笑顔が可愛い
「ペルセウス!!よくも私を騙しましたね!!石化して………や………」
メデューサは怒りに我を忘れていたが、目の前にいるのが見たこともない精巧な作りの衣を纏った見知らぬ"子供"なのに気が付いた。子供は自分に怯えて目を閉じている。
メデューサはどこぞの国の王子だろうかと思案しつつ、自分がどこの王子かも知れない子供に襲い掛かっている現状に気付き、冷静さを取り戻した。
メデューサは目を閉じて、ゆっくりと樹から離れた。
「高貴な衣を纏った貴方は、さぞや名の有る国の王族の方とお見受けします。突然のご無礼、大変申し訳ありません」
メデューサは厳かに頭を垂れた。
樹自身はというと、鯉みたいに目を丸くして、鯉みたいに口をパクパクとさせていた。随分マヌケな表情だ。
その時、離れた所から床を叩く乾いた音が近づいてきた。その音で樹は我に帰った。近付いてくる音は間違いなく先輩の足音だ。そして、現状は展示品のメデューサの石像が砕け散り、石像からは本物のメデューサが現れたのだ。なんと説明するか、どう対応すればいいのか考えるが、頭が真っ白になってしまって何も思い付かない。
「お困りのようですが、どうしましたか?」
目を閉じたメデューサがどうやって樹の様子に気付いたのかは、この際どうでもいい。
「いや、えっと………と、とにかく隠れて!!」
「え?」
「早く!!」
樹はメデューサの体を押して、壁の陰に隠した。とりあえず先輩の死角になっているため、すぐには見つからないだろう。
その直後、先輩が現れた。先輩は絶句し、樹を睨み付けた。
「何をやった?触ったのか?」
普段はヘラヘラして、アルバイト自体に緊張していた樹にフレンドリーに接していた先輩の面影は無い。大きな音を聞き付けて現れてみれば、展示品が粉々に砕け散っているのだから当たり前である。
「す、すみません!!」
樹はただ謝るしか出来ない。突然、石像から本物のメデューサが現れたなんて言っても信じてもらえる訳がない。これでバイト代は無くなり、おそらく器物破損なんかで刑務所行きも確定だろう。先輩の怒号も右の耳から入って、左の耳から抜けていった。
「とにかく……館長に連絡しないと……ああ、俺もクビかなぁ……」
先輩はポケットからスマートフォンを取りだし、館長へ連絡をしようとした。その瞬間、先輩の様子が一変した。表情が目に見えて青ざめていく。樹は慌てて振り向くと、先輩から見えない所に隠したはずのメデューサが姿を見せていた。先輩は絶句し、鯉みたいに口をパクパクとさせていた。
「うるさい、子ネズミですね」
メデューサは先輩に迫り、頭の蛇が威嚇するように乾いた声で唸っている。そして、メデューサ自身は目を見開こうとした。
「ダメだ!!」
メデューサはルビーのような美しい紅い瞳を見開き、先輩を睨み付けた。しかし、先輩はメデューサと目が合う寸前に気絶していて、メデューサの目を見ることはなかった。代わりにメデューサと目を合わせたのは、先輩を庇って両者の間に立った樹だった。
半べそをかきながら、石化がどのように進むのか考えた。痛みはあるのだろうか。どれくらいの速さで、どこから石化していくのだろうか。意識はどうなるのだろうか。恐怖で石化したように体が硬直した。
しかし、メデューサの紅い瞳と見つめ合い、三秒が過ぎ、五秒が経ち、十秒を過ぎた頃にようやく樹もメデューサも異変に気付いた。
「「あれ?」」
異変。それは樹にとっては自分が石化しないこと。メデューサにとっては目の前のどこぞの王族と勘違いしている樹を石像出来ないことに戸惑った。
「お、おかしいですね……そんなはずは……」
メデューサは魔法を発動させようと目に意識を集中させる。しかし、樹を石化させることが出来ない。
「そ、そんな……」
メデューサは酷く動揺した。一方の樹は石化していないことへの安堵から腰が抜けて、その場に座り込んだ。心臓が破裂しそうなくらい脈打ち、全身が酸素を求めた。
「何故です!?何故石化出来ないのですか!?」
