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先生さようなら

 私が担任したクラスは夏休みを前に私の担任するクラスではなくなった。


 担任という言葉も間違っているのかもしれない。ただこどもたちの中に埋もれていただけだった。私のクラスはめちゃくちゃだった。授業中にじっとしていられないのは当たり前で、すぐに遊んだり大声で笑ったりする。子供は本来こうあるべきなのだ、自由に動き回ればいい。ただここは学校で、授業中で、教育者としての立場を持てばそれは許されないことであり、もちろん私は注意をする。しかしこどもたちは聞かないし、その注意だけで時間が終わってしまう。そして保護者からの苦情、上司からの注意、私は散々に参っていた。これ以上続けるともう体が持たない。


 そして教師そのものをやめることを決意した。


 6月に入ったくらいに他の先生に相談してみた。私の疲れ果てた姿をずっと見ていたからかもしれない、誰も私を引きとめようとはしなかった。むしろ、私の後に続きそうな先生を逆に心配した。教頭は少し違う意見をした。『君がつらいのはわかる、でも君はこの教師という仕事に憧れていたんじゃないか。その憧れの場所に立ったのにこんなことでそれをすべて消してしまってもいいのか』と私に言った。「こんなこと」という部分に少し腹が立ったが、そんなことより、上辺で良いことをいって内心は学校と言う組織への懸念を考えているのだろう。こういう教師がいる学校はダメだとかレッテルを貼られるのが嫌なだけだろう。私はすぐにやめるつもりであったが、教頭との話し合いの末、最低夏休みに入るまで、つまり一学期は教師、クラス担任を続けるということになった。まだこんなところにいるのかと思うとやはり気分は優れないがトンネルの出口は見えているということでなんとなく楽な気持ちにもなれた。


 それは私にとっては重大なことであったのだけれど、その後もクラス内の日常は変わらなかった。授業が始まる前にわたしはきちんとこどもたちに告げた。


 「先生は事情でこの学校を辞めることになりました。残り少ないけどよろしく。」


 ざわざわした様子が一瞬止まって私はびっくりした。もしかして少し悲しい気持ちになってくれたのかと思ったが、その考えは一瞬で崩れた。


 「先生どこ行くの?」

 「事情って何?」


 またざわざわし始めた。


 「なんで?」「どうして?」は悲しみではなくただ単なる好奇心からのものであることはすぐにわかった。そしてその無邪気な質問に何も答えず私は教科書をめくり淡々と言い放った。


 「じゃあ前の続きから」


 もちろんおとなしくなることはなくいつもと同じに戻った。


 「なんで教えてくれへんの?」


 またざわざわしはじめた。


 「静かに。授業に集中してよ」


 一応注意したがたぶん後ろの席の子には聞こえてなかったような気がする。もうどうでも良くなっていた。

 

 「さようなら」とみんな声を揃えて言う。クラスがひとつになるのは一日のうちでたった2,3秒、このときだけだ。そしてその瞬間がおわると波が引くように子供たちは去っていく。私は毎日なにをしているんだろう。そう考える暇もなく、宿題の採点をする。教室にある私の机はかなり散らかっている。そのことを指摘してくるこどももいた。確かにこんな机をみせることは教育上悪いがこの教室内では教育そのものが成立していない。いったい昔と今で何が変わったんだろうか。そんなに大きく変わることがあっただろうか。私の時代には先生のお仕置きを食らう少数がいたが、今ではその少数が当たり前になり、さらに保護者やPTAという負荷が伴う。あまり考えすぎるとよくない。私は採点に集中する。そしていつものように感じるのだ。こどもたちは授業中はざわざわしているが勉強は比較的出来るのだ、それは塾の存在があるからだ。そんなことずっと前から知っている。もうみんな塾を学校にすればいい、学校なんてなくしてしまえばいい、極端な想像が頭を回っていた。



