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部屋に戻ると、セリが声をかけた。
「ミルクティーでも如何ですか?」
「ああ、もらおうか」
マティアスは、ジャケットを脱いでソファーの背もたれにバサリとかけ、蝶ネクタイを緩めて1つ目のボタンを外しながらそこへ腰掛けると、ふわりと芳醇な香りが広がった。
首元に集中していた視線をテーブルに向ければ、温かな湯気を昇らせるミルクティーが置かれていた。
「…….早いな」
「お褒めに与り光栄でございます」
「いや、そうだけどそうじゃないだろ。…….お前どこにいたんだ?」
「護衛も仰せつかっておりますので、10m以内と心がけております」
「何故上を見るんだ」
「いえ。あ、それよりも最後まで我慢するなんて凄いですね。セリ、最後は頬にチューしちゃうかと思ってドキドキしました」
「しないっ!あいつにはっっっ……婚約者がいるのだろう。俺のせいで瑕疵を付けさせたくはない」
奴の言葉を思いだすと腹は立つが、ぐっと抑えて、まだ熱いミルクティーと一緒に飲み下した。
結ばれている婚約を、友好国でしかない王族の、何の実積もない凡庸なスペアの自分が横槍を入れても頷かれないだろう。
それに、触れてしまったら最後、離せる気がしなかった。
「簡単に触れられるか……」
***
翌朝、鬱々としてよく眠れなかった目に、眩しい日の光が刺さる。刻々と迫る別れの時に、マティアスは現実逃避をしたくなった。
「殿下、失礼します。お召替えを早々にお願いします。準備が終わりません」
「離れがたい……が、そうも言ってられんな。はぁぁぁぁ」
「殿下の周りに湿地帯が出来そうです。お召替えが終わりましたら、お時間もまだまだありますから、歩いてきてください」
「天日干し、大事」と小さく呟いたセリは、着替え終わった服を持って荷物を置いているであろうクローゼットに入っていった。
「聞こえてるぞー。ったく。行ってくるか」
そうして見納めとなる公爵領の領地を目的もなくブラブラと彷徨こうと思ったのだが、マティアスは自然といつもの花屋のところへ顔を出す。そしていつもの様に一輪花を選んでから、さっさと領主館に戻った。
領主館に戻ると、連れていた護衛や従者を解散させてリビングやサロン、廊下を通ってライブラリーや薬草園の見える場所に来ては、あの温かな色を景色の中に探してしまっていた。
自分の行動に呆れを感じながら、頭を振って、花を持ったまま早々にエントランスへ向かうことにした。
エントランスへ向かっていると、階段あたりでずっと探していた色が掠めた気がして、思わず駆け寄ってみるが彼女はおらず、出立の時間を待つ同行者で賑わっていた。
もう間も無く馬車が着く時間となると、階上から公爵一家が現れた。
マティアスは、その中のマリアンデールに目が釘付けとなってしまっていた。
淡い黄色のエンパイアのシフォンワンピースを着た彼女はとても美しく、胸下にある羽を模したホワイトゴールドの飾りが気品を引き立てる。
ブライドにエスコートされて降りてくる彼女にゆっくりと近寄ると、目があって嬉しそうに微笑んだ。
「ね?ちゃんと起きてお見送りに来れたでしょ?褒めても良くってよ?」
ふふんと笑う彼女の言い分に、マティアスとブライドも笑い出す。
「お前の場合は寝坊より、他のことで忘れる方が多いだろ」
「あら?お兄様そうでしたかしら?」
おかしそうに笑い合う3人の後ろから、公爵夫妻も話に入った。
「お出迎えを忘れたではないか。マリアよ」
「まぁ、最後は皆でお見送りできたのだから、よかったですわ」
本当に仲が良い家族の様子に、微笑んで滞在の感謝を述べる。
「本当にお世話になり、勉強になりました。こんなに離れがたい場所ができるとは、思わなかったくらいです」
