追放された無能令嬢は、冷酷公爵にだけ本性を見抜かれる
本作は、全九話で構成された異世界恋愛短編小説です。
一気に読んでいただいても、お気に入りの場面で一度閉じて続きを楽しんでいただいても、どちらも大歓迎です。どうか、ご自分のペースでゆっくりお付き合いください。(*‘ω‘ *)/
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第一話 公開追放
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王都随一の大広間は、今夜も光に満ちていた。
シャンデリアの魔法灯が千の星のように煌めき、名家の令息令嬢たちが杯を手に笑い声を散らしている。春季大舞踏会。王家が主催するこの夜は、社交界の頂点に位置する催しだ。
イリス・ヴァルモンドは、壁際に立っていた。
淡い銀髪を夜会仕様に結い上げ、薄いブルーグレーのドレスをまとっている。踊りの輪には加わらず、招かれれば礼儀正しく会話し、招かれなければ静かに佇む。それがいつもの彼女のあり方だった。誰も彼女に声をかけない。声をかける理由がない、と皆が思っているからだ。
ヴァルモンド侯爵家次女。魔力量最低限。魔法使いの家系に生まれた「外れ値」。
十八年間、その評価は変わったことがなかった。
「皆さん、少しよろしいか」
広間の中央で、エドワード第三王子が声を上げた。
二十歳の若き王子は、金糸の刺繍が施された礼装をまとい、白い手袋をはめた手でワインの杯を高く掲げている。ふっくらとした顎、整った目鼻立ち、常に少しだけ上を向く癖のある顔。彼が微笑むと、周囲の令嬢たちが一斉に色めき立つ。
イリスはその様子を、感情のない目で眺めた。
「本日は、皆さんに報告がある」
王子の声が響き渡る。広間が静かになっていく。
嫌な予感がした。しかしイリスは表情を変えなかった。
「私は、イリス・ヴァルモンド嬢との婚約を、本日をもって破棄することを宣言する」
静寂が落ちた。
一瞬の沈黙の後、広間がざわめき始めた。扇を口元に当てる令嬢、耳打ちを交わす令息、好奇の目を向ける貴族たち。その視線が一斉にイリスへと集まる。
彼女は動かなかった。
背筋を伸ばしたまま。表情を崩さないまま。ただ、王子の言葉の続きを待った。
「理由は明白だ。彼女の魔力量は、王妃の席に立つ者として、著しく不足している。我が国は今、戦時下にある。王家の婚姻には、国を支える力を持つ者が必要だ。イリス嬢には、その力がない」
王子はそこで初めて、イリスへと視線を向けた。
哀れみとも優越感ともつかない目だった。
「これは私の独断ではない。父王も、そして……ヴァルモンド侯爵も、理解を示してくださっている」
最後の一言に、イリスは静かに目を伏せた。
父が。
彼女が物心ついたときから「魔力がない子だ」と言い続けた父が。姉の婚約が決まったとき「これでヴァルモンドの未来は安泰だ」と言った父が。イリスの婚約が決まったときも「王家への義理を果たせるなら御の字だ」と言った父が。
やはり黙認したのか、と思った。
驚きはなかった。
「イリス嬢、君には申し訳ないが、これが最善だ。君も……わかっているだろう?」
王子は、彼女が泣くと思っていた。あるいは怒ると思っていた。それとも膝をついて懇願するとでも?
