第5話 運命の抜け道
血流がザリザリと体を這うように巡って、体は重りを付けられたように急激に重くなる。
体力が蒸発して行くような感覚に、背もたれに預けていた背中を少しづつ横にずり下ろして膝に額をすり付けるように縮こまってみると
放出されて行く気力は少しばかり抑えられたような気がした。
「……また……五条のかわりなのかよ……」
それでも数日の疲れはドスリと、重く背中にのし掛かる。
ここに来るまでの央間の俺の扱い方は、甚だ乱暴すぎるとしか言いようのないものだった。
……かといって、彼女達はきっと無責任に俺をここに連れ込んできた訳ではないのだと思う。
彼女たちは実際、銃弾を前に俺たちの盾となって戦ってくれていた面もあったのだから。
彼女達としても、できれば死人を出さずに済ませたらとは思っていたのだろう。
五条がリスト入りしていると言うことは、それだけ彼が何らかの事柄の要になる存在だと言うことなんだと思う。
央間達にとって五条太秦と言う人間は万が一にも失われては困る存在だったのだろう。
そこにちょうど良い具合に俺と言う影武者が見つかった。
『エルフ』のカウントは未だにまだ2つも残っているのだ。恐らくはそうするより他に方法がなかったのだろう。
なかったのだろうけど。
(はぅ・・・・・・。)
思わず、内臓が押しつぶされたかのような苦しげな吐息がこぼれ落ちてしまう。
寂しさが、胸を視点として体中に広がって。
自然と手は顔を覆い、下を向いてうなだれてしまった。
「絶望しちゃった~?」
「!!」
突如かけられた声に一度闇に落とされた視界は引き戻されるようにして光の下へと復帰する。
ソファの横にはいつの間に近づいたのか、内臓欲しい系女子の例の黒髪女性がちょこんとしゃがみ込んでいて
彼女は頬杖をついたぶりっ子顔で俺の表情を掬い上げるように覗き込むと、どこかわざとらしいアヒル口に笑みを含ませながら潤んだ大きな黒い瞳を子供のようにキラキラと輝かせていた。
当然のことながら俺は驚きのあまりソファがずれるほど派手にイスの脚を鳴らし横に飛びすさる。
彼女はしばらく前から俺の思案顔を覗き込んでいたようなのだが、今の今まで足音一つ立てずにこちらに近付いて空気と同化していたことには最早恐怖しか感じられない。
「悲しくて死んじゃいたいならアタシがいつでも協力とか~……
「死にたくないです!!まだぜんっぜん死にたくないですし絶望もしてないです!!あー!人生ってちょー楽しヒーッア!!」
ただし彼女の前でマイナス感情を浮かべることは 、すなわち人生の強制終了を意味する行為である。 内臓欲しい系女子は俺の大袈裟な人生賛美にたいへん残念そうな表情を浮かべると
「そこは絶望しとこうよ~」
とか意味不明な提案を持ちかけてくる。
怖い。この人どう考えても怖すぎる。代用の餌でも何でもいいから今すぐ央間に助けに来て欲しかった。
「……って言うか俺、ドアの鍵閉めたんですけど……
あなたなんでここの鍵持ってるんですか……!あなた一体グスタヴィのなんなんですか!?」
彼女を前にした俺はまるで家に乗り込んできた浮気相手を怒鳴りつける妻の如き剣幕でアイドル顔のサイコパスを問い詰める。
「――…別になんでもないぞ。「それ」はただの険死官だ。普段はMAー9の研究室にいるはずなんだが・・・・・・。一体何をしに来たんだ戸鞠美影〈トマリ ミカゲ〉。」
そんな絶妙なタイミングでヒーローのように現れたのは他ならぬ我らがグスタヴィだった。
戸鞠さんは悪びれもなくグスタヴィに食ってかかる。
「だってこの子思ったより勘が良いんだよ~?どんな脳波してるのかちょっと覗かせてもらおうと思って~。
セキュリティに頼んでちょっと開けてもらっちゃった~♪」
キャハッ。とでも効果音が入りそうなぶりっこポーズを決め込んで彼女は 自らの悪行をごまかそうとするも、真面目一貫のグスタヴィに強烈な眼力で睨まれると、さすがに少しだけ反省したように小さく肩をすぼめて見せた。
それにしたってここのセキュリティは一体どうなっているのか。ザルか。ザルなのか。そもそもこの人は何を言ってるんだ。脳波とか覗くとか。俺を改造人間にでもするつもりなんだろうか。
「さぁ出ていってもらおうか。患者に同意なく研究材料に使おうだなんてお前は一体どう言う神経をしてるんだ。
それに各医師の部屋に無断で進入するのは元より規定違反のはず。
まったくセキュリティも何を考えているのか……」
どうやらグスタヴィも同感のようだ。央間の共犯ではあるものの多分ここでは彼が一番まっとうな価値観を持っているんじゃないだろうか。
グスタヴィに白衣の後ろ襟を掴まれて部屋の出口へと引きずられて行く戸鞠さんは子供のようにすねた顔をして襟を拘束する大男の腕を振り解くと、雛鳥のように高い声でピーチクパーチク意義を申し立てる。
「なにようなによう~!あんた達だってB-スキャンごまかして健康体の少年拉致して来てんじゃな~い!ちょっとくらい協力してくれたってい~と思うしい~!!この年頃の検体はここじゃそうそう手に入らないんだからね~!!
