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第2話 世界の変質

 tomoさん達と別れたとき、時刻はすでに夜9時を過ぎていたと思う。

 カーブのかかる狭い路地を足早にすり抜けると信号はちょうど青に変わるところで

 車道の向かい側にある駐輪場へ渡ろうと横断歩道の方に一歩踏み出した足が目的を違えた自らの頭部によって引き止められる。

 ふと視界によぎる違和感に、無意識の内に顔が向かいの歩道へと戻ったのだ。

 こちらに背を向け誰かを待ちでもするかのように、歩道と車道との間に立てられた低い石柱に腰をかけた

 白い丸襟ブラウスに山型に広がる黒のスカート姿の女の子がそこには居て

 無料の駐輪場の頼りない一つの電燈と走り去る車のライトで照らし出された彼女のその服装は

 少ない光源にも関わらず深い陰影に浮かび上がるブラウスの襟に覗くレースの凹凸と、スカートの裾にいくつか施された花柄の刺繍によって

この辺りでは場違いなほどに、かしこまったものだと見て取れたのだけど

 彼女のその顔は自分より幾分か年下に見える中学生のような幼い様相でありながら

 人形のように無表情で少し現実離れした雰囲気を醸し出していて

 帰路を急ぐはずの俺の足はそこでピタリと地面に繋ぎ止められてしまった。

 すると彼女は何かに気付いたのか一度顔を上げてこちらに視線を投げると

 小さく俯きつつ僅かにそのふっくらとした唇を動かして、意味ありげに目を細めながら石柱から立ち上がって俺の方へ向き返った。

 俺は思わず目を泳がせて辺りを見回す不審な行動に出てしまう。

 でも周りには自分達以外の一切の人影は見当たらない。

 女性から悪い方向に目を向けられることは少なくないけれど、その時は何故か彼女の顔には安堵に似た表情が浮かんでいるように見えていて

 (五条太秦と間違われているんだろうか。)

 そう思い直し再び横断歩道のほうへ足を踏み出そうとした瞬間の出来事だった。

 交差点の背後から不穏な加速音を上げて猛スピードで接近してきた黒いミニバンが

 赤に変わった目の前の信号を無視してそのまま突っ切ろうとしたところで

 サイドから直進して来た軽トラックに接触しそうになり ハンドルを例の女の子の立っている方へと目いっぱい切ると、けたたましい音を響かせスピンしながら車体後部で歩道との境に並ぶ石柱を勢いよく叩き割って暴走を止める。

 続けてカーブを曲がって現れた対向車線のワゴン車は瞬時に状況を把握するも急ブレーキやスピンでの回避も敵わずに、道を塞いだミニバンに添う形で駐輪場フェンスに頭から思いきり突っ込むと後方を走っていたトラックに尻を押し潰される形でミニバンに車体をめり込ませ不穏な白い煙を吐き出した。

さっきまでそこに居たはずの女の子の姿は、今はどこにも見当たらない。

 信号待ちで一部始終を見ていたドライバー達が互いに呼びかけて急いで集まると事故車に駆け寄り被害者の安否を確認する。

 幸いワゴンとトラックの運転手に怪我はないようで、彼らは車から離されて歩道で介抱を受けていた。

 しかし。

「おい!ミニバンのドライバーがいないぞ!!」

 暴走車を運転していた加害者が消えたのだと言う。いや。そんなことよりも、もっと他に救助に急を要する人間が居たはずだ。

 一瞬のことに俺はそのまま脚が固まってしまい動けなくなっていて、腕は情けないことに震えが止まらないうえ痺れまで感じているざまで。

 最重要事項の「あそこに居た女の子はどうなった」のただ一言も発することも出来ないまま、 軽いパニック状態を起こし体の中が急速に冷えていく感覚に襲われていた。

 辺りにガソリンの匂いが立ち込め、ゆるい風に乗って心なしか花火の火薬のような匂いが鼻を突き始めた頃

 唐突に背中に「ガツン」と何かが強くぶつかったような衝撃を感じると、カクリと脚が力を失って俺はその場にへたり込んでしまった。

 道のど真ん中でずっと棒立ちになっていたもんだから、おおかた野次馬にでも突き飛ばされたんじゃないかと思うけど

 今は原因を突き止めるほどの余裕もなかった。

「要救助者は三名。そのうち二名は軽症です。」

 この状況にも関わらず、すぐ背後からは救急要請であろう若い女性の堂々とした受け答えが聞こえて来て、声の主に例の彼女のことを伝えようと必死な形相で背後を振り向けば、そこには異様な人物が涼しい顔をして佇んでいた。

「被害者は年齢40代半ばの男性、胸部や肺のあたりに異常を訴えています」

 彼女。だった。

 そこに居たのは、三台の車両に押しつぶされたはずのあの童顔の少女で

「呼吸が乱れて苦しそうです」

 彼女がそういうと、何故か俺の肺が唐突にヒュウヒュウとおかしな音を立てて呼吸を阻害し始める。

 息を整えようと試みても、吸い込める酸素が次第に減ってでもいるのか息苦しさに薄く涙まで滲みだす状態で

 情けない顔で言葉の出ない口をパクパクと開け閉めする俺に彼女は通話を終えた携帯をスカートのポケットに捻じりこむと、こちらを冷ややかな目で見下ろしてただひとことピシャリと言い放った。


