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きっと、これから。

題名がなんだか、あれですね。

そして、いつもよりは甘くないです。

でも、久しぶりに書いた小説はとても楽しかったので、読んでいただけると嬉しいです。

 優しい手つきで頭を撫でられた。幸せだと菜摘は思う。それが偽りだとしても。


 静かな風が吹いた。冷たいそれに菜摘は身体を震わす。息を吐けば、白く染まった。

 大学の講義が終わり、菜摘は友人の陽子と一緒に教室を出た。これから菜摘のアパートに行き、一緒に見るDVDを見る予定だ。

「拓海」

 少し遠くから綺麗な声が聞こえた。よく知っているその名に、菜摘は思わず振り返る。そして、振り返ったことをすぐに後悔した。

振り返った先は、当たり前のように腕を組む美男美女のカップル。幸せそうな顔をして菜摘の横を通り過ぎた。

「……」

 小さく息を吐く。いつものことだ。拓海の隣に自分以外の誰かが隣にいることなど。拓海が罪悪感などまるで抱かないことなど。

 それでも、先ほどまで身体を合わせていたのだ。どこか隠すようなしぐさをしてくれてもいいのにと、小さく息を吐く。

 彼は「好き」だと告げてくれる。好きだと告げ、キスを送り、頭を撫でてくれる。それでもそれはすべて偽りなのだ。彼が自分のことを本当に好きだったことなどありはしない。それでもこんな風に「嘘だよ」と告げることをしなくてもいいのにと菜摘は思う。拓海に嘘を隠すずるさがあればよかったなと。

「…菜摘、大丈夫?」

 隣にいた陽子が心配そうに菜摘の顔を覗き込む。陽子は事情を知っていた。拓海と付き合っていることも、拓海がどういう人間かも。そして何度もやめろと本気で止めてくれるのだ。

「大丈夫。知ってたことだから」

 笑った。けれど、きちんと笑えてなかったことは、陽子の歪んだ表情ですぐにわかった。

「…菜摘」

 どうして陽子の方が泣きそうなのだろう。そう思うとどこかおかしい。

 知っていた。知っていて傍にいるのは自分だ。

 拓海の周りにはいろんな人がいっぱいいて、自分はその中の一人だ。それを拓海は隠そうとすらしない。それでよかった。だってだからこそ、こんな自分が、彼の隣にいられるのだ。

「もう、やめようよ」

 何度目かになる言葉を陽子は言った。どこか懇願が見える声色に本気で心配されていることがわかる。けれどそれに菜摘はただ、笑った。

「…無理だよ」

「どうして?だって、大勢の一人なんだよ!…菜摘だけを愛してくれることなんて、これからないと思う」

 厳しいようだけど、と小さく付け加えた陽子に菜摘は首を横に振る。厳しくなんてない。それは事実だ。菜摘が目を逸らしている真実。

「だって、好きだって言ってくれるの。こんな私でも」

 菜摘は自分の頬を触る。

「…」

「かわいいって言ってくれるの、こんな私に。…嘘がね、とっても上手なの」

 どこか悲しい笑みを浮かべた。陽子はなぜか苦しくなって精一杯首を横に振った。

「菜摘はかわいいよ」

「…ありがとう。でも、…私なんかだめだよ」

「かわいくなりたいなら、努力すれば?」

 聞きなれない声が耳に入った。菜摘と陽子は顔を見合わせる。同時に振り向いた先にあったのは知らない顔。視線は菜摘に向かっていた。

「…菜摘、知り合い?」

 陽子の問いかけに菜摘は頼りなく首を傾げた。

「あれ?ひどいな~。同じ講義受けてる仲じゃないか」

 茶化すような声。菜摘は必死で頭を回転させるがはやり誰かわからなかった。陽子はそんな菜摘の様子を察したのか「誰ですか?」と警戒する声で聞いた。

「本田優斗。そちらの今井菜摘さんと同じ社会学の講義を受けている君たちと同じ2年生です」

 やはりどこか茶化すような声。そんな優斗の様子に菜摘は少しイラついた。社会学の講義と言えば、受講者は150人程度いるはずだ。それも学年が入り混じっている。見かけたことはあったとしても憶えていなくて当然ではないだろうか。

