今世こそ守られる令嬢になりますわ
「神様……ありがとうございます。今世こそ、わたくしは守られる側になりますわ」
鏡の前で、私は本気で泣いた。
白い肌。細い手首。金色の髪。長い睫毛。レースの寝間着からのぞく、触れれば折れそうな肩。
前世の私には、ひとつもなかったものばかりだ。
前世の私は、格闘技ジムのトレーナーだった。
名前は、早乙女すみれ。
名前だけは花のように可憐だったが、現実の私はまったく違った。短く切った髪、低めの声、筋肉のついた肩。握れば瓶の蓋が悲鳴を上げ、二十キロのプレートを軽そうに運び、会員さんがよろければ反射で腰を支える。
女性会員からは、なぜか「王子」と呼ばれていた。
「すみれさん、かっこいい!」
「すみれさんに守られたいです!」
「すみれさん、男より頼りになります!」
そのたびに、私は笑った。
ありがとう、と。
でも心の中では、いつも思っていた。
違う。
私は、守りたいんじゃない。
守られたい。
壁際に追い詰められて、王子様にそっと手をつかまれたい。階段でつまずいて、「大丈夫?」と抱き止められたい。重い荷物を持とうとして、「君は座っていて」と微笑まれたい。
お姫様抱っこを、したいのではない。
されたい。
なのに現実は、ジムの器具を運び、倒れた棚を支え、酔った後輩を三人まとめてタクシーまで担いだ。飲み会の帰り道で後輩が「すみれさん、彼氏力高すぎます」と言った夜、私は家に帰ってから乙女ゲームの王子ルートを泣きながら三周した。
仕事から帰ると、鍵を閉める。ふわふわの部屋着に着替える。ベッドの上には白いくまのぬいぐるみ。棚には乙女ゲームの限定版。机の上には推し王子のアクリルスタンド。
誰にも見せられない、私だけの王国だった。
画面の中の令嬢は、細い指で紅茶を持っていた。王子様に名前を呼ばれて、頬を染めていた。危ないところを助けられて、涙ぐんでいた。
私はコントローラーを握りながら、いつも思っていた。
一度でいい。
一度でいいから、私も可愛い女の子として扱われたい。
最後の日も、私は守る側だった。
ジムの備品棚が倒れた。下には、体験に来ていた小さな女の子がいた。考えるより先に、身体が動いた。
踏み込む。腰を落とす。肩を入れる。受け止める。
女の子は助かった。
私は、助からなかった。
最後に聞こえたのは、誰かの泣き声だった。
「すみれさん、かっこよかったです」
違う。
そう思いながら、私の前世は終わった。
そして今。
私は、鏡の中の少女を見ている。
リリアーナ・ローゼンリヒト。
乙女ゲーム『星花の誓いと白銀の王子』に登場する、公爵家の令嬢。将来、王太子アルフレッド殿下の婚約者となり、平民出身のヒロインに嫉妬し、意地悪を重ね、卒業記念舞踏会で断罪される悪役令嬢である。
そこまでは知っている。
知っているけれど、今の私にはそれより大切なことがあった。
「細い……」
私は、自分の手首をそっと持ち上げた。
細い。
本当に細い。
前世の手首は、鍛え上げられた実用品だった。ダンベルを握るための手首。グローブを締めるための手首。相手を支えるための手首。
今世の手首は違う。
レースの袖からのぞく、白くて細い、いかにも令嬢の手首だった。
「これが……守られる側の手首……」
私は泣いた。
五歳児の身体で、真剣に泣いた。
その日から、鏡の前での確認が日課になった。
朝起きて、まず鏡を見る。
「まあ……今日も睫毛が長いですわ」
横を向く。
「頬が、丸い……! 可憐……!」
手首を持ち上げる。
「うふふ。細い。細いですわ、リリアーナ。あなた、今日も守られる気満々ですわね」
くるりと回ると、寝間着の裾がふわりと揺れた。私は胸の前で手を組む。
「可愛い……!」
自分で言うのもどうかと思う。
だが、前世では誰も言ってくれなかったのだから、今世では自給自足しても許されるはずだ。乙女の自己肯定感は、朝の鏡から育つのである。たぶん。
