彼女のTreat、彼のTrick@大和 麻也
作者:大和 麻也
ジャンル:推理
※本作品は、大和 麻也の著作「彼女は天才、彼は秀才」を原作とした派生作品です。
原作URL→http://ncode.syosetu.com/n3787bq/
「トリック、オア、トリート!」
中学三年間英語を習ったがゆえの中途半端にリアルな発音で、江里口はおれを指差しそう叫んだ。
「『旅行か、木のてっぺんか?』 ……わけのわからないことを言うな?」
「はあ?」
おれの皮肉にも、江里口はきょとんとして首を傾げる。仕方なく、明瞭な発音で説明してやる。
「『Trip or Treetop』に聞こえた」
「いや、おかしいだろ」江里口は眉を寄せて抗議する。「絶対そうは聞こえない。屁理屈だ、屁理屈!」
乱暴な口調で子供のように捲し立てる。負けず嫌いなところは微笑ましいが、もう少し女の子らしい喋り方をしろと常々言っているのに。
ただ、猫が眼鏡をかけて二足歩行しているだけのようなこの江里口が、面白くて仕方がないのだ。いつ知り合って、いつから軽口を叩くようになっただろうか、いまではもう思い出せない。江里口はクラスに嫌いな奴がいるらしく、ヒマになるとこうして、わざわざ隣のクラスのおれに冗談を言うようになっていた。
おれも、その江里口にかまってやるのが楽しみな日課になっていた。
江里口は興奮して続ける。
「ハロウィンだよ、ハロウィン! トリック、オア、トリート――『おごりかイタズラか』だぞ!」
「『おごり』じゃなくて『お菓子』とでも言えよ。せっかくの子供の喜ぶ行事が、大人の世知辛い社交に聞こえるだろうが」
「うるさい、屁理屈。さあ、おごれ」
そう言って手のひらを差出し、胸を張る。江里口はいつも、優位に立っておれをからかっているつもりなのだ。実態は逆であることを、本人は自覚していない。
「まあ、江里口、落ち着いてよく考えろ……ハロウィンという行事は日本でいえば収穫祭のようなものだろう? だが、日本で最も重要な作物と言えよう米は、この東京において十月上旬に刈られてしまう。十月の末に日本でハロウィンを祝いたいのなら、九州にでも行くことだな。まあ、九州でももう稲刈りは終わっているだろうが」
渾身のジョークだったが、理解できなかったのか江里口は顔を歪めた。
「平馬は発想が歪んでる。変人だよ、変人」
「ふん、変人じゃなければお前と――」
そのとき、終礼の開始を告げるチャイムが鳴る。おれが言い終えないうちに、江里口はすたすたと自分の教室に帰ってしまった。
思えば、きょうは金曜日。終礼がないのだった。
というのも、教員が休みなのだ。おれの通う中高一貫の私立中学校は、週六日授業がある。生徒にとっては苦痛であっても逆らえないものだが、教員はすなわち会社員であるから、学校側は週休二日にして働かせなければならない。よって、常勤の教員には週六日の授業日のうち、一日休みの日がある。
我がクラスの担任である数学教師の山本氏は、金曜日が休みなのだ。
となれば、クラスからはこんな話題が溢れてくる。
「おい、どうせ山本いねぇし、掃除サボろうぜ!」
「床は掃除しなくても平気だって、散らかっちゃいないよ」
「黒板だけ適当に消しとけばいいだろ」
とんでもないアホどもである。掃除をしろと正義を語るのではない、掃除をサボタージュされると面倒であることを懇切丁寧語ってやるのだ。
近年では珍種となった若き熱血教師山本氏は、極度に綺麗好きである。たとえば教室が散らかっていれば、すぐに没収して捨てはじめる。たとえばホコリが目につけば、自ら箒を手に取り掃除し、綺麗になったと思えば掃除当番に説教だ。
そう、十分掃除に時間を費やすか、三十分説教で潰されるか……いずれかを選択するとなれば、絶対に前者が楽である。説教など面倒くさい、最前列に座席のあるおれの気にもなってみろ。
いま、確かに床は綺麗だ。教室移動が多い時間割だったのもあってか、ホコリが積もっている様子はない。けれども、黒板が汚いのは見て分かる。
これで、あしたの朝は説教で確定だろう。
この面倒を回避するには、おれが掃除をすればいい。真面目な女子すらも帰ってしまった現在、殊勝なことに気がついたのはおれだけのようだ。まったく、少しは頭を使えば判ることを。
しかしながら、おれはこういう四字熟語が好きなのだ。
因果応報。
土曜日。ハロウィン当日だ。