例え男でも10代と40代のお肌の違いくらい、ちょっと見りゃ解んだから~!」
「ぐむ……」
グスタヴィはあからさまに動揺する。
不覚なことに俺はちょっとだけ嬉しかった。
「ま~でも、疑惑程度だったからこの前この子に会った時にちょっ~と髪の毛もらっといて検査してみたら確証が出たんだけどね~」
前言撤回。いつの間に何してんだこの人。スパイか、スパイなのか。
グスタヴィは俺が偽物だと言うことがバレたためか、もしくは戸鞠さんがぶっ飛び過ぎていて付いていけないからか右手で顔を覆い込むと大きな溜息を床に吐きこぼした。
調子に乗った戸鞠が追い打ちをかけるようにグスタヴィをからかおうとすると、それを遮るかのように部屋の壁に設置されたスピーカーから爆音の警報が鳴り響き始める。
ビーッ!ビーッ!ビーッ!
この音はもはやトラウマである。
「邪魔が入っちゃった~……。閉じこめられる前に帰ろ~っと……」
診察室のデスク横の壁がセキュリティの遠隔操作か自動的に隠し金庫を押し開ける。
中身はガンセーフになっていた。
「持ってけ」
グスタヴィは中からM16アサルトライフルとM19コンバットマグナムを取り出すとリボルバーの銃を戸鞠さんの方へ放り投げる。
そして内部の赤いボタンを押してガンセーフの蓋を閉めると金庫は小さな機械音を立てて壁に飲み込まれ、また跡形も無く景色と同化した。
「お……俺にはないの……!?」
「お前にはハンドガンがあるだろ」
俺のジャージのポケットには未だに回収されずにアリカのハンドガンがねじ込まれているのだが、目の前のリボルバーやライフルとでは威力に雲泥の差がありすぎた。
ここに『エルフ』がいると解った以上、手持ちの武器が9ミリハンドガンのみというのは恐ろしく心細いと言う以前に最早丸腰であることとなんら変わりが無い。
たまらず俺はグスタヴィに食ってかかってしまう。
「戸鞠さんがマグナムで俺が9ミリとか……普通逆でしょお……!!女性がマグナムとかまともに撃てるんですか!?」
「こんだけ図太い神経してれば問題ないだろ。むしろお前にマグナム与える方が危なそうだ」
「も~失礼しちゃうなぁ~……」
文句を言いながらも素早く装備を調えた戸鞠とグスタヴィが同時に外へと駆け出していく。
「ま……待ってよぉ……!!」
俺も情けない声を上げながら慌てて短期入院棟方面に向かうグスタヴィの後を追った。
セキュリティがザルだと解った以上、ここに留まる理由はどこにもなかった。
周囲の隔壁が次々と閉じていき、進む先から帰路が閉ざされていく。
グスタヴィはSS-1のエレベーターホールに駆け込むと、吹き抜けから下層階を覗き込みつつ手早くエレベータの呼び出しボタンを押した。
「……どこで……何が起きてるのかっ……、今回はアナウンスがないよ……ね……っ」
運動不足ゆえに早々に息切れを起こしながら、俺はなんとかグスタヴィに撒かれまいと必死に声をかけ続けて、彼が立ち止まったと見るや一気に距離を詰め横のポジションを確保する。
「それだけ事態が切迫してるってことだろう。俺達の居場所は館内GPSで把握されているはずだから進める道が目的地だ。
ついてくるのは構わんが、死んでも知らんぞ。」
言って視線をエレベーターに戻した大男は、ふと何かを思い出したかのように再びこちらに視線を投げ下ろす。
「 ……診察室の鍵のことを気にしているなら……あれは男性医師のものに限り遠隔操作で解除が可能なだけだ。次からはまた央間の部屋にこもるんだな」
「それはもっと早く言って下さいよぉ!!」
俺は緊張が行き過ぎて、半泣きの顔に鼻水が覗く始末。
エレベータが到着しグスタヴィが操作パネルにカードキーを差し込むと
行き先階は自動で点灯し、俺達を乗せた箱は扉が閉まるのも待たずに降下を開始した。