私は鏡の中の自分に、にこりと微笑んだ。
「今日も一日、か弱く参りましょうね」
鏡の中のリリアーナも、当然にこりと笑う。
勝った。
何に勝ったのかは分からないが、毎朝勝っていた。
今世こそ、か弱く、可憐に、愛らしく生きる。誰かを守るのではなく、誰かに守られる。王子様に手を引かれ、重いものを持たず、危ないことには近づかず、困ったときは「怖いですわ」と言う。
夢に見た乙女人生の開始である。
まずは練習が必要だった。
「きゃっ」
私は鏡の前で言った。
声が高い。前世では無理をしても出なかった音域だ。
「きゃっ、怖いですわ」
胸に手を当て、半歩下がる。
いい。
かなりいい。
少なくとも、前世の「おっと危ない、下がってください」より百倍かわいい。
次は、よろめく練習だ。
令嬢たるもの、よろめき方も重要である。ただ倒れるのではない。儚く。小鳥のように。守りたくなる角度で。できれば、近くの王子様が自然に手を伸ばしたくなる程度に、絶妙な危うさを演出する必要がある。
私は鏡の前で、そっと膝の力を抜いた。
その瞬間。
身体が勝手に受け身を取った。
足裏が床をつかみ、膝が衝撃を逃がし、体幹がまったくぶれずに私を支える。
私は一ミリも倒れなかった。
「……」
おかしい。
もう一度やる。膝の力を抜く。今度こそ倒れる。
と思った瞬間、前世の身体操作が自動で発動し、私はしなやかに重心を戻した。
鏡の中のリリアーナは、完璧な姿勢で立っていた。
美しい。
美しいが、違う。
「リリアーナ。あなた、どうしてそんなに安定していらっしゃるの……?」
私は床に座り込んだ。
今世の私は、見た目だけなら可憐な幼女だ。肩も丸い。腕も細い。太ももも、前世のように「丸太」と陰で呼ばれたりしない。
なのに、身体の使い方だけが前世のままだった。
重心管理。踏み込み。受け身。姿勢制御。力を逃がす角度。相手のバランスの読み方。十年以上、格闘技とトレーニングで叩き込んだものが、魂に染みついている。
私は悟った。
外見は乙女。
中身のOSが筋肉。
神様。
そこは初期化してほしかったです。
それから私は、慎重に暮らした。
重いものには触らない。走らない。跳ばない。誰かがよろけても、なるべく乳母に任せる。紅茶カップは両手で持つ。扇子は優しく持つ。ドアは侍女に開けてもらう。階段はゆっくり降りる。
努力した。
努力したのだ。
しかし前世の筋肉OSは、油断したときに顔を出した。
六歳の春。
朝の支度中、侍女のアンナが髪飾りの箱を開けていた。
「うふふ。清楚……。これは清楚ですわね、アンナ」
「はい。とてもお似合いでございます」
「こちらの薄桃色は?」
「愛らしゅうございます」
「まあ……困りましたわ。清楚と愛らしさが、わたくしの上で争っていますわ」
前世では、髪飾りを選ぶ時間などなかった。汗をかいても邪魔にならない短髪。黒いジャージ。動きやすい靴。実用品だけで構成された生活。
それが今はどうだ。
白か薄桃色かで悩める。
これを幸福と呼ばずして、何を幸福と呼ぶのか。
そのとき、アンナの手元から髪飾り箱が滑った。
小さな宝石飾りやリボンが床に散らばりそうになる。
私は「きゃっ」と言う予定だった。可憐に驚き、アンナが拾うのを待つ予定だった。
だが、身体はすでに動いていた。
箱の落下角度を読む。中身が飛び出す前に底を支える。反対の手で蓋を押さえる。リボン一本だけが浮いたので、指先で絡め取る。
完璧なキャッチだった。
宝石飾りは一つも落ちなかった。
アンナが固まる。
私は箱をそっと差し出した。
「……び、びっくりしましたわ」
遅い。
びっくりする前に全部取っている。
アンナは震える声で言った。
「お嬢様、なんてお優しい……! 私の失敗を、なかったことにしてくださるなんて……!」
違う。
そこではない。
可憐さはどこへ行ったのか。