広間の全員が、イリスの反応を待っていた。
彼女は、ゆっくりと顔を上げた。
その青灰色の瞳は、穏やかなほど凪いでいた。
「……承知いたしました」
声は、静かだった。
震えもなく、怒りもなく、涙もなかった。ただ事実を受け取った者の声だった。
「殿下のご決断に、異議はございません。ご多幸をお祈りしております」
一礼。
完璧な礼儀作法で、完璧な角度で、彼女は頭を下げた。
王子は一瞬、何かを言いかけてやめた。期待していた反応ではなかったのだろう。広間の空気が、奇妙な居心地の悪さを帯びた。
イリスは顔を上げ、そのまま静かに広間を歩き始めた。人垣が、自然と割れていく。誰も声をかけなかった。誰かが慰めるわけでも、引き止めるわけでもなかった。
出口まで、誰一人として彼女の名を呼ばなかった。
重厚な扉が閉まる寸前、イリスはちらりと振り返った。
父が、視線を外していた。
彼女はそれを見届けて、扉を静かに閉めた。
広間の外は、ひんやりとしていた。廊下の空気が、ひどく澄んでいた。
イリスは、歩きながら一度だけ、目を瞑った。
泣くことはしなかった。怒ることもしなかった。
ただ、知っていたことを、正式に確認しただけだ。
私はここでは、必要とされていない。
わかっていた。ずっと前から、わかっていた。
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第二話 無価値の証明
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翌朝、イリスはヴァルモンド家の屋敷を出た。
荷物は、小さな鞄ひとつ。着替えを数枚と、一冊の古い魔法書と、わずかな硬貨。それだけだった。
父から渡されたのは、「追放の書」と呼ばれる一枚の書面だけだった。これにより彼女はヴァルモンド家の籍を抜かれ、持参金の権利も失った。書面には父の署名があった。母は——すでに十年前に亡くなっていた。
屋敷の門番が、目を合わせなかった。
それでよかった、とイリスは思った。
王都の朝は早い。市場が開き、商人たちが荷を広げ、馬車が石畳を踏みならす。イリスは人混みの中に溶け込み、宿を探しながら歩いた。貴族令嬢として使ったことのない路地を、地図なしで正確に歩いた。空間把握の能力は、こういうときに役立つ。
問題が起きたのは、市場の中ほどでのことだった。
三人の男が、若い女商人を取り囲んでいた。
「払えないなら、代わりの形で落とし前つけてもらうぜ」
「お前みたいなのが市場で商売できると思うな。俺たちが許可してやってんだ」
いわゆる地回りの連中だ。王都でも目立たない路地には、こういった者たちが根を張っている。
イリスは立ち止まった。
通り過ぎることもできた。関わる義理はない。今の彼女には、守るべき立場も、背景も、何もない。
だが。
彼女の足は、自然と前へ出ていた。
「少々、よろしいですか」
男たちが振り返る。令嬢風の服装をした細い娘に、ニヤリと嗤う。
「なんだ、お嬢さん。助けにきたのか? 魔法使いか何かか?」
「いいえ」とイリスは言った。「ただの通りすがりです」
男の一人が手を伸ばしてきた。それを見た瞬間、イリスは右手の指先に、ほとんど目に見えない光の粒を収束させた。
指一本分の魔力。しかしそれは、針の先ほどの空間に完璧に圧縮されていた。
パン、と乾いた音がした。
男が弾かれたように後退し、膝をついた。もう一人が魔法を構えようとしたが、彼が詠唱を始めるより先に、イリスはすでに次の式を構成し終えていた。
二発目は、男の足元の石畳に。
三人目が、逃げた。
全部で、三秒もかかっていなかった。
「……っ、なんだ今の——」
「護身用の魔法です」とイリスは言った。「大げさなものではありません」
嘘ではなかった。魔力量は、最低限だった。彼女が放ったのは、魔法学院の一年生が習う初歩の式だ。ただしその精度と圧縮率は、学院の教師でも再現できないものだったが、それは彼女自身も知らないことだった。
女商人が礼を言う間もなく、路地の奥から声がかかった。
「少し、待て」
低い声だった。
振り返ると、そこに男が立っていた。
黒髪。金色の目。長身で、常人より一回り広い肩幅。軍服のような黒い上衣を着て、腰には剣を帯びている。三十には届かないだろうが、二十代とも見えない、妙な重厚感を持つ顔立ちだった。
その目が、じっとイリスを見ていた。
「今の式。どこで学んだ?」
イリスは少し考えた。隠す理由もなかった。
「独学です」
「独学で」と男は繰り返した。「あの圧縮制御を?」
「何か、問題がありましたか」
「問題はない。だが……」
男は珍しいものを見る目で、しかし感情をほとんど出さない表情で、イリスを見た。
「その式は、王国魔法学院の教本には載っていない」