「心配するな。苦しいのはものの5分だ」


 近づいてくるサイレンの音を聞きながらも、俺は自分の置かれている状況を理解することができなかった。

 あまりにも早く到着した救急車が、無傷の俺をストレッチャーに積み込んで収容した後でさえ

 この目の前の少女が人さらいであるなんて考えはまったく頭に過ぎりすらしなかったのだ。


                                   

                   *

                  

              

 汗でシャツの貼りついた体が弾かれるようにベットに跳ね上がる。簡易的なベッドのパイプは金属の擦れ合う音で不満げな軋みを上げた。

 反動で左手に繋がれた細いチューブが宙を舞い、チューブの付け根からチクリと鋭く走る嫌な痛みにうめきをあげる。

 そこでようやく、自分の腕に点滴針が刺し込まれていることに気がついた。少し頭がクラクラしている。

 数秒の間をおいて俺はもう一度目を伏せると、きつく瞼を閉じ直し

 ゆっくりとまた目を開いては、ぼやけた視界のピントを合わせて行った。

 ようやくとはっきりしてきた景色をぐるりと大きく見渡すと、壁以外の二面に天井のレールから釣り下がる長いピンクのカーテンが自分を取り囲んでいるのが見えて

いからせていた肩からは次第に力が抜けて行き、大きなため息が静かに零れて半袖から覗く二の腕を撫でて行った。

 ベットの右手には低い収納棚付の簡易的な机と壁、左手には換えの点滴や、消毒液、銀色の小箱などを入れたステンレスバットをはめ込むタイプのキャスターワゴンが置いたままになっていて

 部屋全体に、独特の薬品臭が漂っている。

 誰がどう見てもここは病院、もしくはどこかの医務室なんだとおもうけど、ここが俺の良く知る学校の保健室ならばこんなにちゃんとした設備が整っているはずがなかった。

 徹夜でゲームに興じた朝は寝不足でたびたびお世話になっていたものだから、学校の保健室の環境はよく覚えている。

 そこまでして、やっとぼやけていた思考が奇異な少女の面影を引き戻した。

 車の多重事故

 異様な雰囲気に包まれた救急車車内

 原因不明の呼吸困難

 そして俺の手を握ってきた小柄な栗色の髪の女の子。

 ……あれは。現実だったんだろうか……。

 仮想現実に慣れ過ぎた俺の脳みそはいつからか日常を外れ過ぎた状況に遭遇すると、全てを実在しない存在に置き換えてしまうクセがついていた。

 それでも汗ばんだ手のひらに伝わった熱い彼女の体温は、今でも手に貼りつくかのようにはっきりと残っていて、夢としか思えない異質な記憶たちはあの少女を拠り所として空想と片付けられることを拒んでいた。

背中のベットが硬い。とりあえず今いる場所が現実であることは確かなようだった。

 点滴のための簡易的なベットで身をよじりながら俺はゆっくりと点滴のない右手のひらを握り締めると、次にその手のひらの開け閉めを繰り返してみる。

 特に痛いところはない。痺れも少しも残ってはいなかった。呼吸も正常。 

 いつの間にか洋服は肌触りの良い濃紺のVネックTシャツと黒のジャージに着せ変えられていて

 ゆっくりと上半身を起こしながら足や腹の服をたくしあげ、体の端々を見てみても傷らしきものは一切見当たらない。

 一体自分の身には何が起こったと言うんだろう。

 首を傾げたところで、カーテンの奥からは二種類の足音と男女の話し声が慌ただしく近付いてきた。

 男の方は年齢にして30前後だろうか。女のほうはまだ若い少女の声をしている。

「なぜ五条を連れて来なかった。」

 ドスの聞いた低い声の男は静かな口調ながらもイラつきを露にしている。

「仕方がない。心停止した奴を捨てて置くわけにもいかなかった。気付くのが遅れてしまった」

 鈴の音の如く凛と鳴る声が、男の不満を一蹴する。

 状況から察するに俺のことを言っているんだろうが心停止とは少々話が穏やかではない。

 一体どういうことなんだろうか。改めて意識を失う前の記憶を辿りつつも、仕事で不在の多い両親やお気に入りの自転車のその後の様子が気になった。

 事故を目撃したショックで俺の心臓が止まってしまったとでも言うんだろうか。意識はすぐに、二人の会話に舞い戻るが思考は落ち着き無く言葉の経緯を模索する。  

 確かにショックを受けたことには間違いないが、さすがの俺でもそこまで弱い心臓を持った覚えはない。凄惨な事故現場になら以前にも出くわした経験があったからだ。

 ほどなく足元のカーテンがいささか乱暴に引き開けられる。

 そこには袖口を肘までたくし上げた白衣を着た件の少女と、海外レスラーかと見まごうような大袈裟な筋肉を全身に纏わせた裕に二メートルはあるであろう長身の男が、同じくコートのように白衣を羽織って仏頂面で立っていた。

