ノイズ
――――紙を破り裂いた。
聞き慣れた音は、耳に心地よく心の中を風が通り過ぎるような不思議な爽快感があった。
――――紙を破り裂いた。
自分の心に重くのしかかっていた感情が薄れていく。
――――紙を破り裂いた。
それは、自分自身の救済であり、日常の一環だった。
僕は何回も紙を破り裂いた。
細かく裂かれ、ただのゴミにしか見えない紙クズは、僕の手の中で積って、風に吹かれて、空に舞い上がった。それは、とても綺麗で儚くて、まるで散っていく桜のようだった。
花弁のような紙クズは、空に溶け込むように、視界から消えた。
それと同時に苦しみや悲しみや寂しさといった全ての感情も風に流されて、空気に溶かされ、拡散され、薄く薄く、ただ透明になっていく。
残ったのは、空。そう、空虚感だけだった。
紙に消してしまいたいモノを書いて、破る。それだけで書いたモノは忘却の彼方に消えてゆく。
僕はその行為を昔からしていた。いつからやり始めたのかは、忘れた。きっとその記憶も空に散り散りになってしまったのだろう。
悪い感情を無くすのは、駄目なことじゃないと僕は思っている。前向きに明日を見据えて生きるのは正しいことだし、過去のことをウジウジと嘆いては生きていけない。
だから、僕は紙を破る。
むやみに過去を振り返らないようにするために。
だが、最近消えないものが出来てしまった。
耳の奥で鳴り響くノイズ。それは、脳を貫き、胸を抉り、足の先まで引き裂き、僕を殺そうとする。
そしてノイズの間に聞える彼女の声。
「……くん」
僕は、耳を塞いで叫んだ。
「何がしたいんだ!?」
僕の叫びは、無視され、耳鳴りは続く。
そして彼女は言うのだ。
「消えちゃだめだよ」
と。
◇◇◇
夏休み明けの教室はいつも以上に騒がしく、活気に満ちていた。クラスメイトの話題は、宿題のことだったり、休み中の旅行の話だったり。お土産を配っている奴もいる。だけど、僕はいつもと変わらずノートを広げ、文字を書き込んでいた。今感じている理由のないイラツキを、びっしりと文字として書き込んでいた。
チャイムがなって担任が入ってくる。バタバタと散るようにクラスメイトが席に戻る音が聞える。だが席についてもクラスメイトはざわついていた。静かに、静かに、と先生が何回か言って、やっとクラスは静まり始めた。
先生がいつものように、ホームルームを始めた。でも教室はいつものような静かさにはならなかった。ヒソヒソ声が充満している。
きっと休み明けだからだろう、僕は、埋まり切ったノートを切りとった。上手く切れずに端がギザギザになった真っ黒な紙を二つに切って、それをまた二つに切る。二の何乗になった紙クズを机の隅に山にして、僕はやっと先生の方に顔をあげた。そして、ホームルームがいつもより長い理由に気づいた。
女子生徒が先生の隣にいた。転校生らしい。
道理で話が長いはずだ。
転校生は、現在黒板に自分の名前を書いていた。
『佐藤 明日香』
丸っこい女の子らしい文字で書かれたそれを見て、ありふれた名前だなと思った。
佐藤は名前を書き終えると、黒板消しの横にチョークを置き、こっちを振り返った。
僕は一瞬目を疑った。
佐藤には顔がなかった。
佐藤の顔は、まるで顔の部分だけ無理矢理えぐり取った写真のように真っ白だったのだ。
僕は、驚きと恐怖で立ち上がってしまった。椅子が大きな音を立てて倒れる。
「永井君。どうしたのですか?」
さっきまで佐藤を見ていたクラスメイトの視線が、僕の方に集まる。
「顔がないんです」
僕は直立不動で答えた。
「何を言っているんですか。顔なら、そこについているでしょう」
先生は僕の方を指さす。クラスメイトがクスクスと笑っている。
「違うんです。それは、僕じゃなくて……」
そこまで言いかけて、先生が完全に困惑した顔になっているのに気づいた。押し殺した笑いは止まらない。
みんな、分からないのか?
