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今世こそ守られる令嬢になりますわ

作者: あゆと
掲載日:2026/05/27

「神様……ありがとうございます。今世こそ、わたくしは守られる側になりますわ」


 鏡の前で、私は本気で泣いた。

 白い肌。細い手首。金色の髪。長い睫毛。レースの寝間着からのぞく、触れれば折れそうな肩。

 前世の私には、ひとつもなかったものばかりだ。


 前世の私は、格闘技ジムのトレーナーだった。

 名前は、早乙女すみれ。

 名前だけは花のように可憐だったが、現実の私はまったく違った。短く切った髪、低めの声、筋肉のついた肩。握れば瓶の蓋が悲鳴を上げ、二十キロのプレートを軽そうに運び、会員さんがよろければ反射で腰を支える。

 女性会員からは、なぜか「王子」と呼ばれていた。

「すみれさん、かっこいい!」

「すみれさんに守られたいです!」

「すみれさん、男より頼りになります!」

 そのたびに、私は笑った。

 ありがとう、と。

 でも心の中では、いつも思っていた。

 違う。

 私は、守りたいんじゃない。

 守られたい。


 壁際に追い詰められて、王子様にそっと手をつかまれたい。階段でつまずいて、「大丈夫?」と抱き止められたい。重い荷物を持とうとして、「君は座っていて」と微笑まれたい。


 お姫様抱っこを、したいのではない。

 されたい。


 なのに現実は、ジムの器具を運び、倒れた棚を支え、酔った後輩を三人まとめてタクシーまで担いだ。飲み会の帰り道で後輩が「すみれさん、彼氏力高すぎます」と言った夜、私は家に帰ってから乙女ゲームの王子ルートを泣きながら三周した。

 仕事から帰ると、鍵を閉める。ふわふわの部屋着に着替える。ベッドの上には白いくまのぬいぐるみ。棚には乙女ゲームの限定版。机の上には推し王子のアクリルスタンド。

 誰にも見せられない、私だけの王国だった。

 画面の中の令嬢は、細い指で紅茶を持っていた。王子様に名前を呼ばれて、頬を染めていた。危ないところを助けられて、涙ぐんでいた。

 私はコントローラーを握りながら、いつも思っていた。

 一度でいい。

 一度でいいから、私も可愛い女の子として扱われたい。

 最後の日も、私は守る側だった。

 ジムの備品棚が倒れた。下には、体験に来ていた小さな女の子がいた。考えるより先に、身体が動いた。

 踏み込む。腰を落とす。肩を入れる。受け止める。

 女の子は助かった。

 私は、助からなかった。

 最後に聞こえたのは、誰かの泣き声だった。

「すみれさん、かっこよかったです」

 違う。

 そう思いながら、私の前世は終わった。



 そして今。

 私は、鏡の中の少女を見ている。

 リリアーナ・ローゼンリヒト。

 乙女ゲーム『星花の誓いと白銀の王子』に登場する、公爵家の令嬢。将来、王太子アルフレッド殿下の婚約者となり、平民出身のヒロインに嫉妬し、意地悪を重ね、卒業記念舞踏会で断罪される悪役令嬢である。

 そこまでは知っている。

 知っているけれど、今の私にはそれより大切なことがあった。

「細い……」

 私は、自分の手首をそっと持ち上げた。

 細い。

 本当に細い。

 前世の手首は、鍛え上げられた実用品だった。ダンベルを握るための手首。グローブを締めるための手首。相手を支えるための手首。

 今世の手首は違う。

 レースの袖からのぞく、白くて細い、いかにも令嬢の手首だった。

「これが……守られる側の手首……」

 私は泣いた。

 五歳児の身体で、真剣に泣いた。


 その日から、鏡の前での確認が日課になった。

 朝起きて、まず鏡を見る。

「まあ……今日も睫毛が長いですわ」

 横を向く。

「頬が、丸い……! 可憐……!」

 手首を持ち上げる。

「うふふ。細い。細いですわ、リリアーナ。あなた、今日も守られる気満々ですわね」

 くるりと回ると、寝間着の裾がふわりと揺れた。私は胸の前で手を組む。

「可愛い……!」

 自分で言うのもどうかと思う。

 だが、前世では誰も言ってくれなかったのだから、今世では自給自足しても許されるはずだ。乙女の自己肯定感は、朝の鏡から育つのである。たぶん。

 私は鏡の中の自分に、にこりと微笑んだ。

「今日も一日、か弱く参りましょうね」

 鏡の中のリリアーナも、当然にこりと笑う。

 勝った。

 何に勝ったのかは分からないが、毎朝勝っていた。

 今世こそ、か弱く、可憐に、愛らしく生きる。誰かを守るのではなく、誰かに守られる。王子様に手を引かれ、重いものを持たず、危ないことには近づかず、困ったときは「怖いですわ」と言う。