「陽子、もう行こう」

 優斗から視線を外し、歩みを始める。そんな菜摘の背中に優斗は通る声で言った。

「かわいくないって思うなら努力すれば?」

「…」

「努力もせずに、かわいくないって嘆くだけじゃ、何も変わらないんじゃない?」

「…そんなに簡単に言わないでもらえませんか」

 どこか強い口調になった。それでも優斗はただ、にこにこと笑っている。

「なんで?難しいことなんて、どこにある?めちゃくちゃ簡単だろ?」

 小さく風が吹いた。その風が、優斗の短い髪を揺らしたのが見える。さわやかな顔だった。綺麗だと思う。そんな人に自分の苦しみがわかるのか、思わずそう叫びたくなった。

「…」

 すっと、優斗に背を向ける。そんな菜摘の様子に陽子は困ったように菜摘と優斗を交互に見た。

「君はさ、ブサイクじゃなくて、綺麗になる努力をしてないだけだと思うよ」

 優斗の声に振り返る陽子に、もう一度「行こう」と告げ、菜摘は少し、歩くペースを速めた。


 講義を終えたらしい学生たちがサークル活動をする声が聞こえた。それを横目に坂道を下る。菜摘たちの大学は坂の多いことで有名だった。足を動かしながら菜摘の頭には、先ほどの言葉がぐるぐる回る。

「努力をしていないだけ」

 努力をして何になるのだろう、と菜摘は思う。ブサイクは頑張ったって変わらない。性格だってもう20歳になってしまった今、そう大きくは変わらないだろう。ならば、現状を受け入れるしかないではないか。それでも愛してほしければ、今の自分でいいという嘘つきと付き合うしかないのだ。

「菜摘、ちょっと、早いよ~」

 菜摘は後ろを振り返る。見れば息を切らした陽子が小走りしてついてきていた。

「…ごめん」

「いいよ。…でも、菜摘もあんな風に取り乱すんだね」

 どこかおかしそうに言う陽子に菜摘は首を傾げた。その様子になぜか陽子は再び笑う。

「何だろう、菜摘って、どこか達観している感じがしてたけど、さっきの本田くんにはなんか、素って感じだったからさ。イライラしてますって感じ」

「…そんなにイライラしてた?」

「してた」

 断言した陽子に菜摘は肩を落とした。

「まずかったかな?」

「いいんじゃない?あの言い方は腹が立って当たり前だし、たぶん、むかつかれるのは想定内だったと思うよ、あの人も」

「何、それ?」

「…何だろうね。お人よしなのかな?」

 陽子の使った単語に菜摘は驚く。なぜ先ほどの会話から「お人よし」などという言葉が出されるのだろうか。

「お人よしって、ただ、性格悪いだけでしょう?」

「性格悪い人だったらアドバイスくれないでしょう?」

「アドバイス?」

「もっと自信を持てば?って言ってくれたでしょう?」

 陽子の言葉、菜摘は先ほどの優斗の言葉を思い出す。

「…そんなこと言われてないよ?」

「ま、確かにそうだけど、…多分、そう言いたかったんだと思うよ」

「……無理だよ。自信なんて。私のどこに自信を持てって言うの?見た目も中身もだめなんだよ」

「そんなことないよ。菜摘はかわいいよ」

「…いいよ。大丈夫。わかってるから」

 どこか諦めた様な声色に陽子は、「本当なんだけどな」と小さく告げた。けれど菜摘はただ小さく笑うだけだった。

「ほら、早く帰って、DVD見ようよ」

「…うん」

「ありがとう、陽子。陽子と友だちになれてよかったよ」

「私もだよ」

 どこか腑に落ちない陽子だったが、それでもはっきりとそう言った。その言葉に菜摘は嬉しそうに笑う。


 カーテンの隙間から太陽の光が部屋の中に入る。まぶしくて、目を開けた。小さく伸びをして、布団から身体を出す。寒さに小さく震えた。菜摘は思い出したように暖房のスイッチを入れる。

