なに食わぬ顔で
メデューサを樹が住んでいるアパートに連れて行くことが決まってから、樹はすぐに行動を開始した。
樹はメデューサの手を引いて、立ち上がった。
「こっちです」
二人は気絶する先輩が眠る守衛室の前を通り、職員用の出入口から外に出た。外はまだ暗く、周囲には通行人や車は通っていない。
「行きますよ……っと?」
メデューサの手を引き、自分の車に向かおうとしたが、メデューサは動かなかった。振り向いて様子を確認すると、メデューサの頭の蛇が仕切りに周囲に視線を向けていた。
「な、なんなのですか……これは?私は異世界に来てしまったのですか!?」
どうやら頭の蛇の視界を通すことで、メデューサ本人が目を閉じた状態でも周囲を見ることが出来るようだ。
目が覚めたら見知らぬ場所にいたら、誰だって驚くだろう。それはメデューサも同じだ。いつどこでどうしてメデューサが石化したのか樹にはわからないが、メデューサにとって石化したのは"ついさっき"の出来事だ。驚きや混乱があるのは当然だ。
だが、今優先しなくてはいけないのはメデューサを車に乗せることだ。騒ぎになったら手がつけられない。
メデューサには周囲に広がる現代がどう見えているのだろうか。
「メデューサさん……僕を見てください」
樹はメデューサの正面に立ち、自分より高い位置にある頭を抱き寄せ、額を当てた。
「まず落ち着いてください。メデューサさん、現代はメデューサさんが知っている世界とはだいぶ違います。メデューサさんが他の人に見つかってしまうと騒ぎが起きて大変です。だから、今は少し我慢してください」
「え、ええ……わかりました」
メデューサの手を引いて歩く樹はドキドキしていた。
〔し、しまったぁぁぁぁぁ!!あんなに顔を急接近させちゃったよ!!おでこ当てちゃったよぉぉぉぉぉ!!〕
手を引いている間、樹はそれ以上振り向かないと決めた。今、彼の顔は恥ずかしさのあまり真っ赤に染まっている。だが、恥ずかしさを感じながらも、同時に込み上げる嬉しさでニヤけた変な顔も見られたくない。
そうこうしている内に樹が使っている車に到着した。大学の入学祝いに中古の軽自動車を贈られたのだ。新品同様とは言えないものの、充分な空間が確保されている樹の愛車であればメデューサも入ることができる。
樹は呼吸を整え、気持ちを落ち着かせ、振り向いてメデューサを見つめた。
「あと二時間ほどで交代の警備員が到着します。そしてら僕の今日の仕事は終わりです。それまでこの中で待っていてください」
「この中で……」
「少し狭いと思います。でも、今の僕にはこの方法しか……」
本当にこの方法しかないのかもう一度考えてみるが、下半身も合わせて5メートルはあろうメデューサを隠せる場所なんて検討も付かない。ましてや、人がいる中を見つからずにメデューサを連れて歩くなんて無理だ。
「わかりました……ただ……ひとつお願いがあります」
「お願い?」
「か……鏡に私が映らないようにしてください」
メデューサは車内のルームミラーとサイドミラーを指差した。その手は微かに震え、メデューサの表情も少し強ばっている。
樹は何も言わず、サイドミラーを力ずくで折り畳み、ルームミラーもメデューサが映らない明後日の方向に向けた。
「あ、ありがとうございます」
樹は後部座席のドアを開け、メデューサを中に誘った。メデューサは少し躊躇いながら一度樹に視線を向けた。メデューサ本人は目を閉じて、代わりに頭の蛇の視線が樹に降り注ぐ。不安なのだろう。だから、樹にはメデューサが安心できるように微笑むことしかできなかった。
メデューサは小さく頷き、車内に入った。体長の半分以上を占める下半身は折り畳み、なんとか自動車に収納することができた。それでもだいぶ窮屈そうだった。
「窮屈じゃないですか?」
「だ、大丈夫です……」
「体制が辛いときは変えてください。でも、見つからないように気をつけてください」
「わかりました」
「では、また後程……」
樹は最後に車の窓を少し開けて風通しを良くしてから美術館に戻った。
彼が目を覚ました時、見慣れた守衛室の天井が目覚めを出迎えた。自分は何故ここにいるのか考えた。
夜の見回りを終え、休憩のために守衛室に戻ってきた。そこまでは確実だ。徐々に意識が薄れていき、眠りに付いた瞬間だった。頭を鈍器で殴られたような衝撃が襲い、目を覚ましたのだ。それからの記憶が曖昧だった。寝ぼけているせいなのか、とにかく思い出せない。何か重大なことが起きたような気がする。
不意に視界に時計が見えた。時刻は既に休憩の交代時間を過ぎている。
「ああ、しまった……」
寝ぼけた頭で起き上がり、守衛室を見渡すが、樹の姿が無い。
「そうだ。あいつ、石像を……」
寝ぼけている頭が急激に目覚めた。走馬灯のように鮮明に思い出す。粉々に砕け散ったメデューサの石像と青ざめた樹の顔。だが、今一つ何かが足りない。だが、そんなことはどうでもいい。重大なのは樹が石像を壊した事実だ。
彼は走ってメデューサの石像に向かった。そこに樹もいる。
しかし、石像の前にいたのは何事もなく石像を観賞する樹だった。彼の記憶では粉砕したはずの石像も傷ひとつ無いいつも通りの不気味な石像が立っている。
「あれ、先輩。もう起きたんですか?」
「あ、いや、もうとっくに休憩の交代時間が過ぎていたからな」
「え?もうそんな時間ですか?気付きませんでした。じゃあ、少し休憩に入りますね」
「あ、ああ……い、いや、樹、待て」
「はい、なんですか?」
彼は言葉を出そうと口を動かすが、何を言う訳でもなかった。
「悪い……なんでもない」
彼は納得いかない様子で自分の業務に戻った。業務と言っても、残った時間をただただ貪るだけだった。