「知っています」とイリスは言った。「載っていないので、自分で組みました」
沈黙。
男は、わずかに目を細めた。
「名前は」
「イリス・ヴァルモンド……と申しておりましたが、昨日付で、その名は返上しました」
「ヴァルモンド家の?」
「元、です。追放されました」
男は何も言わなかった。
ただ、その金色の瞳が、初めてどこかに焦点を合わせるように、イリスを見た。
「アルヴァン・レグルス」と男は言った。「公爵だ」
イリスは淡々と一礼した。意外な名前だったが、顔には出さなかった。
レグルス公爵。戦場帰りの若き軍人貴族。この国で最も魔力と兵力を持つとされる公爵家の当主。社交界で名前だけは知っていたが、顔を見るのは初めてだった。
「少し時間をもらいたい」と公爵は言った。「話がある」
イリスは一瞬、考えた。
断る理由がなかった。行くべき場所が、どこにもなかったから。
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第三話 見抜く男
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公爵が使っていたのは、王都にある小さな私邸だった。社交用の豪邸ではなく、用務用の機能的な建物で、装飾より実用を重視した作りだった。
通された執務室には、地図と書類と魔法式の図面が所狭しと広げられていた。
公爵はイリスを椅子に座らせると、自分は机の前に立ち、羊皮紙を一枚取り出した。
「再現してみろ」
羊皮紙の上に、魔力で線を引いてみせろ、という意味だった。
イリスは一瞬だけ目を細め、羊皮紙に指先を触れた。
浮かび上がったのは、市場で使ったものと同じ式だ。ただし今度は丁寧に、構成要素を解体した形で書き出してみせた。どの部分がどの機能を担い、どこで圧縮が起きているか。まるで楽譜を音符ごとに説明するように。
公爵は無言でそれを見ていた。
やがて自分でも指を動かし、同じ式を再現しようとした。
一度目。魔法式は形になったが、イリスのものと比べると明らかに膨らんでいた。エネルギーの密度が違う。
二度目。少し近づいたが、まだ遠い。
三度目で、公爵は手を止めた。
「……これは」と彼は言った。「制御の問題だ」
「はい」
「魔力量ではない。精度だ」
イリスは、何も言わなかった。
「お前の魔力量は、確かに少ない。しかし出力した魔力の、ほぼ一○○パーセントが目的の場所に届いている。無駄がない」
「そう、でしょうか」
「普通の魔法使いは、放出した魔力の三割から五割が拡散する。それが当たり前だと思っている。だが……」公爵は、イリスの作った式をじっと見た。「お前の式には、拡散がない。全部使っている」
イリスは少し首を傾けた。
「それは……普通ではないのですか?」
「普通ではない」
断言だった。感情のない声で、しかし確かな確信を持って。
「魔力量が多いことは、才能だ。だが制御精度が高いことは、また別の才能だ。世間は前者しか見ない。後者がどれほど価値を持つか、戦場に立ったことのない者にはわからない」
イリスは、じっと公爵の言葉を聞いていた。
褒められた経験が、彼女にはほとんどなかった。
だから最初、この男が何を言っているのかわからなかった。称賛の言葉を受け取るための器が、彼女の中にはなかった。十八年間、存在しなかったから。
しかし。
確かに。
今この男は、彼女の魔法を——誰も見向きもしなかったあの式を——正しく評価しようとしている。
「……動揺しているか?」
公爵の言葉に、イリスは我に返った。
「いいえ」と答えた。が、一拍遅れた。
「嘘だ」
断言された。イリスは目を瞬かせた。
「顔には出ていないが、式の末尾が一瞬ぶれた。感情が乱れると制御に影響するらしいな、お前は」
……よく、見ている。
イリスは視線を少し落とした。
「……褒められることに、慣れていませんでした」
静かな告白だった。
公爵は何も言わなかった。
ただ、机の上の書類を一枚取り上げ、イリスに差し出した。
「俺の領地に来い」と彼は言った。「仕事がある」
「仕事……ですか」
「お前に一つ聞く。今、行くべき場所があるか」
イリスは答えなかった。答えは、明らかだったから。
「ならば来い。正式に雇う。給金も出す。お前の能力を、正しい場所で使え」
正しい場所。
イリスはその言葉を、心の中で繰り返した。
「……わかりました」と、彼女は言った。
それだけだった。感謝の言葉も、歓声もなかった。ただ静かな同意。
公爵はそれで十分だと思ったらしく、すぐに次の書類へと目を移した。
イリスは、自分の手のひらをそっと見た。
この手が、正しい、と言われた。
初めての感覚が、静かに胸の底に沈んでいった。
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第四話 領地へ