 大男は長めに刈り上げた茶色混じりの金髪をジェルで後方へと押し流し、大きな青い瞳を鋭く釣り上げて俺を見下ろして来る。

 普段なら萎縮してしまうだろうそんなことよりも、俺はもっと気がかりなモノを見つけてしまい、背中から嫌な汗がジワジワと噴出してくる。

 防弾チョッキ。

 二人とも白衣の中に、上下ボタンの開いたYシャツを着ているのだが

 白いYシャツから透けるいかつい黒いベストがどう見ても日々俺が戦場ゲームの装備アイテムとして目にしているソレにしか見えず、腰には外国軍や警察などがよく身につけている官給ベルトのようなものが覗いている。

 右耳にはなぜか、二人ともライダー用のシンプルなインカムに似た機器を装着しており

 どうにも俺の知っている医師とはだいぶ印象が違って見えるのだが、その奇怪な様相に怯む俺に特に反応することも説明することもせず、少女は表情の乏しい整った顔で俺に向かって口を開いた。

「主治医の央間[オウマ]ミリヤだ。隣のでかいのは形成外科医のヒューゴ・グスタヴィ。」

 なんとなくは解っていたものの、改めて医師を名乗られた所でこの状況下ではなかなか二人の主張は受け入れがたい。

 それほどまでに央間ミリヤと名乗るその少女はあまりにも怪し過ぎたし、隣のグスタヴィに関しても医師としては使いどころの解らないその無駄な筋肉について小一時間根掘り葉掘り問い質したい気持ちに駆られずにはいられないのだけれど、そんなことは絶対にできるわけもないので、俺はただただ眉間にシワを寄せて二人と目を合わせないように適当な相槌を返すだけだった。

 グスタヴィは俺を一瞥するとポツリと一言だけ呟いて踵を返す。

「……変な気は起こすなよ」

 それもおよそ医師が患者に吐く台詞では無いように思えるけれど、目を落とした視界の隅の鏡から覗く獲物を狙う蛇のような鋭い視線が怖すぎて、ついつい返事を返してしまった。


「お……起こしましぇん……」


ひっくり返る声音がこれ以上なくかっこ悪い。

しかし、凶器の目を射し込みながら捨て台詞を吐いて出て行くようなグスタヴィとやらの演出もすこぶる悪役的だ。

 二人残された空間でうろたえる俺の顔に央間の両掌が遠慮無く延びてくる。

 と、その指が俺の目の下の皮膚を抑え下瞼を裏返し粘膜に走る毛細血管の状態を確認すると、続いて瞳孔、そして口の中。最後にパジャマの裾から胸に聴診器が当てられ、冷たい金属の感触にゾクリと上半身が震え上がった。