 夢に見た乙女人生の開始である。

 まずは練習が必要だった。

「きゃっ」

 私は鏡の前で言った。

 声が高い。前世では無理をしても出なかった音域だ。

「きゃっ、怖いですわ」

 胸に手を当て、半歩下がる。

 いい。

 かなりいい。

 少なくとも、前世の「おっと危ない、下がってください」より百倍かわいい。

 次は、よろめく練習だ。

 令嬢たるもの、よろめき方も重要である。ただ倒れるのではない。儚く。小鳥のように。守りたくなる角度で。できれば、近くの王子様が自然に手を伸ばしたくなる程度に、絶妙な危うさを演出する必要がある。

 私は鏡の前で、そっと膝の力を抜いた。

 その瞬間。

 身体が勝手に受け身を取った。

 足裏が床をつかみ、膝が衝撃を逃がし、体幹がまったくぶれずに私を支える。

 私は一ミリも倒れなかった。

「……」

 おかしい。

 もう一度やる。膝の力を抜く。今度こそ倒れる。

 と思った瞬間、前世の身体操作が自動で発動し、私はしなやかに重心を戻した。

 鏡の中のリリアーナは、完璧な姿勢で立っていた。

 美しい。

 美しいが、違う。

「リリアーナ。あなた、どうしてそんなに安定していらっしゃるの……?」

 私は床に座り込んだ。

 今世の私は、見た目だけなら可憐な幼女だ。肩も丸い。腕も細い。太ももも、前世のように「丸太」と陰で呼ばれたりしない。

 なのに、身体の使い方だけが前世のままだった。

 重心管理。踏み込み。受け身。姿勢制御。力を逃がす角度。相手のバランスの読み方。十年以上、格闘技とトレーニングで叩き込んだものが、魂に染みついている。

 私は悟った。


 外見は乙女。

 中身のOSが筋肉。


 神様。

 そこは初期化してほしかったです。



 それから私は、慎重に暮らした。

 重いものには触らない。走らない。跳ばない。誰かがよろけても、なるべく乳母に任せる。紅茶カップは両手で持つ。扇子は優しく持つ。ドアは侍女に開けてもらう。階段はゆっくり降りる。

 努力した。

 努力したのだ。

 しかし前世の筋肉OSは、油断したときに顔を出した。

 六歳の春。

 朝の支度中、侍女のアンナが髪飾りの箱を開けていた。

「うふふ。清楚……。これは清楚ですわね、アンナ」

「はい。とてもお似合いでございます」

「こちらの薄桃色は?」

「愛らしゅうございます」

「まあ……困りましたわ。清楚と愛らしさが、わたくしの上で争っていますわ」

 前世では、髪飾りを選ぶ時間などなかった。汗をかいても邪魔にならない短髪。黒いジャージ。動きやすい靴。実用品だけで構成された生活。

 それが今はどうだ。

 白か薄桃色かで悩める。

 これを幸福と呼ばずして、何を幸福と呼ぶのか。

 そのとき、アンナの手元から髪飾り箱が滑った。

 小さな宝石飾りやリボンが床に散らばりそうになる。

 私は「きゃっ」と言う予定だった。可憐に驚き、アンナが拾うのを待つ予定だった。

 だが、身体はすでに動いていた。

 箱の落下角度を読む。中身が飛び出す前に底を支える。反対の手で蓋を押さえる。リボン一本だけが浮いたので、指先で絡め取る。

 完璧なキャッチだった。

 宝石飾りは一つも落ちなかった。

 アンナが固まる。

 私は箱をそっと差し出した。

「……び、びっくりしましたわ」

 遅い。

 びっくりする前に全部取っている。

 アンナは震える声で言った。

「お嬢様、なんてお優しい……! 私の失敗を、なかったことにしてくださるなんて……!」

 違う。

 そこではない。

 可憐さはどこへ行ったのか。

 その日からアンナは、私を見る目が少し変わった。守る対象ではなく、尊敬する対象を見る目になった。

 やめてほしい。


 七歳の夏。

 運命の日が来た。

 王宮で開かれる、子どもだけのお茶会。そこで私は、初めてアルフレッド王子と会うことになった。

 アルフレッド・グラン・アルディス。

 乙女ゲーム『星花の誓いと白銀の王子』のメイン攻略対象。金髪碧眼。将来は白銀の王子と呼ばれる、完璧な王太子。前世の私は、彼のルートを何周もした。隠しスチルも見た。好感度選択肢も暗記した。推し王子のアクリルスタンドは、机の一番いい場所に飾っていた。

