惑するものだ。

 

 三回目はなにか担がれているような気がして、一人でいるのに笑いがこぼれそうになった。画家の描いた妻の後ろ姿、その絵を見つめている私の肉体も精神も音も時間もすべてが消え去る瞬間が訪れた。それに気づいた後もなお、その状態は安定して続いた。私は完全の中にあった。自分の意識が絵の中にも館内にも私の中にもあってそのどれもが等しい。私の肉体がはっきりとただの入れ物でその中に自由に出し入れできた。立って絵をみつめている自分を後ろから眺めていた。その後ろ姿は、まさに妻の後ろ姿のようだった。

 あの不思議な時間はなんだったんだろうと考えることもあった。それが私だけのものではなかったというこは、12年の時を経て、ハマスホイと名を変えて再び展示が開かれる時に分かったことだ。嬉しくてネットで検索したら、待ち望んでいた人たちは私と大なり小なり似たような体験をしていた。あの静かな空間で絵を見ていた人が私以外にもたくさんいたということの方が感動的だった。

 推測だが、前回はやはり知名度が低く、来場者が少なかったか。(2008年秋の東京、上野。無名の画家の静かな作品が、18万人を惹きつけまし。開催概要より。ほんとかよ!)それでもインパクトは大きかったのかカタログはプレミアがついていた。私もあの日買ったカタログとハガキは宝物だ。。

 あの静寂な館内の空間がそのまま画家の絵の世界観を再現していた奇跡。来場者である私たちがそのまま画家によって新たに描かれてしまったような。

 1月のハマスホイの展示が前回のようにならないことははっきり分かっていた。それが残念なんてことはない。今回はきっと賑わうだろう。事実そうだった。

 勝手にちょっと誇らしく感じてしまうのはファン心理だ。展示に関しては来場者、空間をぬきにして、率直な感想は前回の方が見ごたえがあったような気がする。これは12年の間、いっぱい美術展に通ったがゆえの感想だ。美術展通いが趣味になったのもハマスホイのおかげである。今回はカタログは買わなかった。ハガキとB2ポスターを買った。


 この12年間、上野の美術展に通うたび、常設のハマスホイを見に行くのが楽しみだった。階段を上に下に、大回廊を歩いて部屋から部屋へ。迷宮というのは大げさだが、絵を見ながら歩くのは楽しかった。ハマスホイの絵は、やはり私にとって特別だった。顔を近づけたり遠くから眺めたり時間を気にせず楽しんだ。生きている人に会いにいくようで、私の魂を確認する場所だった。


 2020年のハマスホイの展示も、来場した人それぞれに静かな衝撃と感動があることだろう。


 その後、新型コロナウイルス感染症拡大防止のため、期間途中ながら閉幕した。

 山口県立美術館での展示はどうなるんでしょうね…初山口かとワクワクしていた頃が懐かしい。



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