その日からアンナは、私を見る目が少し変わった。守る対象ではなく、尊敬する対象を見る目になった。
やめてほしい。
七歳の夏。
運命の日が来た。
王宮で開かれる、子どもだけのお茶会。そこで私は、初めてアルフレッド王子と会うことになった。
アルフレッド・グラン・アルディス。
乙女ゲーム『星花の誓いと白銀の王子』のメイン攻略対象。金髪碧眼。将来は白銀の王子と呼ばれる、完璧な王太子。前世の私は、彼のルートを何周もした。隠しスチルも見た。好感度選択肢も暗記した。推し王子のアクリルスタンドは、机の一番いい場所に飾っていた。
その王子様が、今、目の前にいる。
「初めまして、リリアーナ嬢」
小さな王子が微笑んだ。
まだ子どもなのに、もう王子様だった。金の髪が光を受け、青い瞳がやわらかく細められる。白い手袋に包まれた手が、私に差し出される。
「君に会えるのを楽しみにしていた」
心臓が止まるかと思った。
王子様。
本物の王子様。
画面越しではない。
私に向かって、手を差し出している。
私が、手を引かれる側になれる。
前世のすみれ、見ていますか。
あなたは今、勝ちました。
「お、お初にお目にかかりますわ、アルフレッド殿下」
私は震える手を差し出した。小さな手。白い手。令嬢の手。
王子の手が、それを取る。
その瞬間、私は舞い上がった。
王子様に手を握られている。守られる側への第一歩。夢にまで見た瞬間。
嬉しくて、嬉しくて。
私は、ほんの少しだけ握り返した。
「っ」
アルフレッド殿下の顔色が変わった。
え?
私は慌てて手を離した。
「で、殿下?」
王子は微笑んでいた。
だが、その微笑みは少し震えていた。
「リリアーナ嬢は……情熱的なんだね」
情熱的。
乙女ゲームで聞いたことのある言葉だ。イベントCGの前に出てくる、甘い台詞の一種では?
私は頬を染めた。
「まあ……」
アルフレッド殿下は、そっと右手を背中に隠した。
私は気づかなかった。
その手が、小刻みに震えていたことに。
お茶会は夢のようだった。
小さな銀の匙。花柄のカップ。甘い焼き菓子。王子様の隣の席。
私は可憐な令嬢として、上品に紅茶を持ち上げた。
両手で。
落とさないように。
力を入れすぎないように。
今度こそ、完璧だった。
「リリアーナ嬢は、紅茶が好き?」
アルフレッド殿下が尋ねた。
「はい。甘い香りが、とても素敵ですわ」
言えた。
令嬢らしい。
今の私は、完全に乙女。
そのとき、近くにいた別の令嬢が、緊張でカップを取り落としかけた。白い磁器がテーブルの端から滑り落ちる。熱い紅茶が、アルフレッド殿下の膝にかかる位置だった。
考えるより先に、身体が動いた。
手首の角度を読む。落下地点を予測する。最短距離で手を入れる。
私はカップを空中で受け止めた。
中身もこぼさずに。
完全捕球。
会場が静まった。
私は、カップをそっと令嬢に返した。
「お怪我はありませんか?」
令嬢は目を潤ませた。
「リリアーナ様……!」
アルフレッド殿下が、ぽつりと言った。
「すごい反射神経だね」
違います。
これは反射神経ではなく、前世の職業病です。
私は必死に微笑んだ。
「たまたまですわ」
王子は少し考えたあと、優しく言った。
「でも、ありがとう。僕も助かった」
その言葉に、私は胸を押さえた。
王子様から、ありがとう。
私は守られたかったはずなのに、また守ってしまった。
でも、王子様にお礼を言われた。
これは負けなのか。
勝ちなのか。
判断が難しい。
それから数年、私は可憐な令嬢として成長するために努力を続けた。
扇子の持ち方。歩き方。お辞儀の角度。微笑み。困った顔。小さく驚く仕草。王子様に手を引かれたときの、控えめな頬の染め方。
どれも練習した。
練習相手は、もちろん鏡である。
「きゃっ。殿下、ありがとうございます」
鏡の前で、私は片手を頬に添える。
いい。
実にいい。
「わたくし、怖かったですわ」