 カレンダーで曜日を確認し、思わず肩を落とした。木曜日は社会学のある日だ。

「…タイミング悪いな」

 思わず出た独り言はお湯が沸いたことを知らせる甲高い音にかき消された。


「昨日ぶり」

 そう声をかけながら隣に座ったのは、菜摘が朝一で会いたくないと思った人物。菜摘は睨むように優斗の顔を見る。

「どうして隣に座るの?」

「空いてるから」

 その言葉に菜摘は周りを見回した。視線を向こうに投げ、優斗に言う。

「どこもまだ空いてるけど?」

「でも、俺はここがいい」

「じゃあ、私が動くからいいよ」

 鞄を持ち、腰を上げた菜摘の腕を優斗は掴んだ。思わぬ行動に菜摘は驚いたように優斗を見る。笑顔の優斗は菜摘の表情を見るとすぐに腕を放した。

「一緒だよ。君の隣に座るつもりだから。だから、無駄なことはやめて、そのままいなよ」

「…」

 少し考えた後、小さく息を吐き、菜摘は腰を降ろした。満足そうな優斗の顔がイラつくが見ないことにする。

「…」

「…」

 沈黙。周りの声はしっかりと聞こえるが、それでも居心地が悪いのは拭えない。菜摘は小さくため息をつき、隣にいる優斗を見た。

「…なんで、私に構うの?今もそうだし、昨日も。私と友だちの会話に勝手に入ってきてさ。聞こえたとしても無視すればいいだけでしょう?」

 菜摘の言葉に優斗は目線を上にあげ、考えるそぶりを見せた。もう一度菜摘と目を合わせると小さく笑って告げる。

「むかつくから、かな」

「え?」

 予想外の言葉に菜摘は目を丸くした。言葉を理解するのに時間がかかる。けれど優斗は構わず先を続けた。

「だって、ブサイクや性格悪いって言葉で逃げてるだけでしょう?変わる努力もしないで、今の自分を認めてくれる男のところに行って。それで自分がかわいそうだって嘆くの?そんなのバカげてる」

 なぜ昨日名前を覚えたばかりの人にそこまで言われなければならないのか。そう思ったけれど、菜摘の口からは何の言葉も出てこなかった。正論は時として、人を鋭く刺すのだと思った。

 不意に優斗が菜摘に顔を近づけた。思わず身体を引くが、優斗はすぐに離れる。

「化粧してる?」

「え?」

「…してるけど、すっごく薄いね。時間もあんまりかけてないんじゃない?髪だって何にもしてないし、その服もよく見るものだよね」

 優斗の言葉に思わず菜摘は自分の服装を見た。確かに、コーデまで数日前と同じ服だった。

「何もしてなくて、かわいくなりたいって思ったって、それは無理だよ。自信がないままで、今を認めてくれるふりをしている相手といるのは、楽だろうね。被害者の顔をしてればいいだけなんだから」

「…」

「今よりもかわいくなりたいと思うなら変わる努力をしなくちゃいけないんじゃないの?」

「…」

「何かしたの?現実を嘆く以外に」

「…」

 何か言いたかった。言い返したかった。けれど言葉の代わりに涙が出そうになり、菜摘は慌てて堪えるために唇を噛んだ。

 不意に、鞄の中から着信音が聞こえた。菜摘はどこかほっとしたように優斗から視線を外し、鞄の中を漁る。けれど、ディスプレイが表示した名前に思わず手が止まった。顔を上げ、優斗の顔を見る。