 その王子様が、今、目の前にいる。

「初めまして、リリアーナ嬢」

 小さな王子が微笑んだ。

 まだ子どもなのに、もう王子様だった。金の髪が光を受け、青い瞳がやわらかく細められる。白い手袋に包まれた手が、私に差し出される。

「君に会えるのを楽しみにしていた」

 心臓が止まるかと思った。

 王子様。

 本物の王子様。

 画面越しではない。

 私に向かって、手を差し出している。

 私が、手を引かれる側になれる。

 前世のすみれ、見ていますか。

 あなたは今、勝ちました。

「お、お初にお目にかかりますわ、アルフレッド殿下」

 私は震える手を差し出した。小さな手。白い手。令嬢の手。

 王子の手が、それを取る。

 その瞬間、私は舞い上がった。

 王子様に手を握られている。守られる側への第一歩。夢にまで見た瞬間。

 嬉しくて、嬉しくて。

 私は、ほんの少しだけ握り返した。

「っ」

 アルフレッド殿下の顔色が変わった。

 え?

 私は慌てて手を離した。

「で、殿下?」

 王子は微笑んでいた。

 だが、その微笑みは少し震えていた。

「リリアーナ嬢は……情熱的なんだね」

 情熱的。

 乙女ゲームで聞いたことのある言葉だ。イベントCGの前に出てくる、甘い台詞の一種では?