 健康診断や風邪を引いた時の妙な感覚を思い出し、一気に体が重くなったような錯覚に陥ってしまう。

 小さな頃からこの冷たさは、非日常に引き込まれる際のスイッチみたいなものだった。

「……心配するな……。後遺症はなさそうだ。」


「あったら困る……」


 言葉は思わず零れ出していた。

 そして俺はようやくと喉元にずっと渦を巻くようにまとわり付いていた疑問の塊を、央間に向かって真っ直ぐに吐きだしていた。


「…俺じゃなかったよね……?車に巻き込まれたのは……」


 問いかけにも彼女は眉をピクリとすら動かさない。央間はまたマネキンのように生気の無い顔で俺の手から点滴針を抜いていた。


「なぁ聞いてんの……!?」


 言って。央間に顔を近づけて問いただすと、央間の髪からはシャンプーの匂いに混じって、かすかに火薬のような香りが嗅ぎ取れて。そこで脳は記憶を遡る。

 なぜあの事故現場からは火薬の匂いが感じられたのか。

 その直後に何故自分は動けなくなったのか。

 そして央真のあの言葉には一体どんな意味があったのか。

『苦しいのはものの5分だ』

  そもそも俺が呼吸困難に陥った理由も解らないでいた。

 疑惑の眼差しを向ける俺に空の点滴をしまいながらも央間はしょうがないなとでも言いたげな表情で目を細めると目を合わせようともせずに言葉を落とした。

「しばらくおとなしくしておくことだ。一度は心臓が止まった身なんだからな」


「だからなんで俺の心臓が止まるんだよ……!」


 戸惑いに気が急いて思わず語気が荒くなる。彼女の見た目が幼いだけにまるで敬意が感じられない態度だが、央間がそれを気にするそぶりも微塵も感じられない。

きっと普段から患者と話すたび、こんなやりとりが交わされているのだろう。

「まれに心機能がうまく働かなくなる患者がいるんだ。」


「…つまり俺が事故のショックでその状態になったってこと?」


 央間はやっと俺と目を合わせると言葉を繋ぐ。

「そんな時は一度薬で心臓を止めてから心臓を再蘇生する。」

 その瞳からは幼い顔に似合わず意思の強さが滲み出していて俺は思わず前のめりになっていた体を後ろへと引っ込めた。


「……俺はそこまでショックなんか……」


 央間は動じない。ただ真っ直ぐと、俺の目を射抜くように見つめている。その覇気に押されて俺の方が央間の刺すような視線から逃れるかのようにベットの上に顔を逸らした。

「病院は病人の来るところだ。」

 それはあたりまえだ。それは当たり前なのだが今の会話の流れでのその発言はあらぬ誤解を連想させる。

「病人でなければここには入れないだろう?」

ブワリと。両腕に鳥肌が駆け昇るのを感じた。

―――誤解じゃなかった―――

 今度は俺が、央間と目を合わせられなくなる。額からはねっとりとした汗がダラダラと溢れ出していた。

 そんな時だった。左手の壁を隔てた向こう側からやたらと派手に反響する初老の男性の野太い叫び声が響いてきたのは。廊下のほう、なんだろうか。

今まで不気味な程に静かだった空間が、にわかに騒がしくなる。

「こんな所に来たいと言った覚えはない!誰が私をバスチオンなんかに運べと言ったんだ!!」

 興奮する男性と何人かの看護師と思われる女性達のなだめようとする声が聞こえてきて

「ちょっと。待ってろ」

 央間は騒ぎのする方へ静かに目を流すと、白衣を翻して外に出て行こうとカーテンに手をかける。

 と、ふと思い立ったように肩越しに振り返り、動揺を隠せずに自分の心臓辺りをわしづかみにして乱れかけた呼吸を整えようと試みる俺へとトドメの一撃を叩き込んで来る。 

「くれぐれも。変な気は起こさないように。」

グスタヴィと同じ言葉の後に


「『M16A4使いのヒーラー君』」


 初対面の人間では知りえない、箱庭での俺の呼称を吐き捨てる。

 俺の顔とその名前を合致できるのは、W.インヘリターの仲間達と

 閉じられた情報に侵入可能な技術を持ちえる

 『エルフ』だけだった。

 カーテンの外でスライド開閉式のドアが閉まる音がして

 廊下の叫び声は小さなうめき声のあとに、静かになった。



                   *



病院の一日は規則的だ。

時計もないこの狭い空間の中でも、今が何時なのかはなんとなくは予想が着くようになった。

奇妙なのは出てくる食事が和食だったり洋食だったりで統一がなされていないところと

俺の寝かされている場所はどうも央真専用の診察室らしいと言うことだ。

風呂やトイレも診察室から続く狭い廊下の先にあり、さながら小さな診療所と言ったイメージなのだが

あれからカーテンの向こうで何度かグスタヴィや他の医師らしき人間の声が聞こえていることを考えると、他にも部屋はいくつもあるんだろけど

俺が簡易ベットから正規の病室に移されることはないようだった。

夜や央真のいない時は診察室の鍵が締められているために、俺が外に出ることは叶わない。ここには小さな窓すらもなかった。

そしてこの数日間、央真はグスタヴィの再三の「自分の部屋に帰れ」と言う言葉を無視して、診察室に3つある簡易ベットのうち俺から一つ挟んだドア側にあるベッドで毎夜小さな寝息をたてていた。

央真の親父のように振る舞うグスタヴィの気持ちは解らなくはないが、こんな状況であろうと俺らの間には間違いなど起こりようもなかった。

ここで目覚めた日の夜のこと、診察室の机の方から聞こえるカチャカチャと言う金具の音が気になって、俺はカーテンの隙間から央真の様子を覗き見てしまった。

央真は手馴れた様子で机の上にいくつかのナイフやヤスリをならべて拳銃の手入れをしていたのだ

ここ数日、カーテンの外で行われる央間の診察行為を聞いている限り、彼女が本当に医師なのだと言うことは解ったのだが、どうにも疑問や不安を拭い去ることが出来ないでいた。

ただ未だ頭にこびりついた違和感もまた拭い去ることができずに、俺の脳内は怖いという気持ちよりも知りたいという願望の方に傾いていたような気がする。

ここに連れ込まれたあの日の夜、救急車で一瞬だけ垣間見たように思えた央間の別の顔が忘れられなかった。

央真はあの時人間の顔をしていたのだ。

それは。今にも泣き出しそうな幼い人間の少女の顔だったように思えて。

あれは演技だったんだろうか。

もしくは呼吸困難の極限状態に俺が作り出した幻だったんだろうか。

あれから、彼女のあんな顔を見ることはなかった。

央間は定期的に食事を与えに来るだけで、一向にバスチオンと呼ばれるこの施設に俺を連れ込んだ理由を説明する素振りが見えなかった。

それでも彼女が今のところ自分に危害を加える様子が見えないのであれば必要以上に構え続けていても仕方が無いと割り切ってしばらくは央間の動向を観察することにする。

そして転機はある日突然に訪れた。それはここでの唯一の楽しみである食事の時間を終えた頃のことだった。

 

いつものようにナースコールの音が部屋に鳴り響いて央間は胸元のワイヤレスマイクでそれに応答する。

「すぐに行く」

 言って空の食器が乗ったトレイを手にしたまま彼女は部屋を出ていった。

 軽く駆けるように遠ざかる足音。

 しかし。今日はいつも聞こえるはずの施錠の音が聞こえてこなかったように思えた。


「・・・・・・」


 ベットに寝ころんでかぶりかけた上掛けを掴んだ手を宙空に浮かせたまま、しばらく耳を澄ませてみる。周囲はいつものように静まり返っていて、

きっとみんなまだ室内で食事でもしているのだろうと一人納得すると、浮いた上掛けをパサリと体の上に落とす。

 ここに来てもう四日にもなるが、このネット環境すら与えられない部屋に籠もるばかりの日々もさすがに苦痛になってきていた。

 俺は一分ほどぼんやりと中空を見つめると、再び布団を剥いで体を起こしベットの下に並べてある病院支給の白い上履きに足を突っ込んで、剥いだ布団の下には小賢しくバスタオルやこれまた支給品のパジャマを詰め込んで人が寝ているように演出してみる。