目的地はSS-4だ。
俺は空調の効いたエレベータの中で緊張の面持ちで階数表示を睨み付ける。↓2。↓3。あと一階。ポケットの中のハンドガンを握り締めて肩に力を入れた瞬間のことだった。
ガコンッ
鈍い音がしてエレベータの降下が止まる。
「なっ……!?」
数秒して施設全体の照明も一斉に落ちた。グスタヴィは身を低くしてあたりの様子を伺っているようだ。
30秒ほどするとガチムチの大男は力任せにエレベータの扉をこじ開け始める。
「ふんっ……!!」
外側の扉を開くと、廊下の奥から水槽越しに屋外の淡い日の光が差し込んでくる。
エレベータは地下3階のドアを僅かに過ぎた所で止まっていた。床との誤差はちょうど高校の机くらいの高さだろうか。これなら俺一人でも上がれるだろう。
エレベータの外には人の気配が感じられなかった。
「この階の隣フロアには配電板がある。とりあえず館内の電気を復帰させなければ。
悪いが先に行ってるぞ」
グスタヴィはでかい図体を軽々と跳ね上げて、さっさと先に行ってしまう。
俺は明後日の方向に悪態を付きながら、多少筋肉痛気味の重い足で一人必死になって段差をよじ登った。
「くそー!医長の嘘つきー!!全力でお守りしますって言ったじゃんかよー!!」
俺は金を払っている訳じゃないので無理もない話なのだが、拉致られてここにいる手前、多少の理不尽さを鼻水を垂れ流しながら感じていた。
やっとのことでSS-3を抜けてグスタヴィのいるPA-3と書かれた今までとは少し色の違うフロアの方へ駆け寄ろうとすると、
渡り廊下を区切るガラス扉を出ようとしたところで左手に向けて拳銃を構えていたグスタヴィが、対象から目を逸らさぬまま俺を一喝した。
「止まれ五条!!」
PA-3はバームクーヘン状に部屋が配されていた他のフロアとは違い、手前の廊下と奥の鉄壁の二分割で構成された四角い大理石調の鉢植えブロックが並ぶだけの無機質な空間だった。
鉄壁には、いくつかの扉が見えているがこれがグスタヴィの言っていた配電室なのだろう。
グスタヴィは手前の廊下、もといテニスコート程度の面積の広場で侵入者と睨み合っているようだった。
特に物陰に隠れていない所を見ると、今のところは侵入者は一人だと思ってもよさそうだ。
しかし止まれとは言われたものの、非常用電源でも働いているのかすでに背後の隔壁は閉じられている上に目の前の分厚いガラス扉は例え防弾であったとしても通常弾ならさておきライフルグレネードでもぶち込まれればひとたまりも無いような代物だった。
俺はこの空間に閉じ込められることを恐れて一度開きかけたガラス扉を閉じきることもできずに、広場の奥の空間を恐る恐る覗き込む。
「……あ……」
グスタヴィの向かいにはついさっきまで医長の後ろについていた黒髪七三分けの真面目そうな研修医が力なく佇んでいる。
しかしその白衣には茶色い液体のシミが垂れ下がるようにべったりと塗りつけられていて、かすかに届く消毒液の臭いからしてその液体は医療用ヨードだろうとは思えたのだけど。
問題はその大きなシミの形がローマ数字の、『Ⅱ』にも見えるということだった。
嫌な予感が冷たい風を起こして俺の背中を撫で下ろして行く。
「後ろにある部屋に入れ!!そこに央間がいる!!」
反射的に右手に目を移すとグスタヴィの背後にあたる鉄壁には、ポツリと一つだけ周りから広い空間を開け独立した鉄扉があった。
扉には何の表示もないが、恐らくはここが目的地なのだろう。当初は敵の数を警戒して下階から回り込むつもりだったのだろうが央間に先を越されていたのなら結果的に俺達は良いルートで来れたのかも知れない。
扉まではおよそ15メートル程。