おれの非人情の結果、黒板は汚いままだ。そこに、朝礼のチャイムと共に山本氏が現れる。普段颯爽と現れる若者だが、きょうはどうにも疲れ気味だ。生徒は週が終わると興奮気味なのに。
投げやりな挨拶と適当な連絡、朝礼はすんなりと終わってしまった。
むう、叱らないのか? 山本氏はじめ教員が忙しくなるイベントといえば、もう文化祭は終わったし、期末テストはまだ二週間も先だから関係なさそうだ。
あまり面白くないな。掃除をしなかった連中が何の罰も受けぬとは。
どうにも気になって、おれは荷物をまとめる山本氏に小声で尋ねる。
「黒板、怒らないんですね」
妙なことを訊かれて山本氏は目を丸くした。
数学はじめ座学で成績を収め、しかも座席が最前列であるおれは、どの教師を相手にしても比較的フランクに話すことができる。だからこそ、奇妙な質問も冗談めかして聞くことができる。
その奇妙な問いに、山本氏が苦笑しながら答える。
「まったく、誰のイタズラだろうな?」
山本氏が教室をあとにする。一時間目に向けてざわつく教室の中で、おれはつい、独り言を漏らしてしまう。
「へえ、面白いじゃないの」
放課後、おれは自転車で快走し、江里口を捕まえた。
「よう、猫ちゃん」
「うわ!」江里口は失礼な驚き方をした。「驚かすなよ。平馬は自転車なんだから、いつもこっちから帰ってないじゃん」
おれも江里口も、住む町は同じである。しかし、江里口は南西、おれは北東に住んでいるから、方角が正反対だ。よって、江里口はバス、おれは自転車で登校していた。
「というか『猫ちゃん』とか気持ち悪いんだけど」
「いや、ふざけただけ。よくあることだ、気にするな」
分厚い眼鏡のレンズの奥から非難の視線が送られる。おれはそれを無視して、自分の伝えたいきょうの出来事を話す。
「なあ、江里口。きょうは面白いことがあったんだ」
「……また?」猫はさらに顔をしかめる。「『面白い、面白い』って、平馬はそれしかものを評価できないの?」
「いやあ、猫ちゃんはかわいい――」
「……ふざけるな」
「まあ、ともかく。興味深いことがあってな。おれの語りたい『面白い』はFunnyではなくInterestingだ。あのな――――」
きょうのことを懇切丁寧に説明した。金曜日に掃除をクラスのアホどもがボイコットしたこと、黒板が汚れたままになっていたこと、なのに山本氏がまったく注意しなかったこと、おれの質問に『誰のイタズラだろうな?』と答えたこと――一連の不思議を余すことなく伝えた。
話が長くなると悟り、江里口はバス停を離れて歩き出した。そうして南に歩きながら、おれの話を終始ちゃんと聞いてくれた。
しかし、感想はほんのひとこと。
「山本先生もヒマじゃなかったんじゃないの?」
「……感想がそれだけで残念だ。そりゃ、ヒマじゃないだろうな。山本氏は教師三年目にして進路指導の担当だし、週に一度小テストを作るくらいだ」
江里口は、『残念だ』の言葉にぴくりと反応した。負けず嫌いな江里口は、ちょっとした挑発で簡単に操ることができる。ちょっとしたコツがあるのだ。
あとはそこに、とん、と背中を押してやればいい。
「おれにはまったく解らないんだが、江里口は思いつかないか? まさか、『たまたま忙しかった』だけじゃないよな?」
「へえ……わかったよ、考えればいいんでしょ?」
そう嫌々というように声を出したが、口角はつり上がっている。本音では楽しんでいるに違いない。
たとえば、と江里口は切り出す。
「進路とか小テストとかのことで、何か山本先生に事情があった、とか?」
「朝からか?」
一瞬で却下になり、江里口は喉の奥で、うう、と唸った。本物の猫じゃないんだから。
それなら、とめげずに続ける。
「黒板を汚したままでも叱れない事情があった」
「だから、朝からそんな事情があるか?」
「今朝じゃなくて、きのうの放課後。掃除当番がみんなスパルタ系の部活だったとか」
「いや。あいつら真っ直ぐ帰ったぞ、全員が部活ということはないだろう。第一おれたちはもう中三、たいていの部活で引退だ」
ちっ、と小さく舌打ちする。小動物のような女の子だが、やはりいちいち男っぽい。
じゃあ、とくじけず再開する。
「怒らないだけの正当な理由があったんじゃない?」
「……それはいま否定しただろう、掃除当番はさっさと帰った」
「違う、もっと全体のこと。ほら、金曜日って委員会のある日だよね? 平馬の教室は使われていたの?」
「惜しいな、使われていない。理由としては一番納得できるんだが」
江里口も悔しそうに顔を歪めた。
