01-G
やがて落ち着きを取り戻したお母様は、ハンカチで涙を拭いながら語り始めた。
「……全て、私が悪いの。私がもっと強ければ、あんな過ちは犯さなかった」
ハンカチを持つ手を下ろし、向かいに座る私の目を、その真っ赤になった目で見つめるお母様。
「あの人にどこまで聞いたのかはわからないけれど、ヴァレリアーナが生まれてからは、私たち夫婦の関係は変わってしまった」
国王も言っていたけど、それはつまり、……そういうことをしなくなったということ、だよね?
「結婚する前から、あの人はとても子供を欲しがっていらっしゃった。だから、跡継ぎとなるシルヴァーノが生まれた時は、それはそれは喜んでいらっしゃったわ。もちろん、ヴァレリアーナが生まれた時もね」
「……」
「若くして王位をお継ぎになったあの人は、毎日のように公務に追われ、忙しい日々をお過ごしになっていた。それでも、2人の子供の教育には手を抜かれることはなかったわね。母親である私や、もしかしたら世話役の使用人たちよりも、熱心だったかもしれない」
淡々と、昔を懐かしむでもなくただ事実を語るように、静かな口調のお母様。
けれど、その眉間が寄り、頬が歪んでいく。
「……私だってあの子たちの親なのに、子供なのだから、たくさん遊ばせてあげたかったのに、あの人は、私のやることなすこと全部否定して……!」
お母様は俯き、怒りに耐えている様子だ。
「次第に夫婦の会話が無くなっていっても、あの人は全く気にされる様子も無かった。毎日毎日、公務に子育て。私のことなんて、一緒に食事をしていても気付かないくらい視界に入っていなくて……。結局、あの人にとって私は、子を成すための道具に過ぎなかったのよ」
再び、その目から涙が流れていく。
「……でも、だからといって――」
「わかってる。わかっているわ」
私の言葉は、強い口調で遮られた。
「……わかってる。それでも私は、耐えなくてはならなかった。どれだけ気に留められなくとも、私は妻として王妃として、あの人と共にあらねばならなかった。……でも、どうしても耐えられなかったのよ」
お母様の気持ちは、わからなくもない。私も、国王に酷い扱いを受けていたから。
でも……。
流れ行く涙をハンカチで拭い、大きく息を吐いた後、お母様は話を再開する。
「……ある日私は、使用人を連れて、気分転換に城の外へ出かけたの。もちろん、王妃だとわからぬよう変装をしてね」
ここからだ。私が聞きたかったのは、この先の話だ。
「外を散歩するだけでも、鬱屈としていた心は癒やされたわね。特に何をするでもないのだけれど、あんなに晴れやかな気分になったのは久しぶりだったわ」
その時のことを思い出すように、お母様の表情は若干和らいでいるように見えた。
「しばらくして、使用人に城へ戻るよう言われてね。仕方なく帰路についた私は、偶然、ある方と再会を果たしたの」
「ある方……?」
もしかして、その人が……?