「…出ないの?」

「……もうすぐ講義が始まるからやめとくよ」

 首を傾げる優斗にそう告げ、ボタンを長押しし、電源を切った。背中が冷えるのを感じる。

 菜摘はおもむろに立ち上がった。

「私、やっぱり、他の席に座るから」

 少しだけ驚いた表情を浮かべる優斗を一瞥しただけで、菜摘は席を移動した。今度は優斗は何も言わなかった。

 菜摘は先ほどより前の席に腰を降ろした。優斗が視界に入らないように。

 震えそうになる手を組み、ゆっくり息を吐く。拓海の着信を無視したことは、今までなかった。拓海からの着信だとわかりながらも電源を切った自分に、菜摘自身が一番驚いている。

 けれど、優斗の前で拓海からの電話を取ることが躊躇われた。きっと自分は「うん」しか言わないから。きっと、講義があと少しで始まるこの時間であっても「来い」と言われれば講義を休んでまでも拓海のところに駆けつけるだろう。それを優斗に見せたくなかった。優斗が見れば、何か言われるのではないかと思った。そして、言われたことにまた自分は何一つ言葉を返すことができないだろう。それが怖かった。

「…どうしたいんだろう」

 菜摘は目を閉じでいとしい人物の顔を思い出そうとした。けれど、誰の顔も思い浮かべなかった。


 講義が終わると菜摘はすぐに電源を入れた。電話をかけようとして、メールが来ていることに気づく。

『今日、菜摘の家に行きたい。会いたいから手が空いたら電話して』

 拓海と付き合うようになってもう半年が経っている。身体は何回も重ねたが、外で手を繋いだことすらなかった。「会いたい」と言われたことなどおそらく一度もなかっただろう。拓海が菜摘の予定を気にすることさえほとんどなかった。「付き合っている」と言い切れない関係だった。だからこそ、菜摘はこのメールに驚いた。そして頬が赤くなるのが自分でもわかった。早く電話をしたい。声が聴きたい。

 はやる気持ちを押さえ、菜摘は教室から出るとすぐに拓海に電話をかけた。耳元のコール音がやけに遅く聞こえる。

「もしもし、菜摘?」

「た、拓海くん!」

「何、焦ってんの?」

「だ、だって、メールびっくりしちゃって」

「なんで?」

「だって、あんなこと今まで言われたことないから」

「俺だって言いたくなる時くらいあるよ。ねぇ、今から菜摘の家に行ってもいい?」

「うん、大丈夫だよ。今日の講義はこれで終わりだし、私ももう帰るから」

「じゃあ、今から行くから」

「うん」

「あ、そうだ。菜摘」

「何?」

「好きだよ」

「え?」

「じゃあ、またな」

「あ、うん」

 外の空気は震えるほど冷たい。それなのに、身体が熱くなるのがわかった。拓海がいろんな人と付き合っているのは知っている。けれどそれでも囁かれる言葉は泣きたくなるほど嬉しいのだ。