「とりあえず座りなさい」
先生に言われるまま、僕は座ることしかできなかった。
僕はもう一回確認するように佐藤を見た。顔はやはりなかった。書きこまれていないノートみたいな白さが彼女の顔を埋めている。
突然、佐藤が僕の方を見た。
その瞬間、頭が真っ白になった。
頭の中を高音の金属音が貫く。僕は反射的に自分の耳を塞ぐ。音はやまない。金属を擦るような、黒板を爪でひっかいたような、不快で嫌な音が僕の頭の中で響く。
ノイズに紛れて何かが聞える。
「……くん」
そして僕の肩を誰かが触った。
「やめろっ!」
目の前には、困惑したクラスメイト。どうやら心配して声をかけたクラスメイトの手を振り払ってしまったらしい。
「顔色が悪いよ」
僕の息は完全に上がっていた。耳鳴りはいつの間にかすっかり止んでしまっていた。
「保健室に――」
「いい」
僕は、遮るように断ると、額に手を当てた。冷や汗が手に付く。深く息を吐くと、少し気持ちが落ち着いてきた。
さっきのは一体何だったんだ?
僕はゆっくり教室を見回した。
佐藤は一番後ろの廊下側の席にいた。
そして相変わらず首の上には空白しかなかった。
◇◇◇
「そういえば、ひさしぶりの学校はどう?」
僕は焼いたホッケの身を箸で骨から分ける。瞬く間にフレークみたいな身の山と標本みたいな魚の骨が現れた。
「転校生が来ました」
僕は、ホッケの身を口に運んだ。旨味が口の中に広がる。
「それって、女の子でしょう?」
「え?」
ご飯を摘まんだ箸が一瞬止まる。
「最近、ここの近くに引っ越してきたんですってね。私、そこの奥さんによく会うの。でね、今日、買い物についてきた娘さんと会ったのよ。どうやら、あなたと同い年らしくて、しかも同じ学校に通うらしいの」
「そうなんですか……」
「その子、とても可愛い娘さんだったのよ。そういえば、どこかで見たことのあるような顔だったわ……」
やっぱり僕だけが顔を見ることができないのだろうか?
「あぁ、きっとあの女優さんね。最近活躍している。いいわね。可愛い子が同じクラスに転校してくるなんて、何か起こりそうじゃない?」
祖母は、ニコニコしながら話す。
「ドラマじゃないんですから。そんなこと起きませんよ」
「優君は、もっと夢見たっていいと思うわ。若いんだし」
「おばあさんには、負けますよ」
「そんなこと言っても、何も出ませんよっ」
「ごちそう様」
僕は、食べ終わって空になった食器を流しに持って行く。
「あ、洗いものは、私が」
「いいですよ。それぐらい。すぐ終わりますし」
いつものようにササッと洗った。そして、そのまま階段を上がり、自分の部屋に行こうとした。
そんな僕を無口な祖父が背後から喋りかけた。
「遠慮なんかしなくていいんだぞ」
僕は、手すりをぎゅっと掴んだ。
一瞬の沈黙。そして僕は、祖父母の方を振り返った。
「分かっています。大丈夫ですよ」
笑顔を浮かべられたと思う。
僕は階段を上がった。上がってすぐ右のドアを開けて、自分の部屋に入る。そして、そのまま机に突っ伏し、深く息を吐いた。
体は伏せたまま手だけ動かし、小さな写真立てが伏せられた机の引き出しを引いた。そこには、薄っぺらなノートがあった。
そのノートを取り出し開くと、何も書かれていないページが目に入った。僕はまたため息をついた。
◇◇◇
国語の授業。
教科書を読むようにと佐藤が当てられた。彼女は、席から立ち上がると、口がないのに教科書を読み始める。
教科書の文章がノイズとして僕の耳に突き刺さる。
僕は耳を塞ぐが、ノイズは耳鳴りのように僕から離れてくれなかった。僕はノートの隅に「耳鳴り」と殴り書くと、それを破った。
音は止まない。
「ノイズ」「騒音」「黒板を引っ掻く音」「金属を擦る音」たくさんの不快な音をノートに書いては、ビリビリと破る。だが、音はやまない。むしろ音が大きくなっているような気さえした。
ノイズが止んだのは、佐藤が教科書を読み終えた後だった。