「その方はね、私がまだあの人と出会う前、まだお屋敷に住んでいた頃に、私の護衛として雇われた傭兵だった」
傭兵……。
「数年ぶりに再会したあの方は、以前より強く逞しくなられていて、……お屋敷で毎日のようにお会いしていたあの頃の気持ちが、一瞬にして蘇ったわ」
「あの頃の、気持ち?」
問うと、お母様は照れ臭そうにもじもじしだす。
「……実はね、その方、私の初恋の人だったの」
「えっ?」
驚く私に、お母様は慌てる。
「も、もちろん、そういう男女の関係にはなってないわ。私の片想い。1年ほどでほかの仕事のために護衛を辞めてしまったあの方とは、もうお会いすることはないと思っていた」
……だけど、会ってしまったわけだ。
「私は変装していることも忘れて、あの方を呼び止めていた。始めこそ戸惑っておられたけれど、すぐに私のことを思い出して下さったわ。もう一生お会いできないと思っていたから、心の底から嬉しかった」
そう言うお母様は、まるで少女のように瞳を輝かせている。
「その日は、暗くなるまで2人でお話したわ。そして別れ際、またお会いしましょうと約束をしたの」
やっぱり、その傭兵が、私の……。
「それからも、私はあの方にお会いするために、度々外出を続けた。彼はしばらくカランカに滞在していたから、いつだって会うことができた。でも、そんなことを繰り返す内、城内ではある噂が流れるようになっていたの」
「噂?」
「ええ。あの人と私が不仲なのではないかという噂よ。実際その通りだったのだけれど、そうだと正直に言う訳にはいかないからね。あの人とは、あの時久しぶりに口を利いた気がするわ。外へは行くなと、釘を刺されただけだったけれどね」
お母様の表情は、再び暗くなっていた。
「……あそこで、やめておけば良かった。でも、自分の欲望を抑え込むことができなかったの。あの方と過ごす時間。あの幸せをもう味わうことができないなんて、とても耐えられることではなかった」
「また、お会いしに行かれたのですか?」
私の問いに、お母様は「ええ」と頷いた。
「忘れもしない、19年前のあの日。私たちは、もう会わない約束をした。あの方も、別の場所へ行くことが決まり、いずれにせよ、あの日がお会いできる最後の日だったからね」
「もしかして、その日……」
「……ええ。いつものように、夕方にはお別れするはずだった。でも、これでもうお会いできないと思ったら、もうどうにも耐えられなくて……。それで私は、ワガママを、言ってしまった」
お母様はゆっくりと両手で顔を覆い、身体を丸めていく。
「……幸せだった。あの方とのたった一度の夜は、あの人と過ごしたどんな夜よりも満たされたの」
顔を覆っていた両手が、お母様の身体を抱き締めていく。
「いくらでも軽蔑してちょうだい、フランチェスカ! 身勝手で、見苦しくて、醜く汚らしいこの母親をっ!」
そして突然上げられたその顔は、本当に醜かった。
泣いて崩れていたからではない。
ただ、心底失望した。ただただ、気持ちが悪かった。
あんなに好きだったお母様は、もういない気がした。
目の前にいるのは、そう、ただの女だ。
夫や子がありながら別の男性と関係を持ち、あまつさえ、そこに幸せを見出した、汚らしい女。
……お父様。私はもう、あなたを責めることはできません。
「もう、行きます」
立ち上がり、ドアへと向かう。すすり泣く母の声が、忌々しくも耳朶を震わせる。
歩を止め、振り返らずに口を開く。
「その傭兵のお名前を、お教え下さい」
これだけは聞いておかなければならない。怒りと失望で、忘れるところだった。
「ご安心下さい。お父様にも、ほかの誰にも、今日聞かせていただいたことを話すつもりはありませんので」
答えを待つ。
やがて、母は返答を口にした。
酷く掠れて聞きづらい声だったけれど、私の耳には、その名がはっきりと届いていた。
思わず、振り返る。
「――え?」
螺旋階段を下り、塔を出ると、外で待っていたお兄様が声をかけてきた。
けれど私は、「ええ」とか「はい」などの生返事しかできなかった。お兄様は何かを言っていたけれど、私の頭は理解していない。
頭の中では、母が言った名前だけがぐるぐると回っている。
…………嘘でしょう?
こんなこと、……あるの?
馬車に乗り、駅に着いてもまだ、私はぼんやりとしていた。
だけど、汽笛の音を聞いて、目が覚めるように意識が明瞭とし始める。
「お兄様」
隣に立つお兄様が、「ん?」とこちらへ顔を向ける気配。
「明日、少し出かけます」
「仕事かい?」
「いいえ。……少し、行きたい場所があるのです」
「そうか、わかった。あまり、遅くならないようにな」
その言葉に「はい」と返し、ホームに入ってくる汽車を見やる。
……確かめなくては。
あの方に会って、直接……。
――第二王女の真実 END――
フランカ編は、これで終了です。