 「先生、やめるんか?」


 その言葉でわれに返った。その言葉はクラスの中でも特に落ち着きがなくざわざわの中心のような男の子だった。


 「どうしたん?」


 どう言葉を返していいのかわからず、よくわからない返事を私はした。すると、私の机の一番近くの席に来て、ランドセルをおろし、座った。


 「どうしたん?」


 また同じことを聞いてしまった。でもそれは本心からだった。本当にどうしたんだろうと思ったからだ。


 「俺な、国語の授業好きやってん」

 「そう、ありがとう、先生、嬉しいわ」

 「いや、先生は好きちゃうで。授業が好きなだけや」


 顔を真っ赤にして「授業が」を強調して言う姿は微笑ましかった。


 「なんや、そう。ちょっと残念やな」

 「いや、別に先生も嫌いちゃうけど、いや、その・・・・・・」


 変な空気になったので、私は茶化すように言った。


 「もう、別にええよ、でもなんで国語好きなん?」

 「俺、漢字が好きやねん」

 「へえ、意外やなあ」

 「難しい漢字もめっちゃ知ってるで」

 「例えば、どんなん?」


 そこから私と彼の漢字談議が始まった。私も彼と同じく国語が好きだった、というのも私が教師を目指したのは高校のときの国語の先生がきっかけだった。高校生の頃、引っ込み思案であまりクラスになじめなかった私の心のよりどころがその国語の先生だった。クラスの担任の先生より話をしたと思う。国語の授業について、最近読んだ本について、進路について、単なる世間話、いろいろと話した。私は先生のような教師になろうと思った。教頭のいうように憧れを持っていた。私が教師になりたいと言うとその先生は喜んでくれ、そしてこう言った。


 『教師しててよかったと思うことなんか年に二日、三日あったら良い方やな、それだけは覚えときや。でもその二日、三日で何百日の嫌なことを忘れることができる、これも覚えときや』


 ごめん、先生。



 「先生、どうしたん?」

 「え、うん、何でもない」


 ノートにはいろんな漢字がびっしり書き込まれている。二人で漢字ゲームをしていた途中だった。古い記憶を思い出していた。


 「じゃあ次は『さんずい』の漢字いくで」

 「よっしゃ、今度は俺が勝つで」


 ひとつの部首についていくつ漢字を書けるかというゲーム。この子ぐらいの時代にこのゲームをした記憶がある。彼が本当に小学生では書けそうもない漢字を書くものだから、このゲームに誘ってみた。結果は私が全勝。そうでないとまずいから、まあ良かった。

 



 「先生、ほんまにやめるん?」

 「うん、そうや、やめるんよ。でも私がやめても国語の授業は無くならんから安心しとき」

 「うん・・・・・・漢字ゲームおもしろかった、またしよな」

 「うん、またしよな」


 最終下校の音楽が流れ始める。いつもより物悲しく感じられた。彼を見送って、宿題の採点を再開する。参ったな、今日は遅くまでかかりそうだ。でも今日は年に三日くらいのいい日だったのだろうと思う。


 その後、私が学校を去る日まで、何も変わらない日が続いた。彼とその後何度か漢字ゲームをした。しかし特別仲良くなったわけでもなく日常はあまり変わらなかった。そして最後の日が来た。


 「もうみんな知ってると思うけど、先生はこの学校をやめます。短い間やったけどありがとうね」


 涙は全く出なかった。私はこうなることを望んでいたからだ。こどもたちも誰も泣いていなかった。すると学級委員が立ち上がり、私に花束を持ってきた。そして台詞口調で「今までありがとうございました」と言い、みんなも「ありがとうございました」とつづいた。さすがに泣かないとまずいなと思ったが泣けそうもない。ちらっとみんなのほうを見ると、あの彼がいないことに気づいた。そういえば、今日は欠席だったな。朝、電話が来ていた。夏風邪をひいたとか言ってたな。なんだか少し残念だったけど、まあいいか、仕方ない。学級委員は続けて私に色紙を渡した。いわゆる寄せ書きだった。中心に「先生ありがとう」と書いてあり、その周りに円になるように言葉が刻まれている。「ありがとう」私は精一杯心を込めて言ったがやはり涙は出なかった。


 職員室での荷物の整理を終え、お世話になった先生方に挨拶をし、私はこの学校を去った。同時に教師という職からも去った。



 帰りの電車の中、乗客はかなり少なくなった。私が乗った車両には私と疲れたサラリーマン一人だけになった。そうだ、せっかくだし、寄せ書きを読もうと思った。クラスの中で読むのもなんか癪だったし、職員室で、というのも気が引けたので、きちんと読んでいなかった。こどもたちはなんと書いたのだろうか。


 「先生、ありがとう。これからもがんばってください」みたいな王道が多数を占めるなかで異様な輝きを放つ二文字があった。







 

薔薇








 普通の文字の3倍くらいのスペースを使って大きくそう書かれていた。とてもバランスが悪い二文字。



 「俺、漢字が好きやねん」

 「難しい漢字もめっちゃ知ってるで」


 その台詞が脳裏によみがえった途端、その二文字は見えなくなった。




 薔薇ってなんやねん。


 小学生でこんな字書けんの、この子くらいちゃうか。


 もっと「先生ありがとう」とか、そういうの書いたらええのに。

 

 ほんま何考えてるんやろう、この子は。


 ほんま、あほやなあ。




 涙というものはこんなにも出るものなのか。私は嬉しかった。ただ嬉しかった。


 薔薇の花束をもらうよりずっと。


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