だが、山本氏が叱らないということは、生徒に事情がない限り、山本氏ひいては学校側の事情で黒板が汚されたと考えられる。生徒が中学三年であるゆえ事情が思い当たらない現段階で、叱る側に非があったという説は有力だ。
そのことを江里口と確認する。
「教員の誰かが黒板を汚した、ということか?」
「うん、私もそれを考えた」
本当にそう考えていたのか? とからかおうと思ったが、話の腰を折ると江里口が怒りそうだ。話を続けよう。
「でも、どうして汚す必要が?」
「……それなんだよ。教室は放課後に施錠されるから、わざわざ平馬のクラスを使うのは不自然。それこそ委員会も部活もないようだしね」
江里口は数秒考え込んでから、顔を上げる。
「汚したの、山本先生本人なんじゃない?」
「はあ?」さっぱり意味の解らないことを言う。「山本氏は金曜日学校にいない、休みなんだぞ?」
「だからこそ、だって言ってるの」
仕方ないので大人しく聞いてみる。
「山本先生本人が学校に来て、自分で黒板を汚したとすれば、それはすごく後ろめたいことでしょ?」
「まあ、もっともだ。でもやはり、どうして休みの日に?」
学校に来て、さらには教室の鍵をわざわざ開けてまで黒板を使うだけの理由が思い当たらない。そもそも、放課後誰もいない教室で黒板を使う状況など、場面としてあり得るのだろうか?
山本氏が黒板を使う場面といえば、当然数学の時間に板書のための数式や解説を書くときだ。でなければ、ホームルームや朝礼での連絡のときだろう。
江里口も同じ疑問を抱いている。
「黒板なんて、放課後には使わないよね。綺麗にされた黒板を、綺麗好きの山本先生がわざわざ汚すようなことがある? ああ、でも、金曜日はもともと汚れていたのか」
「汚れていたから自分も使ったのか、綺麗だったが仕方なく使ったのか――山本氏は、どちらを選択する人なんだろうな?」
「……綺麗好きなんだから、綺麗な黒板に字を書こうとは思わないと思う」
「まあ、そうだろうな。……じゃあ、休みの日に職場に出てきて黒板を使うほどの緊急事態って、一体何だ?」
それから、しばらくふたりで唸っていた。何もアイデアが浮かばない。
そのうちに、医療センター脇の長い坂道に出てきた。江里口が使うバスはこの医療センターのあたりを経由するから、江里口家もすぐ近くだろう。土曜日の午後、坂道から開けて見える空は、穏やかで清々しい日本晴れだ。
楽しい時間もあと少し。そろそろ、トリックのタネ明かしが必要だ。
そのとき、江里口が久しぶりにはっきりと話しはじめた。
「平馬、私ちょっとだけ想像できてきた」
遠慮がちに、江里口は真相を語る。
「山本先生、小テストを作ろうとしていたんだよ」
「というと?」
「きっと、木曜日に数学の授業かホームルームで平馬の教室に行ったとき、うっかり作りかけの小テストを教卓に置いて行ってしまった。先生としては今週のうちにテストを完成させたかったから、焦って教室に行った」
む、これはいいところを突いているかもしれない。
「ほう、面白い。理にかなっているかもしれない」
「そして、教室の鍵を開けてテストを回収した。そしてテストを確認すると、模範解答が書かれていない問題があった。しかも、一番難しいやつがね」
現在の数学の単元は図形の相似比だ。その中の難問ともなれば――
「黒板を使って図を描きながら、自分で解いたのか」
「そういうこと。問題を引用するテキストは家に置いてあったんだろうね。でも、きのうのうちにどうしても終わらせたかったんだと思う。進路指導で忙しいだろうし。
だから、何としても解こうと、黒板に図形を描いた。それで、翌朝掃除当番を注意できなかったんだよ」
交差点で立ち止まる。きょうはここで江里口と別れることになる。
「なるほど、面白かった。そうか、山本氏は問題を解いたのか」
「…………」
おれは素直に江里口を讃えたが、どうにも浮かない顔だ。
「どうした?」
「平馬、本当は全部わかっていただろ?」
「はい?」
江里口は、はあ、と息を吐いてから続ける。
「だって、作りかけのテストを忘れたなんて話を、簡単に信じ込んだじゃない。平馬のことだから、テストの日程とか山本先生の性格とかを考えて否定しに来ると思ったのに。
あと、『誰のイタズラだろうな』って山本先生は言ったんでしょう? でも、そんなヒントを、いざ私が話しはじめると一度も指摘しなかった。わざと間違わせようとしたんでしょ?」
おっと、猫が爪を立てている。
「どういうことだ?」
「目的までは解らないよ。でも、黒板の話がどういうことだったのかは解る。