 私は頬を染めた。

「まあ……」

 アルフレッド殿下は、そっと右手を背中に隠した。

 私は気づかなかった。

 その手が、小刻みに震えていたことに。


 お茶会は夢のようだった。

 小さな銀の匙。花柄のカップ。甘い焼き菓子。王子様の隣の席。

 私は可憐な令嬢として、上品に紅茶を持ち上げた。

 両手で。

 落とさないように。

 力を入れすぎないように。

 今度こそ、完璧だった。

「リリアーナ嬢は、紅茶が好き?」

 アルフレッド殿下が尋ねた。

「はい。甘い香りが、とても素敵ですわ」

 言えた。

 令嬢らしい。

 今の私は、完全に乙女。

 そのとき、近くにいた別の令嬢が、緊張でカップを取り落としかけた。白い磁器がテーブルの端から滑り落ちる。熱い紅茶が、アルフレッド殿下の膝にかかる位置だった。

 考えるより先に、身体が動いた。

 手首の角度を読む。落下地点を予測する。最短距離で手を入れる。

 私はカップを空中で受け止めた。

 中身もこぼさずに。

 完全捕球。

 会場が静まった。

 私は、カップをそっと令嬢に返した。

「お怪我はありませんか?」

 令嬢は目を潤ませた。

「リリアーナ様……!」

 アルフレッド殿下が、ぽつりと言った。

「すごい反射神経だね」

 違います。

 これは反射神経ではなく、前世の職業病です。

 私は必死に微笑んだ。

「たまたまですわ」

 王子は少し考えたあと、優しく言った。

「でも、ありがとう。僕も助かった」

 その言葉に、私は胸を押さえた。

 王子様から、ありがとう。

 私は守られたかったはずなのに、また守ってしまった。

 でも、王子様にお礼を言われた。

 これは負けなのか。

 勝ちなのか。

 判断が難しい。


 それから数年、私は可憐な令嬢として成長するために努力を続けた。

 扇子の持ち方。歩き方。お辞儀の角度。微笑み。困った顔。小さく驚く仕草。王子様に手を引かれたときの、控えめな頬の染め方。

 どれも練習した。

 練習相手は、もちろん鏡である。

「きゃっ。殿下、ありがとうございます」

 鏡の前で、私は片手を頬に添える。

 いい。

 実にいい。

「わたくし、怖かったですわ」

 これもいい。

 かなり守りたくなる。

 自分で自分を守りたくなるくらいには、可憐だ。

 私は満足して、鏡の中のリリアーナに微笑んだ。

「うふふ。今日も可憐ですわね、わたくし」

 問題は、鏡の外に出た瞬間である。


 八歳のダンスレッスンでは、アルフレッド殿下にリードされるはずが、彼の重心が一拍遅れた瞬間、反射で私が誘導してしまった。

 ダンス教師は感動した。

「リリアーナ様は、相手を導く舞踏をなさるのですね」

 違う。

 導かれたい。


 九歳の乗馬見学では、暴れた白馬を見て、近くの令嬢たちが悲鳴を上げた。

 私は怖がる練習をしようとした。

 したのだ。

 だが、白馬の目が怯えていた。前世で、初心者会員がパニックになったときと同じ目だった。

 気づけば私は白馬の前に立ち、首筋を押さえ、低い声で呼吸を合わせていた。

「大丈夫ですわ。吸って。吐いて。そう、よい子です」

 白馬は落ち着いた。

 馬丁が泣いた。

「お嬢様、この馬が他人に首を預けるなど初めてです!」

 違う。

 私は白馬に横乗りして、王子様に手綱を引いてもらいたかった。


 十歳の庭園では、アルフレッド殿下が花を摘んでくれた。

「リリアーナ、君にはこの白薔薇が似合う」

 私は死ぬかと思った。

 白薔薇。

 王子様。

 君に似合う。

 乙女ゲームのイベントそのものではないか。

 あまりに嬉しくて、私も一輪摘もうとした。

 白薔薇は、根ごと抜けた。

 土がついた根をぶら下げた私を見て、王子は三秒ほど黙った。

 終わった。

 乙女終わった。

 そう思った。

 だが王子は、ふっと笑った。

「リリアーナは、花を大事にしすぎて、根まで見たかったんだね」

 違います。

 力加減を間違えました。

 でも、王子様が笑っている。

 私は根つきの白薔薇を抱えながら、真っ赤になった。

 その少し後、庭園で少年貴族たちが遊んでいた革球が飛んできた。ちょうど、アルフレッド殿下の顔の高さへ。

 普通の令嬢なら、ここは悲鳴を上げる場面である。

 私は「きゃっ」と言う予定だった。

 言う予定だったのだ。

 けれど身体は、半歩だけ前に出た。肩の力を抜き、視線を切らず、革球を手のひらで殺す。

 ぱしん。

 音だけが、やけに大きく響いた。

 革球は、私の手の中で静かに止まっていた。

 少年貴族たちが、ぽかんと口を開ける。

 アルフレッド殿下も、目を丸くした。

「リリアーナ?」

 私は革球をそっと少年たちに返した。

「た、たまたま手の中に落ちてきましたの」

 嘘である。

 完全に取りにいった。

 王子はしばらく私の手を見ていたが、やがてにこりと笑った。

「君がいてくれると、安心する」

 安心。