 そしてもう一度外の様子に耳を傾けると、鼻から大きく息を吸いこみつつ立ち上がり、ドアに向かう前に俺の空間を囲うピンクのカーテンを両手を使ってぴったりと閉めた。

 当然のことだが央間の机の方を見てみても目に見える場所に武器の影など見あたらない。

 診察室をあさる気にもならないのは、ここ数日間の央間の行動を見る限り、万一見つかるようなことがあったところで彼女が俺の息の根を止めようとすることは・・・・・・きっと・・・・・・。多分……。恐らくはないと・・・・・・自分に都合のいい方向に希望的観測を打ち立てたからだ。

 少し汗ばむ手で出口のスライドドアに手をかける。


「すぐに帰ってくれば大丈夫だろ・・・・・・・」


 そんなフラグ臭漂う言葉を吐いたがために自分で自分への不安を増長するが、それでもいつここからの帰宅が許されるのか、次のチャンスがいつ訪れるのかもまったく解らない状況の中で

 ただ不安に揺れるだけの生活を送り続けることは日々通学やゲームで毎日を充実させて過ごしてきた自分にとって苦痛以外の何物でもなかった。


「ふんっ!」


 そんな気持ちを吹き飛ばすかのように俺は無駄なかけ声と共に思いきりドアを横に引き開ける。


「!!」


 ドアの向こうに広がるのは少し高めの天井まで延びる、大きな水槽でできた壁だった。

 円状のフロアに扇型に配されたいくつかの診察室を取り囲む形で、白と木目を基調とした室内緑化の廊下が広がっている。

 そしてその外壁のほぼ全面が水槽でできているのだ。ここまでの広さは水族館でもそうはない。

 フロア全体の広さは目に見える範囲で推測するに大体野球場程度のものだろう。

 水槽の上方からは朝日の光だろうか、白くやわらかな筋が廊下のツルツルとしたホワイトグレーの床に注がれていて

 診察室の前に一つづつ配されたブラウンの革張りの長椅子と観葉植物が景観をさらに引き立てている。

 水の中にはカラフルな海水魚達が悠々と泳いでいた。


「うぉぁぁぁぁ・・・・・・」


 先刻までの緊張も一瞬でどこかに吹き飛んで、感嘆が素直に口をついていた。

 自分が脱走中だと言うことも忘れ、水槽に目を奪われながらヒタヒタと廊下を歩いていく。

 と、水槽が途切れ別の円形フロアに繋がる渡り廊下が見えた時、向かいのフロアに看護師の姿を見つけて思わず隠れてしまう。

 一気に緊張に引き戻され、今度は部屋と部屋との間に見つけた比較的狭い道を中心点へと向かってソロソロと進んで行った。


「あ・・・・・・」


 円形フロアの中心には六角形の透明なパイプ状の筒に囲まれた業務用エレベーターが止まっていた。エレベーターの周りは同じく家一軒分程度の面積の六角形の吹き抜けが広がっている。

 吹き抜けの手すりに沿う形に配された観葉植物が心地良い。

 こんな状況じゃなければ、高級ホテルにでも泊まっているような気分にもなれただろうに。

 俺はソロソロと周りに人影がないか確認しながら、吹き抜けの手すりに手をかけると階下の状況を覗き込む。


「うっ・・・・・・。」


 7階層まで数えるとそれより奥の空間は闇に飲まれ何も確認することができない。予想より深い穴はどこからか聞こえてくる誰かしらの話し声を拾い周囲に反響させていた。

 少し手すりから身を引いて今度は上方を見上げてみると、すぐに白銀の鉄骨が複雑に入り組んだ天井が目に入る。

 エレベーターは屋上にまで続いているものの、ここが一番上層階のように思えるのだが診察室が最上階と言うのも珍しい話だなぁと知らず一人首を傾げる。そうやってのんきに見学に興じていたものだから俺は背後から静かに伸ばされる手の存在に気づかなかった。

 白くて細い指先が突如スルリと両肩に添えられて、耳元から軽妙な女性の声が囁かれた。

「いーけなぃんだ~脱走犯~」

 反射的に肩の腕を振り解き向き返ると、後ろに飛びすさって勢い余り観葉植物の植わる大理石調の鉢に背を預ける形で腰を抜かす。

「央間ちゃんに言っちゃおーかな~」

 毛先にゆるいウェーブがかかった長い黒髪を、サラリと前開きの白衣の胸下におろしたアイドル風の女性。年齢は見たところ23くらいか、サイドに作った前髪と病院には似合わぬその言動や落ち着きのなさからは幼さを感じさせそうなものの、そのぶりっこポーズに反した堂々とした眼差しからは同じ年頃の女性にはない刺すようなオーラが放たれていた。