なぜグスタヴィがすぐに研修医を確捕しなかったのかは解らないが、迷う選択肢など今は無いだろうと俺は震える足に喝を入れ覚悟を決めて
数秒の間を置くとガラス扉から全力疾走で渡り廊下へと飛び出し、鉄扉まで駆け寄ってグスタヴィの様子を見やりながら重い扉をガコンと開け、隙間から配電室の内部へと滑り込む。
部屋に入る間際に垣間見たグスタヴィと向かい合う研修医の両足には、さっき診察室で会った時には気付かなかった黒いサポーターのようなものが巻かれていたような気がする。
「いいところに来たな山井。配電操作を別の補助電源に移すんだ。 ちょっと手伝ってくれ。」
配電室の中までは水槽の光は届いていないようで、室内はランタン式の懐中電灯で薄暗く照らしだされていた。
央間は壁に据えられた膨大な量の配電盤のボタンを次々と押しながら表示を切り替えている。
一緒にいたアリカの姿が見えないが、央間のことだからすぐに安全な場所に避難させたのだろう。
「そんなことしなくても外には一人しか敵はいないんだよ!?こんなとこに長くいたら追いつめられるだけなんじゃないのか!?」
「いいから早く手伝ってくれ」
央間は構わず入口に突っ立った俺の腕を掴みに近づくと、配電盤の方へ引き寄せて移行操作をやって見せる。
外からは音が全くしてこない。グスタヴィはなんで銃を向けたままいつまでも動こうとしないのか。
なんとなく、さっきの研修医の表情も気にかかってはいた。
遠目ではあったものの見開かれた彼の生白い瞳だけはこちらからもよく見えていた。
配電盤で腕を忙しく動かしながら外の戦況を考えていると央間が世間話でもするような悠長な口調で話しかけてくる。
「お前あの研修医の足を見たか?」
慣れない機械の操作中に質問を投げられてみても、遠まわしな発言をする央間の心中を探れるほどの余裕など現時点であろうわけもなく
俺は多少つっけんどんな態度で言葉を返してしまう。
「見たけど?サポーター巻いて怪我してるみたいだったね」
央間は少し間を置いて息をついた。
「あれは爆弾だ」
言うまでも無く俺の作業の腕は、ピタリと止まってしまった。
ついでに心臓も止まってしまうんじゃないかと思った。
「……こんな時にそーゆう冗談言うのやめてよ……」
そこでふと考えてしまう。グスタヴィはなぜ研修医に近寄ることができないでいるのか、あの白衣に描かれたものは一体なんだったのかを。
取り戻したはずの体温がまた急激に下がってくる
こんな時でも央間は相変わらず作業の手を緩めることなく、冷静を顔に貼り付けている。
「心配するな。お前は責任を持って逃がすから」
そういって俺にかけられた言葉は、朝方アリカがかけられていたものと同じ優しいもので。
「……「お前は」って……。なんなんだよ……」
央間はまた、それが当たり前のことであるかのように質問の答えを返してはくれなかった。
そんな時、沈黙を破るようにしてドアが大きな音を立てて小さく開かれ、グスタヴィがすり抜けるようにして配電室に入り込んでくる。
ドアの外では研修医がドンドンと扉を叩き、一人悲痛な声を上げて喚いていた。
「助けて・・・・・・!助けて下さい・・・・・・!!お願いしますぅぅぅ・・・・・・」
叫びは徐々に泣き声へと変わって行く。
研修医は侵入者に、もといリアルの『エルフ』利用されていただけだったのだ。
「時限式の爆弾だ。あと5分もすれば爆発する」
グスタヴィは壁に顔を向けたままそう吐き捨てると、扉の鍵を閉めて配電盤の操作を手伝い始める。
「そんな……」
状況は打開できないのか。早々に配電盤の移行操作に踏み切っている央間はもとより、面倒見の良いグスタヴィが研修医の爆弾処理を諦めている以上、今この場を収められる人間は誰もいないのかもしれない。、