席に座った佐藤は、僕の方を見る。僕はそんな佐藤の顔を睨みつける。でも佐藤の顔は相変わらず空白しかなくて、僕の攻撃なんか全く効かなかった。彼女だけが僕を一方的に攻撃する。
授業から解放された僕は、休み時間を苦痛をノートに書きつづる事で消費する。ノイズは全く効かないが、他はノートを破く効果が変わらずあった。悪口のような陰湿な言葉を書き綴っていると、ふと嫌な視線を感じて廊下側を見ると、また佐藤が僕の方を見ていた。再び僕を襲うノイズ。ひどいノイズは、頭痛をも引き起こす。
僕は苦痛の言葉を書かれた紙を破る。その行為は、頭痛薬みたいに頭痛の症状を和らげたが、原因であるノイズは、削除できなかった。
僕は、急いで教室を出た。
これからは休み時間ギリギリまで教室の外にいて、彼女と顔を合せないようにしよう。僕はそう思って窓にもたれた。
未だに頭の奥がずきずきと疼いている。ノイズの影響は、すぐには終わらない。僕は目を瞑ると、ため息をついた。
一体、佐藤は何なんだ?
彼女に会った瞬間から続く疑問を頭の中が巡り回った時、覚えのある悪寒が体を走る。
目を開けると、佐藤が廊下に出てきた。
再び始まるノイズ。彼女から発せられるノイズは、胸に突き刺さり、そのまま体を引き裂くような痛みを引き起こす。
ノイズに苦しむそんな僕を嘲笑うように、佐藤は、相変わらず真っ白で無表情な顔を僕に向けている。
僕は中身のない化け物から逃げるように、ふらつきながら廊下を走りだす。
どこに行けばいいのか分からなかった。ただノイズの聞えない世界ならどこでもよかった。
僕は階段を駆け上り、立ち入り禁止の札がかかれたドアを開け放った。鍵はずいぶん昔から壊れていた。
逃げ込んだ屋上はまだ夏の厳しい日差しが残り、コンクリートには蒸せるような暑さがこもっていた。
だが、そこには僕を不快にさせるノイズなんか存在しなくて、運動場でふざけている生徒の声しか聞えなかった。雲一つない青空が広がっているのが平和な世界を象徴しているようで、気持ちよかった。
そこは、避難場所としてうってつけだった。
◇◇◇
学校から解放された僕は、足早に家路を急ぐ。その後を追う足音。
僕は振り返る。
佐藤がいた。
僕は走り出す。それを追うようにノイズが飛んでくる。脳みそに入って来る不快信号は、思考回路をぐちゃぐちゃに混乱させる。世界がぐるぐると回る。目の前が真っ暗になる。
僕はその場で力が抜けたように座り込んだ。そして、耳を塞いで叫んだ。
「来るな!」
そう叫んだ途端、ノイズがピタリと止まった。もう蝉の声ぐらいしか聞こえない。だが動悸はなかなか収まってくれなかった。しばらくの間、僕はアスファルトに座り込んでいたが、意を決して振り返ると、そこには既に誰もいなかった。
◇◇◇
その日以来、僕はわざと遠回りな道を選び、なるべく佐藤に出会わないようにした。
学校にいる時も佐藤になるべく接触しないように気をつけた。
休み時間は、屋上に入り浸り、ノートに文字を書いたり、何も考えずぼうっと空を眺めたりして時間を潰した。
どうしても佐藤から離れない授業は、授業内容に極めて集中することで、ノイズからある程度解放されることが分かった。だから一心不乱に先生の話を頭に詰め込んだ。
そのおかげで中間テストの順位がグンと上がり、成績が上がった。祖父母も僕の成績が上がったことをとても喜んでくれた。
ノイズに悩まされる日々は、そんな僕の地道な努力によって、なんとかなくなりつつあった。
だが今日、その日常が壊された。
何故か、彼女の方から僕に接触を図ってきたのだ。
休み時間が終わってすぐ、屋上に避難しようとノートを持ち立ち上がった僕の目の前に立ち、彼女は口を開いた。ノイズの声が僕を苦しめる。
佐藤は、顔がないこととノイズの声を発生することを除けば、普通の学生生活をエンジョイしているように見えた。友達もいたし、僕以外なら普通に他の人と話していた。少なくともノイズのない生活を送っている。なんで、僕に話しかけてくるんだ。僕なんかに構わなくても、十分な学生ライフを送っているだろ?
