またねの約束
苔むした古い神社の裏手、竹やぶの奥深くに、一匹のとても長生きな猫がひっそりと暮らしていました。名前をクロツメといいました。
クロツメは百年以上を生きたと言われ、昔からこの町に住んでいるおじいちゃんやおばちゃんたちたちは「まだあの猫はここにいるのか」と、時折不思議そうに呟いたものでした。ほかの大人は「年寄りたちは黒猫はどれも同じ猫だと思っているのだろう」「そんなに長生きをする猫がいるわけないのに」とあきれて、話をちゃんと聞いたことがありませんでした。
けれどもある女の子は近所のおじいちゃんやおばあちゃんのお話を聞くのが大好きだったので、けして似たような姿の猫をクロツメと呼んでいるわけではないと信じていました。
なぜなら、クロツメにはほかの猫にはない特徴があるというのです。それは――しっぽが二本あること。
しかも、艶やかな黒い毛並みの、しなやかに揺れる二本のしっぽは、夕陽の中ではほのかに銀色に光るそうです。
クロツメはまだ「化け猫」にはなれていませんでした。
猫たちの世界には、古くから伝わる掟がありました。
立派な化け猫になるためには長い修行が必要で、最後の試練を乗り越えなければ、二本のしっぽはただの「長生きの証」にしかならず、永遠に姿の見える野良猫のままでいなければならないのです。
その最後の試練とは――人間の友だちを作ること。
それは簡単そうで、実はとても難しいことでした。
人間は猫を可愛がることはあっても、心の底から「対等な友」として見てくれる者は稀だったからです。
ある春の夕暮れ、茜色の空の下、クロツメはいつものように神社の長い石段をのんびり歩いていました。
すると、一番下の段に小さな女の子がぽつんと座っているのが見えました。
ランドセルを膝に抱え、きれいな夕焼けも見ないでうつむいています。
まだ小学一年生か二年くらいでしょうか。頬は少し赤く、目尻には涙のあとが残っていました。
クロツメは二本のしっぽをゆっくり揺らしながら近づくと、低い声で話しかけました。
「なぁ、お前。ずいぶん寂しそうな顔してるな」
女の子はびくっと肩を震わせて顔を上げました。
けれど、なぜか逃げようとはしませんでした。
不思議な二本のしっぽを持つ黒猫をじっと見つめ、しばらくしてから小さな声で答えました。
「……クロツメ?」
「おれのこと、知っているのか?」
「うん。やっぱり本当にいたんだね」
「もしかして……おれを探しに来てくれたのか?」
クロツメはちょっと期待してたずねました。
けれども女の子は首を横に振りました。
「違うの。……お母さんとお父さんが、また喧嘩してて。 私、どっちの味方もしちゃだめって言われて……」
クロツメは石段に腰を下ろし、女の子の隣にちょこんと座りました。
「ふぅん。人間ってのは、なかなかややこしいもんだな」
それが二人の出会いでした。
女の子の名前はひかり。
それからというもの、ひかりは学校が終わると必ずこの神社へやって来ました。
クロツメも、決まって石段の上で待っていました。
ひかりはランドセルを下ろすと、毎日いろんな話をしました。
算数のテストで赤点を取ったこと、給食の牛乳がこぼれてスカートがびしょびしょになったこと、友達に秘密をばらされて悔しかったこと、そして時々、両親の声が大きくなった夜のことを。
クロツメは黙って聞き、時には慰めるように二本のしっぽでひかりの膝を軽く叩きました。
そして少しずつ、自分の話をしました。
「猫の国にはな、月が三つ浮かんでるんだ。真ん中の月はいつも優しく笑ってるよ」
「えー、嘘でしょ!」
「本当だ。おれが化け猫になれたら、連れてってやりたいが……まあ、無理だろうな」
そんなやりとりが、三年間続きました。
ひかりが五年生になったある晩、いつものように石段に座っていたクロツメが、珍しく真剣な声で言いました。
「ひかり。おれ、明日、猫の国へ帰るよ。最後の試験を受ける資格を得たんだ」
ひかりは目を丸くしました。
「……いつ、帰ってくるの?」
「ずっと先だ」