 守りたい、ではなく、安心。

 惜しい。

 とても惜しい。

 でも王子様の笑顔が眩しかったので、その日は勝ち寄りの引き分けとした。


 十一歳の春。

 私は、王宮の小さな温室にいた。

 アルフレッド殿下と二人きり。侍女や護衛は少し離れている。温室には春の花が咲き、白いテーブル、小さな椅子、紅茶、焼き菓子、王子様がそろっていた。

 完璧な布陣である。

 私は今日こそ、守られる令嬢として振る舞うつもりだった。

 作戦はこうだ。

 少し高い棚に置かれた花の本を取ろうとする。背伸びする。届かない。困った顔で振り返る。アルフレッド殿下が「取ってあげる」と微笑む。

 完璧。

 私は、棚の前に立った。

「まあ……少し、高いですわね」

 予定通り、つま先立ちをする。

 ここで届いてはいけない。

 絶対に届いてはいけない。

「リリアーナ、取ろうか?」

 来た。

 王子様が立ち上がった。

 私は振り返り、困った顔を作る。

「よろしいのですか?」

「もちろん」

 アルフレッド殿下が近づいてくる。差し出される手。近い距離。柔らかな笑顔。

 心臓が跳ねた。

 このまま王子様に取ってもらう。そして私は「ありがとうございます、殿下」と微笑む。今日は勝てる。

 そう思った瞬間、棚の上から小さな鉢植えが傾いた。

 なぜ。

 誰がそんな不安定な置き方を。

 鉢植えは、アルフレッド殿下の頭上へ落ちてくる。重そうな陶器の鉢。当たれば危ない。

 考えるより先に、身体が動いた。

 足を踏み込む。王子をかばう位置へ入る。片手で鉢を受け止める。もう片方の手で、王子の肩を支える。

 鉢の土は、一粒もこぼれなかった。

 温室は静まり返った。

 アルフレッド殿下は、私の腕の中にいた。

 私が、王子を守っていた。

 違う。

 逆。

 完全に逆。

「リリアーナ……」

 王子が見上げてくる。青い瞳が近い。

 私は真っ青になった。

「ち、違いますの。これは、その、鉢植えが勝手に」

「ありがとう」

 王子は静かに言った。

 私は息を止めた。

「助かった」

 その声は、ゲームの中で聞いたどの台詞より、まっすぐだった。

 胸が苦しくなる。

 守ってしまった。

 また守ってしまった。

 でも、王子様が私を見ている。怖がっていない。引いていない。むしろ、少し笑っている。

「リリアーナは、本当にすごいね」

 ああ。

 まただ。

 すごい。強い。頼もしい。

 前世と同じ言葉が来る。

 私は目を伏せた。

 違うのに。

 私は、可愛いと言われたいだけなのに。

 すると、アルフレッド殿下は少し首をかしげた。

「でも、そんなに泣きそうな顔をするのは、可愛い」

 私は固まった。

「……いま、何とおっしゃいました?」

「可愛い、と言った」

「かっこいい、ではなく?」

「うん」

「頼もしい、ではなく?」

「頼もしいとも思うけれど」

 王子は、私の手の中の鉢植えを見た。それから、私の顔を見る。

「鉢を受け止めたあとに、可憐に落ち込むところが、リリアーナらしくて可愛い」

 意味が分からない。

 だが。

 可愛い。

 王子様に、可愛いと言われた。

 前世の私が、何度も夢見て、何度も画面の中でしか聞けなかった言葉。

 今世で、とうとう。

 私は鉢植えを抱えたまま、頬を押さえた。


「……勝ちましたわ」


「え?」

「いいえ、何でもありません」

 その後、駆けつけた侍女たちは、私が王子を守ったことに大騒ぎした。護衛は恐縮した。庭師は鉢植えの配置を謝った。アンナは涙ぐみながら、「やはりお嬢様はお強く、お優しい」と言った。

 違う。

 私は守られる側を目指している。

 だが、私はもう少しだけ鉢植えを抱えていた。

 アルフレッド殿下が、ふと私の手元を見る。

「その鉢、重くない?」

 私は反射で答えそうになった。

 軽いです、と。

 前世なら、こんな鉢植えはウォーミングアップにもならない。

 しかし今世の私は令嬢。

 守られる側。

 可憐な少女。

 私は少し考え、そっと鉢植えを殿下へ差し出した。

「……少し、重いですわ」

 言えた。

 自然に言えた。

 私の乙女人生は、まだ終わっていない。

 アルフレッド殿下は嬉しそうに笑った。

「じゃあ、僕が持つよ」

 王子様が、私の鉢植えを持ってくれた。

 少し腕が震えている。

 だが、持ってくれた。

 私は胸の前で手を組んだ。

 守られた。

 鉢植え限定ではあるが、守られた。

 神様。

 ありがとうございます。

 前世の筋肉OSは、まだ消えていません。

 でも今世の私は、ちゃんと可愛いと言われました。

 だから、今日のところは引き分けで許して差し上げます。


 その日の帰り道。

 温室から庭園へ抜ける小道を、アルフレッド殿下と歩いていた。夕暮れの光が花壇の上に落ちている。護衛と侍女は少し後ろ。王子様は隣。私は鉢植えを持ってもらった余韻を、胸の中で大切に抱えていた。

