01-D
ドアから続く短い通路。その先に広がる部屋に、お父様がいる。
……確か、ベッドは右手にあったよね。
「どうした、シルヴァーノ。何をしている」
訝しげな声が、私の鼓動をさらに激しくさせる。
立ち止まっていては駄目だ。進まなければ、何も始まらない……!
足が、動く。
前へ、前へと。
そしてついに、私の姿がお父様の視界に入る位置まで進み出た。
「……誰だ?」
戸惑いの声。私は意を決し、ベッドの方を向く。
「! ……」
誰だと問いたいのは、私の方だ。
質の良い綺麗で大きなベッドの上で上体を起こし、私を凝視する白髪白髭の男性。
痩せ細った顔、細い枝のような身体。
そこには、私の知るお父様の面影はほとんど無い。
かろうじて、相手を威圧するような強い眼力だけは残っているように見えたけど、それだけだ。
……病とは、ここまで人の姿を変えてしまうものなのだろうか。
「おい、シルヴァーノ! この娘は何者だ!」
「……お兄様は外にいらっしゃいます」
そう言うと、お父様はハッとしたように目を見開いた。
「その声。……まさかお前、フランチェスカか?」
「……はい。お久しぶりです。お父様」
メガネを外し、服の胸ポケットに入れる。
2年数ヶ月ぶりに、お父様と言葉を交わした。
……無言。お父様は何も言わずに私を見つめている。いや、睨んでいる。
やがて、その顔に歪んだ笑みが浮かんでいく。
「何をしに戻ってきた。弱った私を笑いにでも来たか」
お父様は私から目を逸らし、窓の外を見る。
「違います。……お父様にお聞きしたいことがあって参りました」
「聞きたいこと、だと?」
再び、責めるような視線を私へ向けるお父様。
「一つだけです。そのお答えをいただけたら、すぐにでもここを去ります」
お願い。拒絶しないで……!
私に嫌悪の混じった視線を送っていたお父様は、しかし若干、表情を緩めた。
「……まぁ、いいだろう。言ってみろ。何を聞きたいのだ」
いくつか嫌味の言葉でもかけられると思っていたから、その返答は予想外だった。
……よし。お父様の気が変わらないうちに済ませよう。
「……お、お父様は、なぜ私を、お兄様やお姉様と同じように愛して下さらなかったのですか? なぜ、あ、あのような扱いを……」
手足が、身体が、震えている。
お父様と対峙しているだけで、思い出す。
お父様に言われたこと、お父様にされたこと。その全てを。
必死に忘れようとしたのに、いつまで経っても一向に消えてくれない記憶。
思わず、歯がギリリと鳴った。
「なんだ。そんな下らないことを、わざわざ聞きに来たのか」
溜め息混じりの、呆れたような声。
下らないこと、だって?
何を……!
噴き出す怒りを必死に抑えていた私に対し、お父様は返答の口を開いた。
「お前を愛さなかった理由など、酷く単純で、当然で、そして常識的なものだ」
「?」
お父様の口の端が、わずかに上がる。
「……このようなこと、広まってはマズイ。そう考え、今まで黙っていた。だが、お前が城を出て行くのなら、もっと早くに伝えておいても良かったかもしれんな。お前だけには」
「え……?」
「そうしておけば、お前とこうしてまた会うことも無かっただろうに。……失敗したな」
一体、どういう……。
「フランチェスカ。お前は、私の本当の娘ではない」
……私を睨みつけるお父様が何を言っているのか、すぐには理解できなかった。
「…………ぇ」
今、なんて言ったの?
本当の娘じゃ……ない?
「お前に私の血は、いや、王族の血は一滴たりとも流れてはいないのだ」
「え……」
「お前は、王女でもなんでもない!」
「――!」
突きつけられた真実は、すぐには信じられないものだった。
だけど、じょじょに染み渡っていくその言葉が、私の心を納得させていく。
なるほど、そういうことか、と。
……そして、同時にある疑問が浮かぶ。
「理解できたか? 自分が愛されるわけがないということを」
理解はできた。
だけど……。
「お父様の本当の娘でないのなら、私は一体、誰の娘なのですか。どういうことなのですか?」
お父様が私の本当の父親でないのなら、本当の父親が別にいるということになる。
そしてそれは、私にもう一つの重大な事実を教えていた。
「質問は、一つだけだったはずだが?」
「お願いします! お聞かせ下さい! それだけでは、ここへ参った意味がありません!」
するとお父様は、「ふん」と鼻を鳴らした。
「……本当に、それを聞くためだけに来たようだな」
「え?」
「まぁいい。教えてやる。……だが、もう答えは出ているのではないか? お前はもう子供ではない。わかるだろう? どういうことなのか」
そんなこと、私の口からはとても言えない。
「……お前は、ステファニアが不貞をはたらいてできた子供だ」
そんな、そんな馬鹿なこと……。
「信じられないか? だが事実だ。ほかでもない、ステファニア本人がそれを認めているのだからな」
「えっ?」
お母様が……?
「ヴァレリアーナが生まれて以降、私たち夫婦の間でそういうことは無くなっていた。私は公務で忙しかったし、子育てにも手を抜きたくはなかったからな。余計なことに体力を使っている場合ではなかったのだ」
確かにお兄様の話では、どれだけ公務に時間を取られようと、お父様はお兄様たちに対する躾や教育を人任せにすることはなかったようだけれど……。
「だがステファニアは、また新たに子を孕んだ。これがどういうことなのか、わかっていたのは私と、ステファニア本人だけだった」
お父様は、忌々しげに歪んでいた頬をさらに歪めた。
「人払いをし、あいつに腹の子の父親は誰かと問いただした。だがあいつは、決して口を割ろうとはしなかった。それを言えば、私がその者に何をするかわからないと恐れたからだろう」
お母様は、その人を守ろうとしたのか。
「ステファニアの心は、すでに私には無い。そう確信した私は、あいつを離れに移した。二度と顔も見たくなかったからな」
私の母ステファニアは、私が産まれた時にはすでに、城から長い廊下で繋がる離れで暮らしていた。今もそうだ。
その理由が、これだったなんて……。
「王妃が不貞をはたらいたことなど、知られるわけにはいかない。王族のイメージが悪くなれば、シルヴァーノやヴァレリアーナの生活にも支障が出る。だから私は、その事実を自分の胸の中だけにしまっておくことにしたのだ」
言葉が、何も出てこなかった。頭の中が真っ白だ。
「そうして数ヶ月後、お前が産まれた。その頃には私も、考えを改めようとしていた。他人の子であっても、王族として育てるのであれば情も湧くはずだと」
お父様は私の目を見て、……冷笑を浮かべた。
「だが、無理だった。そして悟ったのだ。親は自分の子以外を愛することはできないと。ほかの親もそうだろう。自分の子と他人の子、どちらも平等に愛せる親など、そうはいまい」
冷たい笑みを崩さぬまま、お父様は言葉を続ける。
「まして、お前は妻の不貞で産まれた子だ。愛情など、芽生えるはずもない」
そこまで言って、お父様は再び窓外へと目を移した。
私は何も言えず、その場に立ち尽くすしかなかった。