「どれくらい先?」
クロツメは少し間を置いて、静かに答えました。
「ひかりがもうすっかりお姉さんになって、髪を長く伸ばして、ヒールの音を響かせて歩くようになって……それでもまだ、おれという猫のことを、ふと思い出すくらい先だ」
ひかりの目からぽろぽろと涙がこぼれました。
クロツメは二本のしっぽをそっと伸ばし、ひかりの頬を優しく拭いました。
しっぽの先は、まるで柔らかい絹のハンカチのようでした。
「でもな、もし俺が無事に化け猫になれたら…… また、会いに来るかもしれない。だから、さよならとは言わないよ。――またな、ひかり」
ひかりは泣きながら、こくこくと頷きました。
「うん。またね、クロツメ」
次の朝、クロツメの姿はもうどこにもありませんでした。
ひかりは放課後になると毎日石段に座り、空を見上げて待ちました。
春が終わり、秋が過ぎ、冬が来て、また春が巡っても、クロツメは現れませんでした。
それから長い長い時が過ぎました。
ひかりは中学生になり、高校生になり、大学生になりました。
社会人になり、恋をして、別れて、仕事に追われ、疲れて、時には一人きりで泣く夜を過ごしました。結婚して、毎日笑って、だんだん話さなくなって、毎日喧嘩して、離婚して、また一人きりになりました。
そして三十五年目の春の日。
もうひかりのお父さんもお母さんもいなくなって、いまでは空き家になっている実家の片付けをするために帰る途中、古い神社の前を通りかかりました。
もう何年も来ていなかった場所です。
石段は苔に覆われ、竹やぶはさらに深く静まり返っていました。
それでも、なぜか足が止まりました。
ひかりはランドセルを抱えていた頃と同じように、一番下の段に腰を下ろしました。
風が竹を揺らし、さらさらと音を立てています。
「……あの子、クロツメって、言ってたっけ」
その瞬間、
すりっ……すりっ……
誰かが、ひかりの腕に頬をこすりつけてきました。それから、やわらかいものがひかりの頬や膝を優しくなでました。
懐かしい感触でした。涙を拭ってくれたり、慰めるようにぽんぽんと膝を叩いてくれたしっぽ。
そこには何もいないはずなのに、確かな温もりと、柔らかい毛の感触がありました。
風もないのに、そっと息づかいまで感じられました。
ひかりの目に、ゆっくりと涙が浮かびました。
長い間しまっていた記憶が、胸の奥から溢れ出してきました。
「クロツメ……?」
すりすり、すりすり。
見えない毛並みが、ひかりの膝の上でゆっくりと円を描きます。
そして、たしかに二本のしっぽが、優しく揺れている気配がありました。
ひかりはそっと両手を伸ばして、見えない背中を、首筋を、耳の後ろをなでました。
指先に伝わる感触は、昔と何一つ変わっていませんでした。
「化け猫になれたんだね……おかえり」
見えない猫は、返事の代わりに、もう一度、ゆっくりとひかりの頬に顔を寄せました。
そこには、百年分の優しさと、三十五年分の「待っていた」が詰まっていました。
ひかりが立ち上がって歩き出すと、小さな足音がすぐ横に並んでついてきました。
見えないけれど、確かにそこにいます。
二本のしっぽが、ふわりふわりとひかりのふくらはぎに軽く触れるのがわかりました。
これからも、ひかりが笑うときも、泣くときも、疲れて立ち止まるときも、その友だちはそばにいるつもりでした。姿は見えなくても、心はいつもすぐ隣に。
誰にも知られることのない、大切な友情は、こうして静かに永遠に続いていくのでした。
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タマ館長はお話探しの旅に出るそうです。気まぐれなタマ館長のことですから、ふらっと戻って来て開館することもあるでしょう。それが1年後なのか、2年後なのか、もっと先なのか。でもきっとまた戻ってきます。その時はまたよろしくお願いいたします。
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