これもいい。
かなり守りたくなる。
自分で自分を守りたくなるくらいには、可憐だ。
私は満足して、鏡の中のリリアーナに微笑んだ。
「うふふ。今日も可憐ですわね、わたくし」
問題は、鏡の外に出た瞬間である。
八歳のダンスレッスンでは、アルフレッド殿下にリードされるはずが、彼の重心が一拍遅れた瞬間、反射で私が誘導してしまった。
ダンス教師は感動した。
「リリアーナ様は、相手を導く舞踏をなさるのですね」
違う。
導かれたい。
九歳の乗馬見学では、暴れた白馬を見て、近くの令嬢たちが悲鳴を上げた。
私は怖がる練習をしようとした。
したのだ。
だが、白馬の目が怯えていた。前世で、初心者会員がパニックになったときと同じ目だった。
気づけば私は白馬の前に立ち、首筋を押さえ、低い声で呼吸を合わせていた。
「大丈夫ですわ。吸って。吐いて。そう、よい子です」
白馬は落ち着いた。
馬丁が泣いた。
「お嬢様、この馬が他人に首を預けるなど初めてです!」
違う。
私は白馬に横乗りして、王子様に手綱を引いてもらいたかった。
十歳の庭園では、アルフレッド殿下が花を摘んでくれた。
「リリアーナ、君にはこの白薔薇が似合う」
私は死ぬかと思った。
白薔薇。
王子様。
君に似合う。
乙女ゲームのイベントそのものではないか。
あまりに嬉しくて、私も一輪摘もうとした。
白薔薇は、根ごと抜けた。
土がついた根をぶら下げた私を見て、王子は三秒ほど黙った。
終わった。
乙女終わった。
そう思った。
だが王子は、ふっと笑った。
「リリアーナは、花を大事にしすぎて、根まで見たかったんだね」
違います。
力加減を間違えました。
でも、王子様が笑っている。
私は根つきの白薔薇を抱えながら、真っ赤になった。
その少し後、庭園で少年貴族たちが遊んでいた革球が飛んできた。ちょうど、アルフレッド殿下の顔の高さへ。
普通の令嬢なら、ここは悲鳴を上げる場面である。
私は「きゃっ」と言う予定だった。
言う予定だったのだ。
けれど身体は、半歩だけ前に出た。肩の力を抜き、視線を切らず、革球を手のひらで殺す。
ぱしん。
音だけが、やけに大きく響いた。
革球は、私の手の中で静かに止まっていた。
少年貴族たちが、ぽかんと口を開ける。
アルフレッド殿下も、目を丸くした。
「リリアーナ?」
私は革球をそっと少年たちに返した。
「た、たまたま手の中に落ちてきましたの」
嘘である。
完全に取りにいった。
王子はしばらく私の手を見ていたが、やがてにこりと笑った。
「君がいてくれると、安心する」
安心。
守りたい、ではなく、安心。
惜しい。
とても惜しい。
でも王子様の笑顔が眩しかったので、その日は勝ち寄りの引き分けとした。
十一歳の春。
私は、王宮の小さな温室にいた。
アルフレッド殿下と二人きり。侍女や護衛は少し離れている。温室には春の花が咲き、白いテーブル、小さな椅子、紅茶、焼き菓子、王子様がそろっていた。
完璧な布陣である。
私は今日こそ、守られる令嬢として振る舞うつもりだった。
作戦はこうだ。
少し高い棚に置かれた花の本を取ろうとする。背伸びする。届かない。困った顔で振り返る。アルフレッド殿下が「取ってあげる」と微笑む。
完璧。
私は、棚の前に立った。
「まあ……少し、高いですわね」
予定通り、つま先立ちをする。
ここで届いてはいけない。
絶対に届いてはいけない。
「リリアーナ、取ろうか?」
来た。
王子様が立ち上がった。
私は振り返り、困った顔を作る。
「よろしいのですか?」
「もちろん」
アルフレッド殿下が近づいてくる。差し出される手。近い距離。柔らかな笑顔。
心臓が跳ねた。
このまま王子様に取ってもらう。そして私は「ありがとうございます、殿下」と微笑む。今日は勝てる。
そう思った瞬間、棚の上から小さな鉢植えが傾いた。
なぜ。
誰がそんな不安定な置き方を。