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レグルス公爵領は、王都から馬で三日の距離にある。王国の西端に位置し、現在進行中の対外戦争において最前線を支える補給と防衛の要衝だ。
領地に入ってすぐ、イリスはその規模に少し目を見張った。
広大な土地に、軍事施設と民間集落が整然と組み合わさっている。無駄がない。まるで巨大な魔法式のようだ、と彼女は思った。全体の構造に、意図が見える。
公爵の屋敷に着いて最初に案内されたのは、執務棟の一室だった。
「明日から戦略会議に同席しろ」と公爵は言った。「発言の必要はない。見ていればいい」
「わかりました」
「一週間後に、補給線の見直しがある。それに向けて資料を読んでおけ」
山のような資料が、机の上に置かれた。
イリスはそれを一晩で読んだ。
翌日の戦略会議は、十人ほどの将校が集まる場だった。全員が公爵より年上で、武功を持ち、イリスを明らかに「なぜここにいる」という目で見た。
イリスは壁際に座り、発言しなかった。ただ、地図と数字を見ていた。
会議は三日続いた。
四日目の朝、イリスは机の上に、一枚の修正図面を置いた。
誰に言われたわけでもなかった。
ただ、三日間で確認した補給線の欠陥が、我慢できなくなっただけだ。
将校たちが出勤してくる前に、公爵が先に見た。
図面を広げ、一分ほど黙って見ていた。
「これは」と公爵は言った。
「余計なことをしたなら、申し訳ありません」
「……何も言っていない」
公爵は図面を持ったまま、長い間見ていた。
補給線は今、A地点からD地点へ向かう際にB経由で三回の積み替えを必要としていた。イリスの修正案は、中継基地をひとつ増設することで積み替えを一回に減らし、さらに輸送速度を四割上げる試算を添えていた。
「この試算に、根拠はあるか」
「添付の計算書に記載してあります」
「……見た。聞いているのは、その前提だ。この道路の通行可能重量は、どこから取った」
「三日目の会議で、西部道路の整備報告が出ていました。その数値から逆算しました」
沈黙。
将校たちが会議室に入ってきた。机の上の図面を見て、怪訝な顔をした。
「閣下、それは?」
「変更案だ」と公爵は言った。「採用する」
将校の一人が口を開いた。「ですが閣下、この案は……」
「効果があるかどうか、試算を確認してから話せ。数字は添えてある」
そこで将校は初めて、イリスを見た。
「この者が……?」
「俺の参謀だ」と公爵は言った。
参謀、という言葉が、会議室に静かに落ちた。
イリスは何も言わなかった。参謀という言葉に慣れていなかったし、それに相応しいとも思っていなかった。ただ欠陥が気になったから修正しただけだ。
しかし修正案は採用された。
二週間後、前線からの報告が届いた。補給の遅延が解消され、兵站の滞りで食料不足になりかけていた前線の一個師団が、問題なく作戦を継続できているという内容だった。
将校の一人が、会議の席でぼそりと言った。
「……兵が、助かったな」
イリスは、その言葉を聞いていた。
その夜、一人で廊下を歩いていると、後ろから足音がした。
「成果が出た」
振り返ると、公爵がいた。
「存じています。報告書を読みました」
「お前の案だ」
「欠陥を見つけただけです。手を動かしたのは将校の皆さんで——」
「イリス」
名前を呼ばれた。初めて、名前だけを呼ばれた。
イリスは言葉を止めた。
「君は、戦場を変えられる」
静かな声だった。甘くも、大げさでもなかった。ただ、事実を述べるような、確かな声だった。
イリスの胸の中で、何かが小さく揺れた。
初めて、必要とされた——と、彼女は思った。
声には出さなかった。ただ、一礼して廊下を歩いていく彼女の背中は、いつもより少しだけ、静かな温度を帯びていた。
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第五話 再会
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王都への帰還は、突然決まった。
国王直々の召集状が届いたのだ。戦況報告のため、主要な将軍と貴族が一堂に会する場とのことだった。
公爵はイリスを同行させた。
「俺の補佐として」と彼は言った。「反論があるか」
「ありません」とイリスは答えた。
王都に戻るのは、追放されて以来初めてだった。
馬車の中で、イリスは窓の外を見ていた。懐かしいとは思わなかった。帰りたいとも思わなかった。ただ、仕事として来る場所になった、と思った。
王都に入ると、すぐに噂が立った。
「レグルス公爵が、謎の女を連れている」「ヴァルモンド家の追放された娘らしい」「何の能力もないと聞いていたが」
社交界の情報伝達は早い。イリスは気にしなかった。