 うちの近所でもそうはいないレベルの美女であるにも関わらず、やっぱりこの人のYシャツの下にも防弾チョッキに官給ベルトがしっかりと覗いている。

 一体全体この病院の医師達はどうなっていると言うのだろう。俺はあからさまに顔を歪ませながら背後の鉢に縋るように背中を擦り付けた。

「・・・・・・それとも・・・・・・・・・この状況に絶望しちゃった~?」


「いや・・・・・・」


 彼女は胸の前に指を組むと初対面ホヤホヤの俺に向けて至極同情的な表情で首を傾けて

「もうダメだって思ったらいつでも相談してね~。協力するから!」

 そして俺の前に膝を付くと顔を近づけて強い口調で語りかけてくる。

「最近多いじゃない?死にたがりな若者って~。あなたも思い詰めた時はぜひ遠慮せずに私を頼ってくれていいからねっ!若年者の臓器提供ってさ~、も~ここじゃ超~貴重だからぁ~!!

あ、ドナーカードもちゃんとあるから一枚持っておく?」

 言うまでもなく会話の途中で俺は全力を振り絞り逃げ去っていた。

「あれ~?どこ行っちゃうの~?」

 遠くから聞こえる声を後目に俺は心に強く誓いを打ち立てる。

 ここでの美女は罠一択。と。



                   *



 別のフロアに続く渡り廊下の壁にも水槽が続いていた。どうやらここの外壁は基本水槽に囲まれているらしい。

 一瞬そんなことを考えてみるが、すぐにそんなファンタジーな事があるかよと思い直して鼻で笑う。

 どこの世界にそんな石油王もびっくりの病院があると言うんだろうか。部屋を出たことでこの施設の謎は更に深まってしまったような気がする。

 足は渡り廊下の先のフロアを目指していた。

 臓器を狙うさっきの女性に俺が央間の診察室にいることを知られている以上、一人であの部屋に帰るのはどうにも怖かった。

 央間はどこにいるんだろう。隣のフロアの入口にある観葉植物に隠れてキョロキョロと左右を見回してみる。

 入口壁に貼り付けられた銀のプレートには黒文字で「長期入院棟」という文字が彫りこまれていた。

 人気のない方へない方へ、宛もないまま歩はどんどん奥に進んでいき、たまに声が聞こえると央間ではないか?と耳を澄ましてみる。


「何を探してんだ・・・・・・」


 ふと。自分の中にいつの間にか央間を頼るような気持ちが芽生えていることに気が付いた。

 一時はサイコパスと名高いあの『エルフ』に捕まったんじゃないか、殺されてしまうんじゃないかとすら考えて(実際心臓は止められたけど…)パニックを起こしかけていたのに。

 あろうことか自分より幼い風貌の少女を頼りに感じるようになってしまうなんて。

 オフ会でのtomoさんの声がぼんやりと頭に甦ってくる。

『ヒーラーはまだ高1じゃん。今はうちらにまかしときー』

 いつかもっと強くなりたいとは思っていた。

 日々技術を身につけて、いずれはTOPチームを引き継げるだけの実力を育てようと言う気持ちも強く持ってはいたのだけれど

 現実でも理想でもいまだ自分自身を支える力すら持たない自分にとって、それは遠い遠い未来のことのように思われていた。

 実際に今だって、現状が掴めないと言うだけで胸を覆い尽くしてしまうような不安から逃れる術さえも俺は思いつくことができないのだ。

 悶々と考えるうちに、前方の病室の扉が開き、まだ小さな少女の声と、老人だろうか、車椅子を押す少女に穏やかな声で話しかける灰色の目をした白髪の白人男性が廊下に現れる。