 今日は良い日だった。

 守った。

 でも、守られた。

 可愛いとも言われた。

 これはもう、実質的に乙女イベント成功と言ってよいのではないか。

 そう思ったとき、アルフレッド殿下が私の髪に視線を向けた。

「リリアーナ」

「はい、殿下」

「髪に花びらがついている」

 来た。

 私は思った。

 髪についた花びらを、王子様がそっと取ってくださるイベント。

 乙女ゲームで何度も見た。スチルにもなる。背景には花。近い距離。少し照れた王子様。頬を染める令嬢。

 完璧だ。

 今度こそ、私は何もしない。

 ただ、じっとしていればいい。

 アルフレッド殿下の手が、私の髪へ伸びる。

 私はときめいた。

 ときめいたのに、視界の端で手が動いた瞬間、身体が勝手に半歩引いた。

 殿下の指先が、空を切る。

「……避けられた」

 王子が小さく呟く。

 私は絶望した。

「ち、違いますの! これは、その、条件反射で!」

「条件反射」

「ええ。わたくしの中の何かが、近づく手を避けましたの」

「それは……僕の手を危険と判断したのかな」

「違います! 殿下の手は危険ではございません! むしろ歓迎しております!」

 何を言っているのだ、私は。

 王子は目を瞬かせたあと、楽しそうに笑った。

「では、もう一度」

 ありがたい。

 神様はまだ私を見捨てていない。

 今度こそ動かない。

 私は足の裏に力を入れ、全身に命令した。

 動くな。避けるな。これは攻撃ではない。花びらイベントだ。

 王子様の手が、そっと近づく。

 私は震えながら待った。

 指先が髪に触れる。アルフレッド殿下が、花びらを摘まむ。

「取れた」

 私は息を吐いた。

 勝った。

 ついに勝った。

 身体の反射に、乙女心が勝った。

「ありがとうございます、殿下」

「どういたしまして」

 王子は花びらを見つめ、それから私に微笑んだ。

「今のリリアーナは、とても可愛い」

 私は胸を押さえた。

 今日、二回目。

 可愛い、二回目。

 前世の私なら、ここでスクリーンショットを撮っていた。

 しかし現実はスクリーンショットできない。

 だから私は、魂に保存した。

 その直後である。

 茂みの向こうから、顔を布で隠した男が飛び出してきた。

 男は私の手首をつかんだ。

「騒ぐな、令嬢。金目のものを」

 来た。

 私は思った。

 ついに来た。

 か弱い令嬢が悪漢に襲われ、王子様に助けられる場面。

 遠くにはアルフレッド殿下。完璧な配置。あとは私が「助けて」と言えばいい。

 言えばいいだけなのに。

 手首をつかまれた瞬間、身体が勝手に動いた。

 親指側へ抜ける。肘を外へ逃がす。相手の重心が前へ来る。足を払う。袖を引く。地面に落とす。

 どさり。

 ならず者は、石畳に寝ていた。

 私は、空を見上げた。

 間に合わなかったのは、王子様ではない。

 私の乙女心だった。

 アルフレッド殿下が駆け寄ってくる。

「リリアーナ!」

 私は震える声で言った。

「殿下……わたくし、今度こそ助けていただく予定でしたのに……」

 王子は倒れた男を見た。

 私を見た。

 そして、少しだけ困ったように笑った。

「ごめん。君が早すぎた」

 ひどい。

 正しいけれど、ひどい。

 私はしょんぼりした。

 すると、アルフレッド殿下は私の前に立った。

 倒れた男と私の間に立つように。

 そして言った。

「でも、ここからは僕が守る」

 私は息を止めた。

 王子様が。

 私の前に。

 立っている。

 遅いとか、そういう問題ではない。

 立ってくれている。

 守ると言ってくれている。

「殿下……」

「それに」

 王子は振り返って、私を見た。

「悪漢を一瞬で転ばせたあとに、助けられたかったと落ち込む君は、やっぱり可愛い」

 私は両手で顔を覆った。

 ずるい。

 それはずるい。

 王子様が可愛いと言ってくれるなら、多少の筋肉OSは許されてしまうではないか。


 その夜、私は鏡の前に立った。

 白い肌。細い手首。金色の髪。長い睫毛。

 今日も、見た目はちゃんと可愛い。

 中身のOSは、相変わらず筋肉。

 でも、王子様は言ってくれた。

 可愛い、と。

 私は鏡の中の自分に向かって、うふふ、と笑った。

「リリアーナ。今日もよく頑張りましたわね」

 そして、そっと手首を持ち上げる。

 細い。

 守られる側の手首。

 たぶん。

 おそらく。

 実績は、まだ少ないけれど。

「明日こそ、完全に守られる令嬢になりますわ」

 私はそう宣言した。

 鏡の中のリリアーナは、可憐に微笑んでいる。

 その背筋は、今日も完璧にまっすぐだった。

 可憐ではある。

 ただし、隙はない。

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― 新着の感想 ―
細い…と手首を都度手首を確認してるのも、鏡の前でキャッとか弱さを練習するのも、練習が活かされずに格好良くなってしまうのも、めちゃくちゃ面白かったです。あと、王子の健気さにときめきました。楽しいお話をあ…
なんてなんてカワイイお話! すみれさん、勝ちです。もう間違いなく完全勝利です。 王子どころか、周りの侍女も護衛騎士も全員「カワイイ」って思ってます。 シリーズで読みたいです。そう、ラストは二人の…
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