「やめてくれ」
僕はうなるような声で呟くと、佐藤の脇をすり抜ける。
「……って」
ノイズに混じって聞える声。誰の声なんか知らない。ただ不快だった。
僕は廊下に出ると、屋上の方に一目散に逃げた。
屋上に辿り着くと、ほっと息をもらした。
僕は、持ってきたノートにさっき佐藤から受けた苦痛の言葉を書いて破り裂いた。
それらは、風に吹かれてゴミとなる。これらの紙クズは、きっと校庭にゴミとして落ちるのだろう。だが今の僕には、そんなこともうどうでもよかった。早くこの苦痛が無くなればよかった。風が佐藤から受けた僕の苦痛を少しでも早く吹き飛ばしてくれればよかった。
紙をこれ以上できないぐらい破った時、背後から音がした。僕が振り返ると、金属性のドアが大きく開いていた。
佐藤がいた。
再び始まるノイズが僕の避難場所までも浸食する。
一体、僕に何の恨みがあるのだろう?
耳の奥で鳴り響くノイズ。それは、脳を貫き、胸を抉り、足の先まで引き裂き、僕を殺そうとする。
そしてノイズの間に聞える彼女の声。
「……くん」
僕は、耳を塞いで叫んだ。
「何がしたいんだ!?」
僕の叫びは無視され、耳鳴りは続く。
訳が分からなかった。一体、僕に何の恨みがあるのだろう? 僕の避難場所まで奪って、佐藤に何の得があるのだろう?
一体僕が何をしたというんだろう?
空白の顔は、何も答えない。彼女の声は、ただのノイズ。
もう嫌だった。
僕は、ノートを開き、震える手でシャーペンを握り締めて、字を書くと、そのページを破り取った。
僕は、ノートの切れ端を両手で持った。
そして、『佐藤 明日香』の文字を破り裂いた。
すると、ノイズの音が小さくなった。僕は、ひたすら彼女の名前を破り裂いた。破るごとにノイズが小さくなっていく。
そうだ、最初からそうしておけば良かったんだ。発生源の『佐藤明日香』を消せば、ノイズも全部なくなるはずだ。なんでこんな簡単なことにずっと気付かなかったんだろう。
僕は引きつった笑みを浮かべた。
「お前なんて……消えてしまえばいいんだ」
僕は今まで受けてきた苦痛を込めて、紙をぐちゃぐちゃに破いていく。
紙の破く音に紛れて、ノイズに紛れて、彼女の声が聞える。
「……消えちゃだめだよ」
僕は、はっとして紙を破く手を止めた。
目の前には、もう誰もいなかった。
残されたのは、もう何が書かれているか分からない紙クズの山だけだった。そして、それはすぐに風に吹かれて、僕の手の中から消えた。
◇◇◇
僕は、帰って来るとすぐに自分の部屋に向かった。
一人になりたかった。なんだかすごく疲れていた。
鞄からノートを取り出す。ノートの切り取れる紙はなかった。あれが最後のページだったのだ。
机の引き出しには、ノートの予備はなかった。
何か書きたかった。何か書かないと、何故か気が狂いそうだった。
僕は、ツルツルした表紙の裏にシャーペンで文字を書こうとした。ペン先が滑って上手く書けなかった。マジックペンは、筆箱にはなかった。
どうしようもないイラツキが僕を支配する。
僕は、中身のなくなったノートの表紙と筆箱を机に投げつけた。
投げた筆箱が机の隅に置いてあった写真立てに当たる。写真立てが大きな音を立てて床に落ちた。