まず、平馬は山本先生が忘れ物をしたことに、きのうの時点で解っていたんでしょ? だから、私がテストの忘れ物を言い出しても疑わなかった。
そして、掃除当番が帰った後、あした山本先生の説教がはじまって面倒になる、ということに平馬は気が付いた。だから、対策を考えようとしたんだろ? サボって帰った掃除当番の代わりに掃除をするのは納得がいかない、だから、山本先生が黒板を使うように仕向けようと考えた。
せいぜい、内部進学しないで外部を受験するクラスメイトの問題集から、とびっきり難しい数学の問題を見つけて、教卓にペンで落書きでもしたんだろ? 山本先生が教卓から忘れ物を取り出すとき、綺麗好きの人にとっては落書きが絶対に目に付くから。『誰のイタズラだろうな』ってのは、平馬が書いたイタズラ書きのこと。
……これでどうだ? 当たっているだろ」
「…………ふっ」
失笑が漏れ、ついそこから笑いが止まらなくなってしまう。涙が出そうなくらいに気持ちが良くて、ご機嫌に楽しくて、最高に幸せだった。
そんな壊れたおれを、江里口は怪訝に見つめている。
「と、突然どうしたんだよ」
「いやさ、面白くてたまらないんだ。流石、お前もおれの考えをよく解っているよ。本当にお前は最高だ」
どういうわけか、江里口の顔が途端に赤くなる。その顔を見て少しばかり芽生えた嬉しさを隠しながら、続きを話す。
「江里口。大正解だ、ご名答だ、そのとおりだ! おれが面倒を避けたかったのも、代わりに掃除するのは業腹だったのも、教卓に問題を落書きしたのも、全部全部お前が言うことに間違いはない、完璧だぜ! ……そうそう、ついでだが、問題はここから持ってきたんだ」
おれは鞄から一冊の本を取り出し、それを江里口に手渡す。
「数学A……これって、高校の教科書?」
「そう。兄貴から拝借して、勉強しているんだ」
江里口は、ぺらぺらとページをめくって眺めていたが、突然顔を強張らせた。
「どうした?」
「……えっと、高校の勉強してるのはどうして? まさか、外の高校を受験するの?」
「え? 江里口は内部進学なのか?」
寂しそうにこくりと頷く。
にゃあ、と猫の声が足元から聴こえた。いち早く江里口はそれに気づき、しゃがんでその子猫を見つめる。確かに視線は子猫を見ていたが、焦点は合っていなかった。
……ちょっと、からかいすぎたか。
「行かない、行かない。おれも内部だよ。せっかく一貫の私立中にいるのに、高校受験なんて面倒くさいだろう」
――それに、江里口のいない学校に通うのも惜しいじゃないか。
一番の本心を隠し、進路は同じであることを伝えた。そして、空気が悪いのでおれもしゃがんで目線を合わせ、冗談めかして江里口の頭に、ぽん、と手を乗せた。
撫で回しながら、努めて優しく話す。
「ほら、高校生になったら、高校受験で必死に勉強してきた奴らと一緒になるだろう? そいつらに負けないよう、いまのうちから予習しているだけだよ」
しばらくなされるがまま撫でられて、ぽかんとしていた江里口だったが、途端に顔を赤くしておれを威嚇してくる。
「……おい。手をどけろよ、気持ち悪い」
「へいへい、すみませんね」
別に怖くもない顔で、小動物にこちらを睨まれる――たまらなく面白い。
いまにも飛び掛かってきて爪と歯でおれを襲わんとする江里口は、凄みの効いた怖い声で詰問してくる。怒ったとき、顔は怖くないが、乱暴な喋り方もあってか声は怖いのだ。
「なあ、どういうつもりだよ? ややこしいことして」
「そうだな……」おっかないから、あえてひょうひょうと受け流しながら話す。「ほら、お前きのうTrick or Treatって聞いてきただろう?」
「それがどうした?」と、江里口がまだ怒っている。おれから視線を逸らして子猫を見るばかりで、目を合わせようとしてくれない。
「Treatには『問題を論じる』というような意味がある。だから、お前に問題を出して、謎を解いてもらったんだ」
解せない顔をしているが、ハロウィンと子猫で少し機嫌は良くなったらしい。子猫を見る目も優しくなった。
「だから、おれからのTrickだったというわけ。よくあるイタズラさ、気にするな」
「ふうん……本当に?」
建前を語ったことがもう悟られてしまった。
江里口はおれとではなく子猫と戯れている。
仕方ない、いい加減はぐらかさずに話すか。
「お前と話しながら一緒に帰りたかったの」
猫は逃げ出した。
そのうちご機嫌取りにおごってやらないとな。