それはあまりにも。あまりにも居た堪れな過ぎる現実で。ここにアリカがいなかったことだけが、唯一の救いだった。
俺はこみ上げてくる何かを喉元でギュッと押さえつけながら小刻みに震える歯で唇を噛み締めることしかできなくて。
そうやって会話に気を取られたまま俺が作業の手を止めているうちに、二人の医師達によって配電機能の切り替え作業はすでに残り一割程度になっていた。
すると俺の担当区域まで操作を広げていた央間が、おもむろに官給ベルトからグロック拳銃を引き抜いてコッキングする。
「グスタヴィお前は行け。私が片を付ける。アリカの面倒を見るのは、お前の方が向いている」
言って央間が配電盤の片隅にあった青いボタンを押すと、金属の壁の平面でしかなかった板が数センチ程沈み込んで左右に開き、中からストレッチャーが押し出されてくる。
「こいつは搬送ボタンを操作して押し戻すと、指定の棟まで送られるんだ。
・・・・・・バスチオンの構造上あの程度の爆弾なら他の棟までは被害は及ばない。
それを解った上で私達を巻き込むために想定から除外していた爆破でのテロを謀られたんだ。・・・・・・迂闊だったな・・・・・・。」
央間はストレッチャーを撫でるようにして目を伏せていた。
「脱出が済んだらお前を家に送るように他の人間には指示しておいた。
私がいなければこの強攻策の首謀者もいなくなる」
央間はそう言うと、壁に立てかけていたM4アサルトカービンを拾い上げてストレッチャー下の引き出し状の銀の箱の中に放り込むと留め金を締める。
それはどう考えても。別れのセリフにしか聞こえなくて。
「なんだよそれ・・・・・・。お前・・・・・・馬鹿じゃねぇの・・・・・・?」
俺は納得が行かない。それでも、誰かがストレッチャーを押さなければ全員が爆発に巻き込まれてしまう。
例えば俺が残って、二人を逃がすことができるのかと言えばそんなことはできるわけがなかった。
刻一刻と迫る死の恐怖ですでに、俺の手と足は自らを支えるのがやっとなほどに震え上がっていた。
そんな央間の態度にもグスタヴィはなぜか、能面のような少女の顔を黙って見ているだけだった。
「グスタヴィ。例の薬、お前が持ってるんだったよな。」
「・・・・・・ここにある」
今更何の薬なんだろうか。グスタヴィは、白衣の胸ポケットから小さなビニールパックに入った液体タイプのカプセルを取り出して、封を開けるとそれを自らの右掌に乗せた。
「あと1分したらストレッチャーを射出する。暴れるかもしれないからお前が山井をストレッチャーに縛り付けて全て終わらせてくれ」
「終わらせるって……」
縛り付けるだの終わらせるだのと、物騒すぎる言葉に怯える俺を尻目に
央間がドアに向かい、すれ違うようにカプセルを握りしめたグスタヴィがこちらに歩を進めて
「そうしよう。・・・・・・ああそうだ。央間」
「・・・・・・ん・・・・・・?」
呼び止められた央間は無防備に大男へと振り返る。
壁際を通るグスタヴィの太い右腕が、瞬時に央間の方へ大きくスイングして
「これはお前が飲め」
グスタヴィの左掌は央間の後頭部に添えられ、開いた右掌が、央間の口を塞ぎそのまま床に叩き落とす。
「ぅぐっ・・・・・・!!」
「グスタヴィ!?」
一瞬何が起きたのか解らなかった。
だが。すぐに倒れ込んだ体を起こして、ひどく噎せ込んでいる央間をみる限りは
彼女が俺に飲ませるよう指示していたカプセルをグスタヴィが無理矢理央間に飲ませたようにしか見えなかった。
一体どういうことなのかが理解できず、俺はただ戸惑うまま黙って目の前の事態を見守っていた。
グスタヴィは座り込んで噎せ続けている央間に穏やかに語りかける。
「お前は何か大きな思い違いをしていないか?