樹が呼吸を整える間、メデューサはひたすら取り乱していた。
呼吸を整えた樹はメデューサに歩み寄った。
「あの……メ、メデューサさん……?とにかく一旦落ち着きましょう。ここに椅子があるので座っていてください」
メデューサは樹に誘導されるまま、石像を観賞するために用意された椅子に腰を下ろした。
「僕は一度先輩を連れて行きます。戻ってくるまで、ここで待っていてくださいね」
先輩は気絶しているが、脈や呼吸はしっかりしている。樹は医療の知識は持っていないが、おそらく大丈夫だろう。
先輩を守衛室に寝かせてメデューサの所に戻ると、まだ納得していない様子のメデューサが椅子に座っていた。
樹はメデューサに歩み寄った。石像だった時とは違い、自分の理解を超えた事態に戸惑っている表情はどこか人間味を感じる。
「メデューサ……さん」
「はい、なんでしょう?」
何気無く二人の視線が重なった。しかし、やはり石化は起きない。
「なんで……?どうして……?」
「メデューサさん、とにかく落ち着きましょう。
あ、そう言えばまだ自己紹介していませんでしたね……僕は樹。夏川樹です」
「イツキ……様?」
「様を付けるような身分じゃないです。僕はただのアルバイト……いや、召し使いみたいなものです」
どの言葉を用いれば適切か、どういう言い回しをすれば理解しやすいか注意しながら反応を伺った。
「えっと……ここは日本という国です」
「ニホン?聞いたことが無い国です」
「その割に、日本語、僕達の言葉がお上手ですね」
「私達、神々の言葉はどの国でもどんな言葉でも通じるのです」
「それは便利ですね。あ、お隣座っていいですか?」
メデューサは少し横にズレて樹が座るスペースを作り、樹がそこに収まった。端から見れば不思議なツーショットだ。
「さて…………どこから手を付けよう……やっぱり、先ずはメデューサさんの石化のことでしょうね。何か石化出来なくなる原因に心当たりは?」
「何もありません……魔力もあるんですけど……」
さっきまで威嚇するように唸っていた蛇の髪はすっかり項垂れ、主を心配そうに見つめている。
「他に何か出来ますか?」
「他に?」
「例えば…………この石像の破片を元に戻すとか……」
「やってみます」
メデューサは目を閉じて意識を集中させると、塵のように細かく粉砕された破片から大きい破片まで一つ残らず破片が宙に浮いた。そして、立体パズルが組上がっていく様を早送りで見るように、メデューサの石像は元通りに復元された。亀裂も欠ける部分も無く、完璧な状態だった。
「す、凄いですね!!」
その様子を見た樹は本物の魔法を目の当たりにした感動とメデューサを利用してしまった後ろめたさを感じた。
「まあ、これくらいでしたら……」
雑談をしたお陰か、メデューサの様子が落ち着いたようだ。石化していた時の表情と違って、女神だっただけあり、やはり美人だ。メデューサは行儀よく大蛇の下半身を折り畳んでいる。
沈黙が訪れた。樹の脳内では今後の対応を検討することでいっぱいである。先輩は気絶しているとはいえ、このままでは引き継ぎの警備員が出勤してしまう。美術館の学芸員の人も現れたら手に負えない。
「あの……メデューサさん……提案なんですけど…………」
無数の蛇と目を閉じたメデューサが樹に視線を向けた。
「良ければ、この後、僕が住んでいる場所に来ませんか?」
樹は決して特殊な性癖を持っている訳ではなく、やましい下心も持たず、ただ単純にメデューサを助けたい一心で提案した。断られる可能性は否めない。しかし、メデューサをこのままにしておく訳にはいかない。放置したらどんな酷い目に遭うかわからない。殺処理。解剖。拷問。見世物。現代はメデューサには生きにくい世界になってしまっている。
樹の思いを察してくれたのかメデューサは微笑んだ。
「では、お言葉に甘えてお邪魔させてもらいます」
思った通り、笑顔が可愛すぎて、樹の心臓は蛇に締め付けられたように苦しくなった。