鉢植えは、アルフレッド殿下の頭上へ落ちてくる。重そうな陶器の鉢。当たれば危ない。
考えるより先に、身体が動いた。
足を踏み込む。王子をかばう位置へ入る。片手で鉢を受け止める。もう片方の手で、王子の肩を支える。
鉢の土は、一粒もこぼれなかった。
温室は静まり返った。
アルフレッド殿下は、私の腕の中にいた。
私が、王子を守っていた。
違う。
逆。
完全に逆。
「リリアーナ……」
王子が見上げてくる。青い瞳が近い。
私は真っ青になった。
「ち、違いますの。これは、その、鉢植えが勝手に」
「ありがとう」
王子は静かに言った。
私は息を止めた。
「助かった」
その声は、ゲームの中で聞いたどの台詞より、まっすぐだった。
胸が苦しくなる。
守ってしまった。
また守ってしまった。
でも、王子様が私を見ている。怖がっていない。引いていない。むしろ、少し笑っている。
「リリアーナは、本当にすごいね」
ああ。
まただ。
すごい。強い。頼もしい。
前世と同じ言葉が来る。
私は目を伏せた。
違うのに。
私は、可愛いと言われたいだけなのに。
すると、アルフレッド殿下は少し首をかしげた。
「でも、そんなに泣きそうな顔をするのは、可愛い」
私は固まった。
「……いま、何とおっしゃいました?」
「可愛い、と言った」
「かっこいい、ではなく?」
「うん」
「頼もしい、ではなく?」
「頼もしいとも思うけれど」
王子は、私の手の中の鉢植えを見た。それから、私の顔を見る。
「鉢を受け止めたあとに、可憐に落ち込むところが、リリアーナらしくて可愛い」
意味が分からない。
だが。
可愛い。
王子様に、可愛いと言われた。
前世の私が、何度も夢見て、何度も画面の中でしか聞けなかった言葉。
今世で、とうとう。
私は鉢植えを抱えたまま、頬を押さえた。
「……勝ちましたわ」
「え?」
「いいえ、何でもありません」
その後、駆けつけた侍女たちは、私が王子を守ったことに大騒ぎした。護衛は恐縮した。庭師は鉢植えの配置を謝った。アンナは涙ぐみながら、「やはりお嬢様はお強く、お優しい」と言った。
違う。
私は守られる側を目指している。
だが、私はもう少しだけ鉢植えを抱えていた。
アルフレッド殿下が、ふと私の手元を見る。
「その鉢、重くない?」
私は反射で答えそうになった。
軽いです、と。
前世なら、こんな鉢植えはウォーミングアップにもならない。
しかし今世の私は令嬢。
守られる側。
可憐な少女。
私は少し考え、そっと鉢植えを殿下へ差し出した。
「……少し、重いですわ」
言えた。
自然に言えた。
私の乙女人生は、まだ終わっていない。
アルフレッド殿下は嬉しそうに笑った。
「じゃあ、僕が持つよ」
王子様が、私の鉢植えを持ってくれた。
少し腕が震えている。
だが、持ってくれた。
私は胸の前で手を組んだ。
守られた。
鉢植え限定ではあるが、守られた。
神様。
ありがとうございます。
前世の筋肉OSは、まだ消えていません。
でも今世の私は、ちゃんと可愛いと言われました。
だから、今日のところは引き分けで許して差し上げます。
その日の帰り道。
温室から庭園へ抜ける小道を、アルフレッド殿下と歩いていた。夕暮れの光が花壇の上に落ちている。護衛と侍女は少し後ろ。王子様は隣。私は鉢植えを持ってもらった余韻を、胸の中で大切に抱えていた。
今日は良い日だった。
守った。
でも、守られた。
可愛いとも言われた。
これはもう、実質的に乙女イベント成功と言ってよいのではないか。
そう思ったとき、アルフレッド殿下が私の髪に視線を向けた。
「リリアーナ」
「はい、殿下」
「髪に花びらがついている」
来た。
私は思った。
髪についた花びらを、王子様がそっと取ってくださるイベント。
乙女ゲームで何度も見た。スチルにもなる。背景には花。近い距離。少し照れた王子様。頬を染める令嬢。
完璧だ。