・・・・・・ここは。人を死なせる場所じゃないんだ」
「何を今更・・・・・・」
やっと息をついた央間が、凶悪な目つきでグスタヴィを睨み付けると口についた唾液をたくし上げられた自らの白衣の袖でぬぐい取る。
「お前みたいな命知らずは・・・・・・。ここにいるべきではないのだ」
そう言ったグスタヴィの肩は胸を張った戦士のソレではなく、年老いた父親のように丸まっていて
彼の懸命な思いやりの声も届かず、央間は拾いたての猫のように牙を向いてグスタヴィに噛みついて吠えたてる。
「はっ治検段階のこんな薬で・・・・・・!本当に・・・・・・何もかもが忘れられるとでも思うのかお前は!?」
「思わない」
俺は二人のやり取りをただ見ていることしかできなかった。
今俺に解る事は、あの液状カプセルが記憶を消すためのものだったということだけだ。
央間は壁にもたれかかりながらフラフラとした足取りで立ち上がって
その瞳は今にも意識を失いそうに朦朧としていた。
爆発までは、あと二分を切っていた。
終わりの時は、確実に迫りつつあった。
「・・・・・・それでも良いきっかけにはなるだろうと思ってな……。
全てを忘れて・・・・・・そしていつかまた思い出したとしても」
グスタヴィはフラつく央間の肩を受け止めると、そのまま抱き上げてストレッチャーの上に運んで行く。
「お前には何も覚えていないと言う権利が与えられる」
「・・・・・・お前は・・・・・・。・・・・・・何も解っていない・・・・・・」
央間の腕が抵抗に動くも弱々しく宙を掻き、捕らえられた腕がストレッチャーのベルトに繋ぎ留められた。
ストレッチャーに横たわり、薄く開いた目でゆっくりと瞬きを繰り返しながら、
少女のかすれた声が旧知の盟友を責め立て続けた。
「そんなに簡単に抜け出せるものならば……もう……とっくに……」
「ああ、そうだな。……だが根本的な解決策が見つかるまでの時間稼ぎくらいにはなるだろう」
央間の拘束を終えるとグスタヴィは俺の方へ向き返り
「山井治。お前も乗るんだ」
少し広めのストレッチャーに、央間と一緒に転がるように指示される。
戸惑いつつもストレッチャーによじ登りうつぶせの姿勢で並んでみると、彼女の小ささが改めてよく解った。
彼女の身長は、学校で隣に座る150センチの女子にも満たないものだった。
それでもストレッチャーには、もう大男が入るだけの隙間は見当たらない。
「グスタヴィ・・・・・・」
大きな影を振り仰いだ俺は多分、今まで親にしか向けたことの無いような顔をしていたんじゃないかと思う。
「山井。……お前に一つだけ言っておきたいことがある」
彼は俺が現実味のない願いを語ることを許してはくれなかった。
「・・・・・・なんですか・・・・・・?」
時間は。限られていた。残された時間は彼のものだ。
彼にはその権利があった。
「お前はこうなる前のミリヤに一度会っている」
「・・・・・・え・・・・・・?」
「お前と五条だけが、もっとも人らしく生きていた頃のミリヤを知っている」
まっすぐと俺の目を見据えるビー玉のようなアクアブルーの瞳。
その瞳には、一切の濁りが見えなかった。
「これも何かの縁だ・・・・・・。・・・・・・ミリヤを頼んだぞ・・・・・・」
ガシャンと、音を立てて押し込まれたストレッチャーがレールに乗って闇に飲まれていく。
「グスタヴィ・・・・・・……グスタヴィ……っ」
「俺は死なん」
背を向けた大男の姿は、敷かれたレールの下降ラインによってすぐに見えなくなってしまった。
「グスタヴィ・・・・・・」
伸ばした手が宙を扇ぐ。
「う・・・・・・うぅぅ・・・・・・っ」
何もできない手が、求める時だけ伸ばされる。
「うぁぁぁぁぁぁ・・・・・・」
人をつなぎ止める力がないことが