 男性はちらりと観葉植物の影に立つこちらの方を見ると、後ろの浅黒い肌をした金髪ツインテールの少女に小さく耳打ちした。

「・・・・・・だれかいるの・・・・・・?」

 思わず体がカチリと固まるが、相手は老人と6、7歳程度の小さな子供だ。

 今まで接してきた凶悪な装備の医師達よりかは遙かに安全だと思い、自らに言い聞かせてぎこちない横歩きで二人の前に姿を見せた。

 老人の眉が一瞬跳ね上がり、旧知の人間と偶然街で会ったかのように気さくな調子で声を投げかけられる。

「これはこれは。お初にお目にかかりますねぇ。」

 老人は車椅子の肘掛けから軽く手を上げて顔に深い皺を刻みながら優しげに笑った。

 一方の少女はそれで状況を察したのか

「こんにちは。おさんぽですか?」

 警戒を解いて人懐こい笑顔を向けてきた。

 俺は二人に深くお辞儀を返しながら、この病院に来て初めてまともな人間と出会えた嬉しさに思わず目頭が熱くなってくる。


「はい。まだ良くここのことがわからなくて・・・・・・」


「じゃあCE-4のショクブツエンでいっしょにおしゃべりしませんか?」


「・・・・・・CE-4・・・・・・?」


 訝しげな顔で聞き返す俺に少女は移動を促しながら丁寧に解説をしてくれる。

「『せんたー「えでん」フロア』の4階だからCEー4なのですよ。いまいるチョーキニューインとぉならLS-1。つまり、『ろんぐすてーフロア』の1階ってことなのです。

 シンサツシツやシュジュツシツがあるのは、『めでぃかるせんたフロア』ですね!」


「へー!」


 少女は誇らしげな笑顔で一瞬こちらに向かい首をひねると俺の感嘆の声への照れ隠しかレースの施された白いワンピースの裾をユラユラと揺らした。


「そっか。すごくよく解ったよ。ちなみにここって全部で何棟位あるのかな?」


「えーと。あとは、『えんとらんすえりあ』……『ばんかーろっじ』……と、あと一つ…はなんだっけ…?で、ぜんぶで7とぉだよ!」

 俺はもう一度賞賛の声を上げると、少し大げさかなとも思えるリアクションで少女を褒めちぎった。

 俺がこのくらいの年の頃には全てが親任せでこんな受け答えはもとより、ここまでの英数字が覚えられていたかも解らないから。


「まだ小さいのに賢いんだなあ。羨ましいよ。」


 すると少女は途端に微妙な顔をして黙り込んでしまって、その表情を車椅子の背に受けて見えないはずの老人がすかさず笑顔でフォローを入れる。

「見損なってはかわいそうだよ。アリカ君はここの看護師だからねぇ」


「へ・・・・・・?」


 この幼女が看護師だって・・・・・・?。

 幼女の看護師……に武装した医者達。一体この病院はどこまで常識を外れれば気が済むのだろうか。


「ご・・・ごめん・・・・・・」


 心の整理もつかないままに、俺はアリカに謝っていた。

 アリカは視線をこちらに投げて、いたずらっぽく唇を噛むように笑うと気を取り直し弾むような足取りでエレベーターのボタンを押しに行った。


「ところで数日前に廊下でやたらと騒いでる男の人がいたのは知ってますか?ずいぶん取り乱していたから気になってまして・・・・・・」


 アリカがエレベーターにカードキーを差し込みながら目的階を指定する様を横目に見ながら、俺はどうしても知りたいことだけに的を絞ってアリカ達に聞いていくことにした。

 下手な質問をしてイレギュラーな部外者であると警戒されるのは避けたかったからだ。

 例えばエレベーターの階数表示にBマークすら付いていないのに、エレベーターが下に下りるごとに数字が増えていくなんてことは、ここにいる人間にとってはごくごく当たり前の光景のようだったし、入院当初に説明がなされているような事項なんだろう。

 そんな環境や反応の断片からも、いくつかの情報は拾い集めることができたわけで。

 まず最初のステップとして解ったのは、ここが地下にある施設だということだった。

「はて?そんなことがあったかねぇ?」

「あー。」

 俺の質問に老人の返事は思わしくないものの、アリカは期待通りの言葉を返してくれる。

「ジジさんはしらないですよ。あのときニューインカンジャとぉのカクヘキをしめちゃってましたから。」

 隔壁・・・だと!?一体この病院はどこまでSFな様相を呈しているのか。もしかしたら軍隊や何かの施設なのかも知れない。

 マフィアだのUFOだの秘密結社だのと色々な線を妄想してはみたのだがそれが一番しっくりと来る答えだった。

 央間達の軍医説も一番最初に考えはしたのだが、それにしては受診に来る患者に軍人らしき体格の者達がほぼいなかったがために、その考えは不採用となった。

 この病院であれだけの武装しているのは、ここ数日見た限りでは医師達だけのように思われた。

「カクリョーのおじさんがねー。バスチオンがこわいって

まだチリョーがおわってないのにね。かえりたいってダダこねたんだって」

「おいおい。個人情報を漏らしちゃだめだろうに」

 ジジさんと呼ばれた老人がアリカを振り返り笑うと、アリカは「そーだったー」などと自分の頭をグーで小突いて微笑ましく小さな舌を見せた。

が、俺の顔からは表情が消える。

 カクリョーと言うのはまさか閣僚のことだろうか。なんでそんなとこに俺は運ばれてしまったのだろうか。監禁初日のグスタヴィと央間のやりとりから見ると本来ここに運ばれる権利を持っていたのは五条太秦であったのだろうけども、人体スキャンや指紋認証を使ってまで要人やら著名人をここに運び込んでいるのだとするならばここは国のVIP専用の病院と言うことになるのだが。


「なんで・・・・・・」


 小さすぎる呟きにアリカは「?」顔ですぐに到着を告げるエレベータードアの方に向き直るが

 降り際にジジさんは正面を見たままでボソリと言った。

「彼は、対象者だからねぇ・・・・・・」

 俺は人違いとわかった上で俺をここに連れこんで来た央間に対しての疑問を吐いたのだが、ジジさんはどうやらその呟きを別の意味に受け取ったらしい。


「対象者・・・・・・?」


 その言葉の意味は、まだ今の俺には解らなかった。

 そもそも、バスチオンとは一体何なのだろうか。ネット環境さえあればこんな疑問も一瞬で解けると言うのに、ネットを奪われた高校生は、思いの外できることが少ない。

 というよりも、それがオンラインと言う強力な装備に頼り切ってしまった人間の本来の姿なのかもしれないけれど。 

 

CEー4は長期入院棟の3階であるLS-4から渡り廊下を渡った先にある広場だった。広場とは言っても今まで俺が通ってきたMCフロアやLSフロアはせいぜい野球場ほどの広さで、天井だって気持ち高いくらいの普通の医療施設だったが、CEフロアはドームが丸々一個は入りそうな程の要領がある上、天井も仰げる程に高いことを考えるとCEフロアだけは3階突き抜けで一部屋と言った感じなのだろうと思われた。