僕は、写真立てを拾い上げる。写真立てに入っているのは、四人家族が楽しそうに笑っている姿だった。
だが、その中で一人だけ抉り取ったように顔がなかった。
それは、僕だった。
僕は写真立てを床に叩きつける。
大きな音を立てて、写真立てが壊れた。すると何故かノイズが響き始めた。僕の視界が気持ち悪いぐらい揺れる。くるくる回る視界の中、壊れた写真立てから飛び出した写真がヒラヒラと飛んで、床に落ちた。だがすぐにそれは誰かの手によって拾われた。
ノイズが響く。
「………………だよ」
ノイズの中、誰かの声が聞える。
「消えちゃだめだよ」
佐藤明日香が何故か目の前に立っていた。彼女の顔は、相変わらず何も見えない。だが、今回は真っ白にくり抜かれているわけではなく、真っ黒に塗り潰されていた。そして、今よりずっと背が小さかった。
佐藤は、写真を胸に抱きしめた。
「返せよ」
僕は、佐藤の方に手を伸ばす。だが佐藤は、その手をかわし、机の間を走り回る。
そこは教室だった。
「紙を破るのをやめて」
耳奥で鳴るノイズに消えてしまいそうなか細い声で彼女が言った。いつの間にか僕の周りには千切れた紙クズが散乱していた。
「自分の名前を破るなんてやめて」
僕は、やっと彼女が持っているのが、写真ではなく、僕の名前の書かれたノートの切れ端だということに気付いた。
「あすかちゃんには関係ないだろ!」
それは、まだ声変わりのしていない僕の声。淡い記憶の欠片。
「ゆうくんが消えちゃう」
彼女は必死だった。紙を自分の胸に抱き寄せ、一生懸命この場所に立っていた。
「ゆうくん、とってもつらそうだよ。今にもこわれちゃいそう。ううん、ちがう。もうこわれはじめてる。それはきっと紙を破りつづけたから。自分の名前を破りつづけているから。こんなことをつづけていたら、ゆうくんはここにある紙クズのようにボロボロにちぎれて、そして消えてしまう」
彼女はそう言ってますます大事そうに僕の名前が書かれた紙を抱きしめた。
「いいんだ。ぼくは、消えたいんだ」
僕は、彼女ににじり寄る。彼女は、ひたすら首を横に振っている。彼女が話していない間もノイズは途切れない。
「みんな死んじゃったんだ。お父さんもお母さんも弟も。だけど、ぼくだけが生きている。あの時、同じ場所、同じ事故にあったのに。おかしいじゃないか? なんでぼくは、生きているの? ぼくは、あの時、いっしょに死ぬ運命だったんだ。死ななきゃいけなかったんだ。だから、消える。今からでもおそくない。ぼくは消えるんだ!」
「ゆうくんは一人じゃないよ。わたしがいるから。つらい時はそばにいてあげるから。大丈夫だから。だから、だから、もうそんなことやめよう? わたし、ゆうくんが消えちゃうのいやだよ」
ノイズが強く響く。
「そんなことどうだっていいよ! だからかえして!」
僕の手が彼女の方に伸びる。そして彼女の腕の中にある紙をもぎ取ろうとした。だが彼女は紙を絶対に離そうとしなかった。
どちらも譲ろうとしない二人が引っ張る紙は、すぐに破れた。
そして彼女は、破れた紙の大部分を抱えて、後ろ向きに倒れていく。
そして鈍い音が教室に響いた。