こんなにも悲しいことだなんて。
周りの壁にぶつからないように、俺は央間を抱きかかえるようにして精一杯ストレッチャーにしがみ付いて伏せっていた。
通過した道筋が次々と回転して隔壁に切り替わっていくのを見て、いつかの 残酷な箱の悪夢が目の前にまたはっきりと甦ってくる。
釘で閉じられた箱の窓から見える旅立つ者の顔は、叔父さんのものではなく。年老いた者の姿でもなく。
『彼は真面目だったから……誰よりも先に……誰よりも先に逝ってしまう……』
防ぎようのない運命が、命の順番をねじ曲げる。
ならば俺は
――――――俺は運命を許さない。
ゴオオオオオオオオオオオオオン
遠くに轟音が響いて
俺達はどこかの部屋に勢い良く投げ出されて転がった。
床は、低反発のマットレスのように柔らかいものだったが、 頭でも打ったのかひどく意識がぼんやりとして視界もはっきりとしない。
目に映るのは白と灰色の風景だけだった。
そこに自動扉の開く音と同時に女性のヒールの足音が近付いてくる。
「あちゃー。脳震盪おこしちゃってるじゃーん。 だからノーベルトは無茶だって言ったのにー・・・・・・。」
ぼやけた視界でなんとかピントを合わせようとしても、子供の書いたクレヨン画程の精度しか得られない。
「家に帰す前にちょーっと検査してもらうようだわー・・・・・・」
央間に近寄って様子を確かめていたスラリとしたボーイッシュな私服の女は、車のオートキーのような小型マイクで現状をどこかに報告していた。
続けて彼女が俺の様子を見に近づいて来た時、俺は大して力の入らないヨロヨロとした手で女性の手首にガッチリと掴みかかった。
「もし・・・・・・」
俺はこれでもかと言うほどに気だるそうな声で、かすれて裏返る声を搾り出す。
「央間がもし・・・・・・。また『エルフ』を狩ろうとしたときは
・・・・・・俺に教えて下さい・・・・・・。」
何一つ。考えもなしに言った訳じゃない。
女性は一度驚いたように腕を強張らせてから、すぐに力を抜いて俺の言葉の続きを待った。
「『エルフ』を。……あいつを叩くなら……」
まだ誰も、試していない方法があるんじゃないかと思ったのだ。
「あいつにとって一見無力な常識が……何よりの武器になるんじゃないかって……」
奴はまだ、自分自身の大きな死角と言うものに気付いていないのだ。
強いものには、死角が少ない。反対に俺には死角が多すぎた。
弱々しいM16A4使いのヒーラーで『エルフ』と鉢会ってもただ逃げ回ることしかできない臆病者。
―――それでも。
このどうしようもなく臆病な心こそが道を切り開く鍵となる方法があると思えていた。
戦うことを常とするW.インヘリターの中で俺はきっと、いつも皆とは正反対の方向へ目を向けていたんじゃないかと思う。
武器以外のものを手にして、戦うことはできないんだろうか?と。
そして仮想世界での戦闘を繰り返すうち、俺はあることに気付いたんだ。
弱者の恐怖こそが脅威を無力化する術を生み出すこともあるのだと。
W.インヘリターで『エルフ』と鉢合ったあの日のこと、
俺は、決してあいつから逃げ切ったわけではなかったのだ。
「……みんな……予測がつかないから対策しようがないって思い込んでたんだ。
でもあいつは……ほんとは誰よりも……常識に……縛られてた―――」
だんだんと、眠りに落ちるように意識が遠のいていく。
救護の女性は、返事の代わりに自らの手首を掴み込んだ俺の腕に静かに暖かな手を添えてくれた。
道はきっとあるはずなのだ。『エルフ』のカウントが0になる前にそれを見つけなければ、俺達はここでまた大きな何かを失ってしまう。
―――そして、隣に転がる央間の未来もまた。
探し出してみたかった。彼女の終焉が殉職しかない定めだなんて
俺は思いたくは無かったから。