三日月ドロップとオレンジの魔法使い@芹沢斎
作者:芹沢斎
ジャンル:恋愛
オレンジに、バター、卵……買い忘れないよね。
夕日に染まる秋空の下を歩きながら、橘木結会は買物袋の中身を確認していた。
結会の趣味は、お菓子作り。
暇さえあれば、お菓子の本を読んで自宅で作っている。
友達にも結構、好評で喜んでもらえるのは、素直に嬉しい。
今日は、オレンジクッキーを焼くつもりだ。
家路へと急ぐ結会の耳元に、頼りない鳴き声が届く。
声が聞こえた方向に視線を巡らせると、木の上に子猫がいた。白い毛並みにペリドットの瞳が頼りなく揺れている。鳴き声も不安気だ。
降りられなくなっちゃったんだ。
子猫の表情から、それを読み取った結会は果敢にも木を登っていく。
待ってて、もうすぐだからね……!
結会は手を精一杯伸ばし、子猫を抱きかかえる。子猫は余程怖かったのだろう。暴れることなく、結会の腕におとなしく抱かれたままだ。
後は、降りるだけ。
と、息を吐く結会の耳に、嫌な不協和音が響く。
ベキッ……。
枝が折れる音と共に、結会と子猫は地面に向かって急速に落下。
嘘っ! やっ……。
ギュッと瞳を閉じて、それでも子猫はしっかりと抱きしめている。
かなり痛いだろうなと覚悟を決めた結会の身体が刹那、ふわりと宙に浮いた。
そのまま、誰かの腕の中へ。いわゆる、お姫様抱っこというやつだ。
あれ、え……?
予想外の出来事に、目を瞬く。
「間一髪。怪我……ん、無いみたいだな。お前も」
少年が結会と子猫の無事を確認して、地面にゆっくりと降ろす。
子猫は少年に頭を撫でられ、気持ちよさそうに一度喉を鳴らすと、ぴょこんと結会の腕から抜け出て行ってしまった。
「立てるか?」
「うん。ありがとう」
差し出された手に捕まる。
何だったんだろう。今の。一瞬、身体が浮いたような……。
「それじゃ」
「あ、待って! お礼……」
「あー、いいって」
「ううん。助けてもらったおかげで、わたしも子猫も無事だったし」
「じゃ、それもらっていい?」
少年は、買物袋を指差した。
「それ?」
「オレンジ」
「どーぞ! あの、こんなのでいいんですか?」
「十分。腹減ってたし。じゃーな」
結会からオレンジを受け取り、少年はその場から立ち去っていく。
また、会えるかな……。
少年が着ていた制服は、結会が通う高校と同じものだ。
襟元のラインが青。結会が着ている制服のリボンも青。つまり、同学年だ。
気付かない間に、どこかですれ違っていたこともあるだろう。二百人近い同学年の中から彼をわざわざ探す気にはなれないが、結会は何故か、もう一度会いたいと思った。
結会の通う高校には、空中庭園がある。
年中、赤・青・黄・紫等、色鮮やかな花たちで彩られた美しい庭園は、生徒たちの人気を集めている。
「じゃ、先に行ってるね」
「おー」
「すぐ、行くからねー」
結会は幼馴染の宇都目真と、城永莉沙に手を振って教室を後にした。
今日の放課後は、週に一回のお茶会の日だ。
お茶会の日は、空中庭園を利用している。綺麗な花々に囲まれて、お茶とお菓子を楽しむ。
渡り廊下を行き交う生徒たちの間をすり抜けて、空中庭園へと続く扉を開け放った。
濃い緑と淡い花の香りが鼻腔を擽る。
いつ来ても、いい香り。
空中庭園にはテーブルや椅子もあり、程よく生徒たちで賑わっている。
場所を何処にしようと歩いていると――。
「あ!」
思わず、大きな声を出してしまった。
だって、目の前に昨日、助けてくれた少年がベンチに腰掛けて眠っていたから。
「……ん?」
眠たそうな表情で、少年が瞳を開ける。目を擦って結会を確かめている。
「えーと、昨日のオレンジの娘」
「ごめんなさい。起こしちゃって。まさか、昨日の今日で会えると思ってなかったから」
「何? 俺に会いたかったの?」
「え。あの、ちゃんとお礼したいなって思ってたから」
瞳を覗き込まれ、思わずドキドキしてしまう。少年の瞳があまりにも澄んでいたから余計にだ。
「そうだ。よかったら、これどうぞ」