位置的にはどうもCEフロアを中心にして回りを取り囲むように他の6つの棟が連なっているようで、円状のフロアの所々にはさっき通ってきたのと同じような渡り廊下がぽっかりと口を開けていた。

筒状の構造物ならば、地震などの外部刺激からも強そうだ。

改めて辺りを見渡して見ると、地下とは思えない植物園の中にはポツリと一つカフェテリアが併設されていた。

 見えないように張られた透明なネットの奥には、動物や小鳥の姿も見える。

 遠くの木々の奥に見える風景は作りものだろうか。人工の小川に掛けられた小さな橋を渡りながらそんな考えを巡らせつつ、一行はまっすぐにカフェの方へと向かって行った。

 カフェテラスに着くとアリカはジジさんの車椅子を机に向かわせて自分は磨き上げられた木目のデザインチェアーに腰掛ける。

 俺もそれに続いてアリカの向かいに座り、メニューを開こうと手に取りかけたところで、自分が財布を持ってきていなかったことを思い出す。

 そもそも当初はここまで長々と遠征をしてくる予定などなかったのだからそれも至極当然のことと言えるのだが、文無しで店に入るなど例え目の前にいるのが年端も行かない幼女だったとしても男としての威厳の崩壊を招く恥ずべき行為だ。

 そもそも財布を持っていたとしても中身はせいぜい2千円程度しか入ってはいないのだけれど、それはそれ、これはこれで今与えられたこの試練はまさに、ゆゆしき事態である。


「あ。そういえば俺、もう帰らないとまずいんだった。」


 とっさに血が引いて青白くなった顔で席を立ちその場を離れようとする俺に、アリカは焦ったように声を上げる。

「え?でもあのエレベーター、カードキーがないとうごかないよ」

 ・・・・・・そうだった。余裕の無さから鶏頭を発動し挙動不審にモジモジする俺にアリカが迷子の幼児を慰めるかのごとく親切に立派な高一男児の帰路を心配してくれる。

 情けない。俺は今無性にふがいないぞ。

 二人を傍観しているジジさんの表情は動かないが、その反応がかえって全てを見透かしているようにも見えてくる。

「そーだ。あなたのシュジイはだれなの?アリカが呼び山してあげるよ」


「・・・・・・う・・・・・・」


 なにやら無断外泊をしてしまった時の帰宅時の親の顔色が気になる子供みたいな気分に苛まれて来るが

央間のおしおきはママンの鉄槌よりエグイものに違いないだろうと思えたのでしばし返事を躊躇ってしまう。

 アリカは真っ直ぐに俺のうめきまで拾い上げて言葉を繋げようとしてくれる。

「う?オンダいちょーのこと?いちょーって、きょぅいましたっけジジさん?」

「今週一杯は下層階VIPの専従じゃなかったかねぇ。」


「・・・・・・ぐ・・・・・・」


「グスタヴィ!?それならすぐにレンラクつくとおもうよ!!グスタヴィはいつもミリアちゃんと一緒だからね!!」


「!?ちょ・・・・・・!!待って・・・・・・!!」


 グスタヴィの名を口にするや瞳を輝かせるアリカに鍋を抱えエプロンを付けたグスタヴィのお父さんキャラ像がなんとなく目に浮かんで微妙に心がホンワカしまうのだが、今ここにセットで二人を召喚されてしまっては荒れ地に見つけたこの楽園が早々に地獄へと変わってしまう。

 言うが早く手持ちの端末をいじり始めるアリカに、慌てて伸ばした腕が彼女にたどり着く前に、俺以外の妨害によってアリカの動作とCE-4に見える人影の全てが動きを止めた。

 

ビーッ!!ビーッ!!ビーッ!!ビーッ!!

 

 不安を掻き立てる耳障りな警報音がフロア一帯に鳴り響く。

 「EAー1より全棟へ、進入者が進行中。全病室の扉をオートロック。2階層以下の隔壁閉鎖及び各病棟への連絡通路を遮断します。各員所定の位置へ避難、または戦闘態勢に入りなさい。」

 一瞬の間を置いて背中が粟立つような緊張感が全身を這い上がる。戦闘体制?進入者?これは何かの訓練ではないのか?

 事情を知るアリカの方へ目を向ければ、アリカは真顔で立ち上がりジジさんの車椅子のストッパーを外して

「ここだとキケンだからシェルターにいこ」

 背中で一言そう言い放つと森の奥の方へと車椅子を押していく。

 カフェ店員の方を振り返ると、店員達は熟練した動きでバーカウンターの中に狙撃銃の設置を始めていた。


「冗談だろ・・・・・・?一体何なんだよ。こんな装備揃えたり侵入者に警戒したり……

日本でこんなことが許される分けないだろ・・・・・・!!」


 先を行くアリカは、混乱する俺に不思議そうな目を向けていて

 ジジさんはあいかわらずの悠長な口振りで俺に言葉を返してきた。

「君らしからぬ発言だねぇ五条君。……バスチオンは全世界により認められた治外法権だ。小さな島国の法律など、ここには届かない」



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