 熱の集まった頬に手を当てる。冷たい指先がその温度に暖められた。思わず笑顔になりながら早く家に戻ろうと足を一歩踏み出した。

 けれど、もう一歩は続かなかった。目の前に優斗が立っていたから。避けようとしても同じようについてくる。菜摘は聞こえるように大きなため息をついた。

「どいて」

「嫌だ」

「どうして、そんなに私にかまうんですか?むかつくなら、放っておけばいいじゃないですか」

「彼の言葉は本当の言葉?」

「え?」

「お金を要求されたことは?」

「…」

「今井さんは、綺麗だよ。本気で変わる気があるなら、もっと綺麗になれると思う」

「急に、何言って…」

 菜摘が言いかけた言葉を遮り、優斗は言葉を繋いだ。

「だから、彼から離れたってきっと大丈夫。君を連れて歩こうともしない相手なんて付き合っているなんて言えないよ」

 まただ、と菜摘は思った。また、この人は正論で鋭く突き刺すのだ。菜摘は視線を逸らすまいと、まっすぐ優斗の目を見た。

「…わかってるよ。言われなくたってそんなことわかってる」

 菜摘の声は決して大きくなかった。けれど、抑えたその声は、優斗の耳によく入った。

「それでも、嬉しいの。好きだって言われれば、胸が鳴るし、顔がにやけるの。抱きしめられたら色んなことを忘れちゃうの。幸せだって思うの」

「…」

「それじゃあ、いけない?」

「嘘だってわかってるのに、幸せなの?」

「私は、今、幸せだよ」

 まっすぐ目を見て言った。優斗は何か言いたそうな表情のまま、下を向く。

「わかった。悪かったね、余計なこと言って」

「…」

「引き留めてごめんね。バイバイ」

 優斗は身体の向きを変え、菜摘が歩く道を開けてくれる。通り過ぎる時に見たその表情がなぜか悲しそうで、胸が苦しくなった。


 北風に吹かれながら、菜摘は大学の坂道を下った。拓海に会えるのが嬉しいはずなのに、なぜか気持ちがもやもやする。頭に浮かぶのは優斗の顔だった。頭を横に振り、拓海の顔を思い浮かべようとするが、浮かんでは来てくれなかった。

「菜摘」

 自分の名前を呼ぶ声が聞こえた。菜摘が顔を上げるとアパートのドアの前で待っていた拓海がこちらに手を振る。菜摘はもう一度首を横に振り、応えるように手を振った。

「遅かったな」

「え?あ、ごめんね。寒かったでしょう?」

「大丈夫。どうかした?」

「ううん。社会学の講義、人数多いから、出るまでに時間がかかっちゃっただけ。それより、中入ろうよ」

 菜摘はバッグの中から鍵を取り出し、ドアを開けた。けれど拓海は中に入ろうとしない。そんな拓海に菜摘は首を傾げた。

「どうしたの?」

「家の中はいいよ。今日は、これから行くところがあるんだ」

「え?」

 想像していなかった言葉に驚いて振り返る。視界に入った拓海は嬉しそうな笑顔だった。

「で、でも、さっき、家に行きたいって…」

「大学で菜摘を捜してもよかったんだけどさ、こっちの方が近かったんだよ」

「…そうなんだ。…えっと、…なんか用だった?」

「そうそう。ちょっと、お金貸してほしくてさ」

「え?」

「2万くらいでいいんだ。ちょっと貸してよ」

 そう言って手を出した拓海はとても楽しそうで、お菓子をせがむ子どものようだった。無邪気な表情。菜摘はバッグの中から財布を捜した。けれど、突然優斗の言葉を思い出し、恐る恐る拓海を見る。

「あ、あのさ、…この前も一万貸したよね?あれ、まだ返してもらってないと思うんだけど」

「そうだった?大丈夫。今度、まとめて返すからさ。それより早く頂戴。遅れちゃうから」

「…えっと…」

「…何?だめなの?」

 一気に声のトーンが落ちた。笑顔が一瞬でなくなる。菜摘は怖くなって背中を丸めた。

 菜摘の様子に拓海は大きなため息をつく。

「菜摘、好きだよ」

 拓海の言葉に、電話とはなんと便利なものなのだろうと菜摘は思った。表情が見えない分、自分で情報をねつ造できるのだ。

 好きだよ、の言葉がこんなに無表情で言われていたなんて思わなかった。ただ、事務処理のように言われた言葉だったのだ。それにあんなに喜んだなんて、なんて自分はばかなんだろう。

 菜摘は思わず一歩うしろに下がった。その様子に拓海は舌打ちを一つする。

「…なんだよ。好きだって言ってやってんじゃん。早く出してよ。遅れるだろう」

 泣きたいのに、涙は出てこなかった。こんな人だと知っていて一緒にいるのは自分だ。愛されていないことなんて知っていた。知っていたのだ。ここでお金を渡せば、また拓海は嘘をついてくれる。嘘をついて、傍に置いてくれる。それでいいと思っていた。けれど、浮かんだのは優斗の顔だった。