持ってきたバスケットの中から、ラップに包んだ紅茶ケーキを差し出す。
本当はオレンジクッキーの予定だったが、オレンジを彼にあげたので、紅茶ケーキに変更したのだ。
「わ、ちょうど腹減ってたんだよね。ありがと」
「お昼、食べてないんですか?」
「食ったよ。俺、燃費いいから」
「いたいた!」
「お待たせー。って、誰?」
少年と会話しているところに、真と莉沙がやって来た。
「昨日ね、子猫を助けようと木登りしたら枝が折れちゃって。危うく地面直撃しそうになったのを救ってもらったの」
「救うなんて、大袈裟だよ。たまたま、通りかかっただけだから。そういや、自己紹介してなかったな。俺、1-Aの雪平夜久」
「わたし、1-E、橘木結会です。わたしたち、同じクラスなの」
「俺は、宇都目真。よろしく」
「わたし、城永莉沙。ね。よかったら、一緒にお茶会しようよ」
「お茶会?」
「そ。週に一回、ここでやってんだ。ま、ケーキとか作ってくれてんのは、結会だけど」
「楽しそうだな。参加させてもらうよ」
『大歓迎!』
新たなお茶会メンバー誕生に、結会たちは喜んだ。
週に一度、空中庭園で四人は集まり、他愛も無い会話を楽しんだ。
夜久のくるくる変わる無邪気な表情、時折見せる大人びた表情に少しずつ、結会は惹かれていった。
今日も、四人でテーブルを囲む。
「ほんと、橘木さんが作るお菓子はおいしいな。これ、何だっけ?」
「マドレーヌだよ」
「そうでしょ? どうかな、雪平くん。結会はおススメだよ」
「お得だ! 料理も出来るしな」
「ちょっと、二人とも! 妙なこと言わないでよ」
「考えとく」
紅茶を飲もうとしていた結会は、思いがけない夜久の反応に動きを止めた。
夜久と視線が合い、固まってしまう。
彼は唯、悪戯っぽく微笑むだけだった。
真たちと途中で別れた帰り道、結会は莉沙に誘われてカフェに来ていた。
お茶会をした上に、何でカフェなんだろうと不思議に思う。
「結会ってさ、雪平くんのこと好きよね」
テーブルについて、ショコラ・カプチーノを口にした瞬間の攻撃に、結会は咽る。
「っぅ……!」
「ごめん、ごめん。大丈夫?」
「大丈夫、だけど」
「わたしね、今度のハロウィンに思い切って、真に告白しようと思ってるの。で、いっそのこと結会も告白したらどうかなって」
茶目っ気たっぷりに、莉沙が笑う。
綺麗な響きの名前の通り、彼女自身も美人なので微笑むと大輪の花のように綺麗だ。
「わたしは、いいよ! 無理だから」
「そんなことないわよ。多分、雪平くんも結会のこと気に入ってると思うけど。両思いになったら、四人でダブルデートなんて出来ちゃうし」
「……わたしのは、とりあえず置いといて。莉沙に協力させてよ。ハロウィンなら、お菓子でも作る?」
「! いいかも。教えてくれる?」
「もちろん。前日にクッキー作ろう」
家に帰り、自室に入って部屋着に着替えたところに、スマホの着信が響いた。
着信相手は、真だ。
「はい」
「あ、こんばんは。今、大丈夫か?」
「ん、平気だよ」
「……ちょっと、聞きたいことがあってさ」
「何?」
「莉沙さ、実は雪平のことが好きってことないよな?」
この際だっていう、勢いに任せた真の質問。
まさか、莉沙と真が互いに言葉にしないだけで、両思いだとは知らなかった。
莉沙からは、以前から時々相談を受けていたので、真への気持ちはわかっていたが、彼まで同じ気持ちだったとは……。
真には中学生の時、短期間だが付き合っていた女子がいた。莉沙、一直線ではなかったので、正直びっくりだ。
「真、莉沙のこと好きなんだ」
「まあ……な。それよりさ、質問の答えなんだけどっ」
「大丈夫! 莉沙は雪平くんのこと特別に想ってないよ」
「そっか……よかった。ああっ、この電話のこと、くれぐれも莉沙に言うなよ?」
「大丈夫。言ったりしないよ」
「結会……、ありがとな。俺、お前の恋、応援してるから」
「……」
真はそう言うと、結会の返答を待たずに電話を切ってしまった。
結会はスマホを耳から外して――