今度こそ、私は何もしない。
ただ、じっとしていればいい。
アルフレッド殿下の手が、私の髪へ伸びる。
私はときめいた。
ときめいたのに、視界の端で手が動いた瞬間、身体が勝手に半歩引いた。
殿下の指先が、空を切る。
「……避けられた」
王子が小さく呟く。
私は絶望した。
「ち、違いますの! これは、その、条件反射で!」
「条件反射」
「ええ。わたくしの中の何かが、近づく手を避けましたの」
「それは……僕の手を危険と判断したのかな」
「違います! 殿下の手は危険ではございません! むしろ歓迎しております!」
何を言っているのだ、私は。
王子は目を瞬かせたあと、楽しそうに笑った。
「では、もう一度」
ありがたい。
神様はまだ私を見捨てていない。
今度こそ動かない。
私は足の裏に力を入れ、全身に命令した。
動くな。避けるな。これは攻撃ではない。花びらイベントだ。
王子様の手が、そっと近づく。
私は震えながら待った。
指先が髪に触れる。アルフレッド殿下が、花びらを摘まむ。
「取れた」
私は息を吐いた。
勝った。
ついに勝った。
身体の反射に、乙女心が勝った。
「ありがとうございます、殿下」
「どういたしまして」
王子は花びらを見つめ、それから私に微笑んだ。
「今のリリアーナは、とても可愛い」
私は胸を押さえた。
今日、二回目。
可愛い、二回目。
前世の私なら、ここでスクリーンショットを撮っていた。
しかし現実はスクリーンショットできない。
だから私は、魂に保存した。
その直後である。
茂みの向こうから、顔を布で隠した男が飛び出してきた。
男は私の手首をつかんだ。
「騒ぐな、令嬢。金目のものを」
来た。
私は思った。
ついに来た。
か弱い令嬢が悪漢に襲われ、王子様に助けられる場面。
遠くにはアルフレッド殿下。完璧な配置。あとは私が「助けて」と言えばいい。
言えばいいだけなのに。
手首をつかまれた瞬間、身体が勝手に動いた。
親指側へ抜ける。肘を外へ逃がす。相手の重心が前へ来る。足を払う。袖を引く。地面に落とす。
どさり。
ならず者は、石畳に寝ていた。
私は、空を見上げた。
間に合わなかったのは、王子様ではない。
私の乙女心だった。
アルフレッド殿下が駆け寄ってくる。
「リリアーナ!」
私は震える声で言った。
「殿下……わたくし、今度こそ助けていただく予定でしたのに……」
王子は倒れた男を見た。
私を見た。
そして、少しだけ困ったように笑った。
「ごめん。君が早すぎた」
ひどい。
正しいけれど、ひどい。
私はしょんぼりした。
すると、アルフレッド殿下は私の前に立った。
倒れた男と私の間に立つように。
そして言った。
「でも、ここからは僕が守る」
私は息を止めた。
王子様が。
私の前に。
立っている。
遅いとか、そういう問題ではない。
立ってくれている。
守ると言ってくれている。
「殿下……」
「それに」
王子は振り返って、私を見た。
「悪漢を一瞬で転ばせたあとに、助けられたかったと落ち込む君は、やっぱり可愛い」
私は両手で顔を覆った。
ずるい。
それはずるい。
王子様が可愛いと言ってくれるなら、多少の筋肉OSは許されてしまうではないか。
その夜、私は鏡の前に立った。
白い肌。細い手首。金色の髪。長い睫毛。
今日も、見た目はちゃんと可愛い。
中身のOSは、相変わらず筋肉。
でも、王子様は言ってくれた。
可愛い、と。
私は鏡の中の自分に向かって、うふふ、と笑った。
「リリアーナ。今日もよく頑張りましたわね」
そして、そっと手首を持ち上げる。
細い。
守られる側の手首。
たぶん。
おそらく。
実績は、まだ少ないけれど。
「明日こそ、完全に守られる令嬢になりますわ」
私はそう宣言した。
鏡の中のリリアーナは、可憐に微笑んでいる。
その背筋は、今日も完璧にまっすぐだった。
可憐ではある。
ただし、隙はない。