「…嫌みたいだよ」

 聞き覚えのある声。首を動かして声の主を見る。なぜだろう、菜摘は涙が出てきそうになり、慌てて堪えた。

「…誰?」

「隣の隣に住む一般住民です」

「え?」

 驚いた菜摘に優斗はくすりと笑い、補足した。

「これ、本当ね。別にストーカーとかじゃないから」

「…何?知り合い?」

 菜摘と優斗を交互に見て拓海が聞く。

「う~ん。知り合いって言うか、友だちって言うか。…ま、俺が今井さんを好きなだけかな」

 突然の言葉に菜摘は目を丸くして優斗の顔を見た。けれど、優斗は拓海を見ている。穏やかな口調なのに、その目はどこか怒りを含んでいた。

 そんな2人を交互に見ると、拓海は小さくため息を吐く。

「…よくわかんないけど、男できたってことなら、別れてやるよ。ま、付き合ってたってわけじゃねぇけど。でもさ、今困るから2万だけ頂戴。手切れ金」

「ねぇ、恐喝罪って知ってる?」

 黒い笑みでそう問う優斗に拓海はイラついたように頭をかいた。

「ちっ、面倒くせぇな。はいはい、わかりましたよ。あ、そうだ。こいつ、何から何までつまんねぇぜ。それでいいならくれてやるよ」

 からかうような拓海の口調に優斗は嘲笑を浮かべた。それが気に食わなかったのか、拓海はイラついたように優斗を見る。

「なんだよ、その顔」

「いや、バカだなって」

「は?」

「後悔しても遅いよ。手を放したのは君だ」

「…誰が後悔なんかするかよ。じゃあな」

 そう言い残し、拓海は菜摘たちに背を向けた。菜摘は拳を強く握り、一歩踏み出す。離れていく背中に声をかけた。

「拓海くん、今までありがとう。一緒にいてくれてありがとう。つまらない私の話をいつも聞いてくれてありがとう」

「…」

「えっと…それから、それから、…本当に、いっぱいありがとう」

 自分以外の彼女がいたことを知っていた。お金を要求された。それでも、傍にいてくれた。自分を好きになれない菜摘に、好きだと言ってくれた。それが嘘でも、菜摘は嬉しかったのだ。

 傷ついた。それでも、幸せを感じた。だから、拓海と一緒にいた時間が無駄だったなんて思いたくはなかった。拓海はそう思ったとしても、自分だけは幸せな時間だったと胸を張って言いたい。だから、感謝の気持ちを口にした。

 拓海は足を止め、菜摘の方を振り返った。バカにしたような、小さな笑いを口元に浮かべている。

「ボキャブラリー少なすぎ」

「…ごめんね」

「じゃあな」

 手を振った。今度は振り返らなかった。


 菜摘は空を見上げた。青い空の向こうに太陽が輝いていた。空気は冷たいが、太陽の光は暖かい。

「…どうして、泣けないのかな」

「好きじゃなかったんじゃない?」

 優斗の言葉がしっくり自分の心に収まる。彼が自分を利用していたように、自分も彼を利用していたのかもしれないと思った。そのままの自分を見てくれて、それでいいと嘘を言ってくれるそんな拓海を利用していたのかもしれないと。