そうなのかな。わたし、雪平くんのこと……好きなのかな。
一週間後の放課後、結会はいつものように空中庭園を訪れていた。
今日は、お茶会の日。
彼に会える日。
微かに胸が躍るのは気のせいだろうか。
今日はまだ、人気が少ない。
白い薔薇のアーチを潜り抜け、結会は歩みを進める。
視線の先に、花に向かって跪いている夜久がいた。
「雪……」
声をかけようとした結会の瞳が大きく、見開かれていく。
その瞳に映ったのは、枯れて生気を失ってしまった青い花が生命の輝きを取り戻す瞬間だった。
夜久の右掌に、月色に淡く輝く球体が浮かんでいる。丸いボールから、ぽたりと落ちた雫が花びらを揺らす。茶色く変色してしまった花弁が、瑞々しい輝きを放ち始めた。
「!」
人の気配に気付いた夜久が、ハッとして振り向く。
まずいものを見られてしまったと、表情が語っている。
しかし、次の瞬間、夜久は覚悟を決めたというように結会に向かって歩いてきた。
「今の、見た?」
「……」
コクンと首を縦に振る。
脳裏に、初めて夜久と会ったあの日が蘇る。
木から落下した自分の身体が、ふわりと浮いた感覚。
あれは、気のせいではなかった。
夜久がたった今、花を蘇らせたような不思議の力が働いたものだったに違いない。
「木から落ちた時、身体が軽くなったの……。あれは、雪平くんが?」
それでもと、尋ねてみる。真実を確かめたかった。夜久の言葉から知りたかった。
「そ。俺。俺さ、魔法が使えるんだ。今みたいに枯れた花を蘇らせたり、人や物を宙に浮かせたり。……気持ち悪い?」
「そんなことないよ! だって、雪平くんが助けてくれなかったら、わたしも子猫も怪我してたと思うし」
「ありがと。でも、お別れだ」
「え?」
突然、夜久の唇が紡いだ悲しい言葉に結会は、瞠目する。
「一応、魔法は秘密ってことになってるんだ。奇跡の力は同類以外、誰にも知られちゃならない。それを誰かに見られたら、自分に関する記憶を消さなきゃいけない。俺たち、魔法使いの間でそういう決まり」
「わたし、誰にも言わないよ! 絶対、誰にも言ったりしないから、記憶を消すなんて嫌……っ」
ぽたぽたと瞳から、涙が零れ落ちる。頬を伝う幾筋もの涙は止まることを知らない。
折角、出会えた夜久のことを全て忘れてしまうなんて、失くしてしまうなんて、悲しすぎる。
「俺も辛いけど……ごめんな。橘木さんたちと出会えたこと。ここで話せたこと、忘れないから」
夜久の指が、愛しむように淋しそうに頬に触れた瞬間、結会の眼前に真っ白な光が弾けた。
遠ざかる足音が、背後に聞こえる。
何となく振り返ると、知らない少年が薔薇のアーチを潜っていくところだった――。
ハロウィンを翌日に控えた水曜日の夕方。
約束通り、結会は莉沙と一緒にオレンジクッキーを作っていた。
結会は家族と友達用に。莉沙は、真に渡すためだ。
材料をきちんと計量して、調理開始。
ボールにバターを入れ、クリーム状になるまで混ぜてから砂糖を入れる。それから、卵に薄力粉、ベーキングパウダー、オレンジピールを入れて混ぜ合わせる。クッキングシートを敷いた天板の上にスプーンで掬って形を整えてから、予熱しておいたオーブンに入れて焼き上げていく。
「うまく焼けるかしら」
「レシピ通りに作ったんだから大丈夫だよ」
不安そうにオーブンを眺める莉沙に笑いかける。
きっと、全てうまくいく。願いは叶う。
莉沙と真は、想いが通じ合っているのだから……。
十五分後、焼きあがったクッキーをオーブンから取り出し、熱が冷めたところで味見してみる。
『おいしい!』
ふたりで、手を合わせて感動を分かち合う。
「それじゃ、ラッピングしよっか」
「うん!」
クッキーを数個ずつ、透明フィルム袋に入れリボンで括る。それを紙袋に入れて、ラッピング完成だ。
後片付けを済ませて、玄関の外まで莉沙を見送りに出る。
「結会。わたし、明日頑張るから」
「応援してるね」
坂の向こうに消えていく莉沙の後ろ姿が見えなくなると、家の中に入った。