机の角に当たった彼女の頭から血が流れて行く。僕はちっぽけな紙きれを握りしめたまま立ち尽くす。
一瞬の沈黙。血は、彼女の頭を中心にゆっくりと確実に広がっていく。彼女は横たわったまま動かない。
僕は意味のない言葉を吐くことしかできなかった。
「ち、ちがう、ぼくは、そんなことやろうとしたわけじゃなかったんだ……」
そこまで言うと、体から力が抜けたように僕は床に座り込んだ。
風が僕と彼女の間を通り抜ける。床に散らばった紙クズが舞い上がる。紙クズはまるで万華鏡のように煌めいて、過去の断片を映し出すかと思うと消えていく。
ノイズが痛みを伴って体を走っていく。忘却された記憶が脳裏に閃く。僕は、拒絶してきた記憶に嗚咽を漏らす。
全て思い出した。
その後、僕は、彼女から逃げるように転校したんだ。
祖父母の家に行くことは、決まっていた。だけど、僕は彼女と向き合うことなんかしなかった。彼女と会うことも謝ることさえしなかった。
僕は自分の責任から逃げた。
そして、彼女に怪我を負わせた自分の失敗を紙と共に破いて消し去ろうとした。僕は、彼女の存在自体を忘れようとしていた。
ノイズの声も顔がないのも、全て僕が拒絶していたからなんだ。
そう思った途端、突然紙が破ける音が聞えた。
彼女の抱えていた紙がビリビリと破けていく。そこには僕の名前ではなく、彼女の名前が書かれていた。
止める間もなく、紙は最後の音を立てて真っ二つに裂ける。その瞬間、彼女は繊細なガラスのように砕けて、真っ白な紙クズになって、僕の周りを舞う。
「待ってくれ! 僕は、そんなことするつもりはなかったんだ!」
BGMのようにかかっていたノイズは、いつの間にか消えていた。目の前にあるのは、ゴミ同然の紙クズだけ。
真っ白な紙クズが僕を嘲笑うように宙を漂い、床に落ちていく。
強い風が、窓から入ってくる。カーテンが揺れる。紙クズが大きく巻き上げられ、遠くへ飛んでいこうとする。僕は紙クズを捕まえようと追いかけたが、伸ばした手は、それに触ることもできなかった。
そして、紙クズはどこか遠い場所に消えた。
長い、長い無音。それが教室に充満していく。
紙クズさえ失った僕は、一人ぼっちで立ち尽くすしかなかった――――
僕はハッとして目を覚ます。
夢だった。
僕は、いつの間にかベッドに横になっていた。写真立ては、机の上にきちんと立てられている。写真は、四人家族の幸せそうな姿が写っていて、その中にはちゃんと僕も存在していた。写真の中の僕は、裏表のない自然な笑顔を浮かべていた。
机の周りは、いつの間にか真っ白な紙クズが散乱していた。
握り締めていた右手を開くと、小さな紙クズが床に音もなく落ちた。
僕は、頭痛に襲われた。
きっと寝過ぎたのだろう。それにしても、胸に突き上げてくるようなこの嫌な感じは何だろう? 後悔? でも何故?
僕は、慣れた仕草で写真立てを伏せた。そして、床にしゃがみ込み、散らばった紙クズを拾い上げて、ゴミ箱に捨てた。
夢の記憶は、既に遠い過去のように限りなく淡く薄くなっていた。たった昨日のことさえも曖昧で、色んな事がいつの間にかあやふやになっていた。
そうやって、僕の中の彼女は真新しいノートみたいに白く、消えた――――