「本当にこのアパートの人?」

「本当だよ」

「そっか。知らなかった」

「だから、ひどいなって言ったじゃないか」

「だって、アパートの人と関わりないもん」

「確かにね。でも、俺は知ってたよ」

「…ねぇ、どうして、優しくしてくれるの?」

 菜摘の問いに、優斗は小さく笑う。そんな優斗の様子に菜摘は首を傾げた。

「社会学の講義は150人も受けてるんだよ。そんな中にいる君の名前まで知ってる。それってどういうことかわかる?」

「……え?」

「ってか、さっき言ったよね。まあ、君にじゃなくて、彼にだけど」

「…」

「今井さんが好きだってこと」

「……どうして?」

 なぜか菜摘は泣きそうになった。優斗と話すと小さなことで泣きたくなる。左手で胸を押さえた。そんな菜摘に優斗は手を伸ばし、菜摘の頭を2、3回ポンポンと叩いた。

「どうしてだろうね。ただ、むかついたんだ。何もしないで嘆いている君を見たらむかついて、むかつくって思ったら、君を見てた。君を見てたら、家に帰っても君のことを考えていた。君があいつといるとむかついた。そしたらまた余計に君を想った」

「…」

「ずっと話しかけたかったんだ。大丈夫だよって言いたかった。何をそんなに不安がっているのかわからないけど、今井さんはかわいいよ。優しいし。もっと自分に自信を持ったっていいのに。それでも変わりたいなら、努力をすればいい」

「…」

「そんなに難しいことじゃないよって言いたかったんだ。言いたくて、けど、きっと、それも口実で、君の視界に入りたかっただけなのかもしれない」

「…本田くん」

「……はじめて名前を呼んでくれたね」

「え?」

「名前も読んでほしかった。…理由なんてそんなものなんだ」

「…そっか」

「だから声をかけたんだ。君の弱い心を利用した。……最低だって思う?」

 どこか不安そうなその声色に菜摘は小さく首を振った。

「本田くんの言うことは正しいと思う。正しくて、正しすぎて、少しつらかっただけで。…本田くんの言うとおり、私、何もしてなかった。変わりたいって思ってるのに、何も。頑張ったところで必ず結果が返ってくるなんて保証はないから、だから動くことが怖かったの。努力が全部無駄になりそうで。そう思ったら、何もできなかった。『今の自分を好きになってほしい』なんて言って逃げてた」

「…うん」

「みんな少しずつ努力してるのに、そうすることが今の自分を否定することになる気がしてたの。そんなことあるはずないのにね。だって、努力したって努力しなくたって自分は変わらない。それなら、努力している自分の方がいいに決まってるもんね」

「そうだね」

「痩せたとかかわいくなったとか、目に見える成果がなくたって、きっと頑張っているだけで違うのに。それなのに、そうすることができなかった私は弱かったんだと思う。それで、拓海くんを利用した。だからやっぱり拓海くんだけを責められないね」

「いや、別にあれは責めていいと思うけど?」

 真顔でそう言う優斗に菜摘は小さく笑った。そして、そっと手を差し伸べる。

「本田くんは最低なんかじゃないよ。…でも、すっごく傷ついたの」

「…ごめん」

「だから、この手を握ってくれるなら、許してあげる」

 そう言って笑った菜摘はどこから見ても綺麗だった。優斗は笑みを浮かべ、一歩踏み出すと手を握った。そしてそのまま菜摘を引き寄せる。

「え?」

「わかってる?俺、今井さんのことが好きなんだよ」

「…うん」

「期待してもいい?きっと、今はまだ、俺のこと見られないと思う。でも、これから俺のこと見てくれるって期待してもいい?」

 優斗の腕の中はひどく暖かくて、菜摘は目を閉じ、大きく頷いた。優斗は腕に力を込める。少しだけ痛かった。それでも幸せだと思う。高鳴る鼓動が優斗に伝わればいいなと菜摘は思った。

 


最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

なんだか、ふわっとした終わり方でしたが、どうでしたでしょうか?

自分は、楽しくかけました。よろこんでいただけたら幸いです。

また、コメントや評価を頂けたら泣いて喜びます!


読んでいただき、本当にありがとうございました!!

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― 新着の感想 ―
[良い点] 最低元彼を後悔させて欲しいですね。これからの二人が気になります。 [一言] 続編お願いしたいです(≧∇≦)
[一言] 私こうゆう感じの物語が好きなので、読んでよかったと思ってます。
2015/02/11 14:14 退会済み
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