「またぜひ来てください。我が家はいつでも歓迎しますよ」
そう言って差し出された公爵の手をしっかりと両手で掴み、再訪の約束を交わした。
その時、馬車が着いたと知らせが入り、従者やセリが荷物の運び入れや、警護の騎士が道順を御者と確認……と、エントランスは一層騒がしくなった。
エントランスの騒がしい様子をしんみりした気持ちで眺めてから、マリアンデールに向き直り「少し話せるか?」と小さく尋ねると、口元に笑みを載せて頷いた。
エントランスを出ると、両端を石造りの柵に囲まれた広いスペースがあり、正面に段差の低い階段が門の前までアプローチの様に長く緩やかに続いている。
そこを使用人が荷物を持って運んでいるところが見えた。
邪魔にならない様に左側へ出て、石造りの柵まで並んで歩いた。
柵の向こうは1階分ほど低く、建物の下へと続く馬車道と綺麗に整備された芝が青々と広がる。
爽やかな風が流れて、芝やその先の木々を優しく揺らす風景を目に入れながら、隣に立つマリアンデールに話しかけた。
「マリアもありがとう。短い間だったけど、本当に楽しかった」
「私も。本当に楽しかったわ。草いじりの話をして嫌な顔をしなかったのは、家の者以外で初めてよ。……寂しくなるわ」
眉を下げて微笑むマリアンデールに、喜びを感じてしまい、上がりそうになる口端を気合いで抑えてから一呼吸置いて、吐き出す様に気持ちを伝えた。
「俺も寂しい。出来れば離れたくないくらいだ。ここからも……マリアからも….」
「ふふ、ありがとう。気に入ってくれたなら、きっとまた来てくれるわね?」
「……来るけど、そうじゃない」
「え?」
どう言うこと?と緩く首を傾げて、風に揺れる髪を片手で押さえた彼女を気持ちのまま引き寄せようとして、ぐっと堪えた。
宙で握り込まれた片手を見てから、マティアスの顔を見たマリアンデールは「ん?」と小さく尋ねる。
こんなに近くに居ても、触れることが出来ない事の歯痒さに、マティアスは眉根を寄せてしまう。
「あら、マシューでもこんなところにシワを作るのね。ふふっ」
マリアンデールが自身の眉根をくりくりと触りながら揶揄いを含んで言った言葉に、苦笑が溢れた。
「マリアの側にいると、シワを寄せる事も忘れていた」
どこまでもマティアスに対して変わらない態度で接するマリアンデールに、どうしたら少しでも意識してもらえるのだろうか?と、そんな思いが頭を過ぎる。
宙に握り込んだままの手をそっと開き、風に揺れて踊った髪を掬う。
ゆっくりと想いを乗せて、茜色の絹糸の様な髪にそっと口づけを落とした。
手の中の髪を逃さない様に押さえたまま、ゆっくりと視線を上げれば、真っ赤に染まった顔で目を見開き、唇を緩く開いて固まるマリアンデールの顔があった。
「伝わったか?」
彼女にちゃんと伝わった事が嬉しくて、湧き上がる気持ちのまま笑えば、緩く開いた口からは「えっいや、あのっっ」と小さな声が溢れて、赤い顔のまま押し黙ってしまった。
そんな彼女の鼻の前に、一輪の薔薇を差し出した。
そっと受けとったマリアンデールは、頬を緩めて微笑んだ。
「きっとずっと変わらない。…たとえもう、相手がいたとしても」
パッと花から顔を上げたマリアンデールが、何か言おうと口を開きかけた時、セリが後ろから声をかけてきた。
「お時間でございます。出発いたしますので、馬車までお願いいたします」
ペコリと頭を下げたセリに「わかった」と返事をしてから、マリアンデールへ最後に言葉を告げた。
「またいつか。ありがとう」
苦しげな笑顔を向けるマティアスに、マリアンデールも同じ様な微笑みを向けて「ええ、絶対よ?またね」と返された所で馬車に向かった。
馬車に乗り込んで、窓から外を見ると公爵一家も側まで来てくれ、出発しても暫く見送ってくれていた。
その中のマリアンデールの寂しげに揺れる瞳を、見えなくなるまで見つめたのだった。