プロローグ
暗い嵐の夜だった。
断続的に聞こえる雷鳴に足をすくませた動物たちは自らの巣へと早足で逃げ込み、不安げに外の様子を眺める。天からは降り注ぐ大粒の雨が、吹き抜ける強風によってその向きを変え横から後ろからと責め立てるように身体を叩きつけた。
「これは運がないですね。」
思わず漏らしたそんな弱音も直ぐに雨音にかき消される。その視線の先にあるのはこの世に二つと無いほどの大豪邸。この世に知らない者はいない、『最強』の名をほしいままにする若き賢者の住処だ。
今日はそんな賢者が各国の王との面会を終え帰還する日。出立してから一週間ほどしか経っていないが、それでも『彼』の顔を一刻でも早く拝みたいという一心で、今も玄関前に立ち続けている。
しかし生憎とこの天候だ。帰ってくるのは明日になってしまうかもしれない。それにこの豪邸唯一のメイドとして頼まれていた庭の手入れも、この嵐のせいで全く手をつけられずにいる。これでは呆れた『彼』に怒られてしまうだろうか。そんな不安もまた募ってくる。
時刻はもう夜の11時。もうそろそろ諦めて屋敷に戻ろう。そう思うもまだ足は動かさない。せめて、せめて日付が変わるまでは、と決めて待ち続ける。
「いやー、すごい雨だなこりゃ。」
そんな時だった。聞きなれた声が鼓膜を震わせる。気分とともに下がっていた視線を反射的に上げるとそこには、全身が雨で濡れて寒そうにしている『彼』と、そのギルドメンバー達の姿があった。
「おかえりなさいませ、ご主人様。入浴の準備は済ませてあります。」
そうすらすらと伝える私だがその顔は自分でもよく分かるほどに紅潮し、綻んでいた。
そんな私の様子に気付いたのだろう、一瞬キョトンとした『彼』だったがすぐに元の様子に戻ると、ドアノブに手を掛けながら一言。
「そうか。いつもありがとうな。」
そう言われた瞬間、正しくはその言葉を脳が理解した瞬間、私の顔は先程までとは比べようも無いほど紅潮し、心臓は激しく音を立て始めた。
「またメスの顔になってるよあいつ。」
「まあ一週間も会えなかったんだ、それくらい許してやれ。」
そんな私を見てか、『彼』のギルドメンバーでもあるミアが私を揶揄するのが聞こえた。たしかに今の私は『彼』を前に完全なメスと成り果てているだろう。実際それには否めない部分があり、反論することはできない。
「お前、これで調子に乗るようならぶっ殺すからな。」
「殺す?あなた、私に勝てるとでも思っているので?」
「あ?」
しかし正面からケンカを売られるようなら話は別だ。売られたケンカは買うし、『彼』だって誰にも渡すつもりはない。
「まあまあ落ち着け。私たちの間で争いを起こすのはご法度だろ?それで困るのは他でもない私たちの筈だ。」
だがここで、ミアと同じくギルドメンバーであるエリザが私たちの仲裁に回る。
「まあ、私たちが怪我をして一番心配するのは『彼』だからな。もちろん本気で殺すつもりはないさ。」
「分かっていれば良いんだ。それより、早く家に入って風呂にでも入ろう。寒くて仕方ない。」
「そうですね。そろそろ『彼』も不思議に思って様子を見にくるかもしれませんし。」
そうしてわたし達は一応の休戦をし、ドアを開けて温かい家に入る。
こうしてまた日常が、『彼』を取り巻く日常が始まるのだ。