キッチンに戻り、テーブルの上にぽつんと転がったオレンジを眺める。
心の奥に引っかかった蟠りがある。
何だろう。大事なこと、忘れてるような気がする……。
だけど、思い出せず時間は過ぎていく。
翌日、クラスの女友達にクッキーを渡し終え、結会は家路についていた。
左手には、ひとつだけ余ったオレンジクッキーが入った紙袋。
人数、数え間違えちゃった。自分用で、いっか。今頃、莉沙、告白してるかな。
枝の折れた木の前を通った時、一瞬眩暈がした。
瞼の裏に、何時かの記憶が蘇る。
棘のように心に刺さっていたものの正体。それは、大切な記憶。短かったけれど、存在していた少年への感情。
結会は、学校へと踵を返す。
空中庭園への扉に手を掛けたところで、一度大きく深呼吸した。
庭園に、彼がいるとは限らない。約束もしていない。
けれど、迷わずここに来た。
ここに来れば、きっと――。
扉を開けて、中へ。
天蓋から差し込む夕日が、庭園内にオレンジのベールをかけていた。
あの日のように、白い薔薇のアーチを潜る。
息を吹き返した青い花の傍に、少年は佇んでいた。
近付く足音に、少年……雪平夜久は驚いた表情で結会を見つめた。
「こんにちは」
「……こんにちは」
夜久から、ぎこちない反応が返ってくる。
「久しぶりだね」
「! 橘木さん、記憶が?」
信じられないと言った夜久の表情。
夜久の瞳が、嬉しさと切なさを綯交ぜにしたもので揺れている。
「ずっと、心の奥に引っかかってた。チクチク痛くて。でも、それがわからなくて……。今日、木の前を通ったの。ほら、雪平くんが助けてくれた場 所。そしたら、思い出せた。あの日のこと。ここで再会できたこと。莉沙たちと一緒にお茶したこと」
「……そっか。でも、また消さなくちゃ」
夜久が、一歩ずつ近付いてくる。彼の瞳は、結会たちから自身の記憶を奪った時と同じ覚悟を湛えている。
「っ……思い出すから! 記憶を何回消されたって、絶対思い出すから。雪平くんのこと、忘れたりしないよ?」
「ほんと?」
「え?」
「何度でも、俺のこと思い出してくれる?」
夜久の声音に、結会は気付いてしまった。知ってしまった。
これまで、彼はこうやって何人もの記憶を奪ってきた。奇跡を与えるのと引き換えに。
その中には、夜久の親しい人間もいたはずだ。それなのに、何も知らない振りをして、一から人間関係を作ってきた。
どんなに、苦しかったかな。悲しかったかな。切なかったかな。辛かったかな。
「何で、橘木さんが泣くの?」
「……っ。だって、痛くて……。約束、するよ。何回だって思い出すから。だから、ひとりにならないで」
「ありがと」
夜久は微笑むと、ふわりと結会を抱き寄せた。
いきなりの行為に、結会は慌てる。
「あのっ、雪平くん?」
「黙って」
「……」
切なる夜久の願いに、結会はおとなしく従った。
永く感じられた時間だったが、数十秒後、夜久の腕の中から結会は解放された。
「俺の願い……叶えたよ」
「願いって?」
「たった今、魔法使いであることを辞めた」
「いい、の?」
大それたことになってしまったと、戸惑いを隠せない。自分の我儘がそうさせたのかと、不安にならずにはいられない。
「橘木さんたちと一緒にいられるから」
「雪平くん……」
「そんな表情しないで。これは、俺が自分の意思で、枯れた花を生き返らせることと同じように望んだことだから。橘木さんは、心配しなくていいよ。 そういえば、今日はハロウィンだっけ」
「そう……だね」
「はい、これ」
夜久から手渡されたのは、三日月形のオレンジキャンディ。
「ありがと! わたし、お菓子作ったんだよ。オレンジクッキー」
「Trick or Treat?」
「はい、どーぞ」
オレンジクッキーが入った紙袋を差し出す。
スッと、その手を夜久が掴み、手の甲に唇を押し当てた。
「両方じゃ、ダメ?」
「……え?」
悪戯好きな魔法使いのように微笑みかける彼に、結会の心臓が大きく跳ねる。
黄昏色のハロウィン。
夕空が、二人を包み込んでいく――。