問題は、翌日に起きた。
報告会の前日、公爵の部下が血相を変えて執務室に飛び込んできた。
「閣下。第三王子殿下が、閣下の補給線改革の内容を……独自の提案として、先に報告するとのことで」
公爵は書類から目を上げた。「詳しく言え」
「先ほど、王子殿下の側近から通達がありました。明日の報告会で、殿下が西部戦線の兵站改革案を自ら提案される、と。その内容が……閣下の——いえ、イリス様の修正案と、ほぼ一致しているとのことです」
沈黙。
イリスは書類から顔を上げなかった。
「どこから漏れた」と公爵が言った。
「調査中ですが……報告書が王都の情報商人を経由したと思われます。殿下の側近が買い取ったかと」
公爵の顔が、無表情のまま、しかし何か硬いものを帯びた。
「イリス」と彼は呼んだ。
「聞いていました」とイリスは言った。
「腹は立つか」
少し考えた。
「……立たない、とは言えません。ですが、驚いてもいません」
「そうか」
「問題は、殿下がその内容を正確に理解できているかどうかです」とイリスは続けた。「あの案には、一見単純に見えて、前提条件がいくつかあります。それを理解せずに説明すれば、必ず綻びが出ます」
公爵は、じっとイリスを見た。
「明日の報告会で、見ていろ」とだけ言った。
翌朝、王城の大広間には主要貴族と将軍が集まっていた。
エドワード王子が登壇したとき、イリスは会場の隅でその様子を見ていた。
王子は、磨き上げられた礼装をまとい、自信に満ちた顔で報告を始めた。
「此度の西部戦線における兵站改革の件、私が提案したものをもとに——」
イリスは、静かにその言葉を聞いた。
自分の案が、別の人間の声で読み上げられていく。
怒りは来なかった。
ただ、静かな確信があった。
あと少し、待てばいい。
王子の説明が進むにつれ、将軍の一人が眉を寄せた。
「殿下、中継基地の増設についてですが、その財源はいかがお考えで?」
沈黙。
王子は、用意されていた手元の紙を見た。
「財源は……追加予算で」
「追加予算の請求先は? 現在の戦時予算配分では余裕がないはずですが」
「それは……」
王子は、答えられなかった。
当然だ。その答えは、イリスの計算書の後半部分にあった。既存の非効率経路を廃止することで生まれるコスト削減を財源にする、という設計だ。しかし王子の手元には、前半の「改革案」しかなかったらしい。
会場がざわめいた。
将軍の一人が、公爵を見た。公爵は何も言わなかった。ただ、イリスに目をやった。
イリスと公爵の目が、静かに合った。
続きは、明日だ。公爵の目がそう言っていた。
イリスは一度、小さく頷いた。
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第六話 逆転
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翌日の公開報告会には、昨日より多くの貴族が詰めかけていた。
昨日の報告会で第三王子の答弁が詰まったという話は、一晩で王都中に広まっていた。社交界の情報網は、改めて恐ろしいとイリスは思った。
公爵が登壇した。
会場が、静かになった。彼が立つだけで空気が変わる。それだけの重みを、この男は持っていた。
「昨日の報告の件について、補足を申し上げます」
淡々とした声。感情がない。しかしその声は会場全体に届いた。
「西部兵站改革案の詳細を、改めて提示いたします」
展開された資料は、イリスが作った計算書の完全版だった。財源の設計、試算の根拠、前提条件、リスク評価。すべてが揃っていた。
将軍たちが資料を見始める。あちこちで小声の会話が起きる。
壇上の隅に立つイリスに、視線が集まり始めた。
国王が、資料から顔を上げた。
「レグルス」と国王は言った。「これは、なかなかに精巧な設計だ」
「ありがとうございます」
「財源の計算が特に面白い。既存経路の廃止と新設のコスト差を事前試算している。こういった視点は……誰が?」
静寂。
全員が、公爵を見ていた。
「彼女です」と公爵は言った。
会場の視線が、イリスへと集まった。
ざわめきが、波のように広がった。
イリスは動かなかった。背筋を伸ばしたまま、感情のない顔のまま、ただ立っていた。
「ヴァルモンドの……娘か?」と誰かが言った。「追放されたという?」
「あれが魔力不足の?」
「公爵が連れてきたのは、そういうことか」
壇上のエドワード王子が、顔を赤くしていた。
それはそうだろう、とイリスは思った。
自分が「無能」と断じた女の作った案を、自分の功績として報告し、そしてその女本人が今、国王の前で正当な評価を受けようとしているのだから。
「イリス・ヴァルモンド」と国王が言った。「前に出なさい」
イリスは静かに歩み出た。
国王と目が合った。
「この案は、本当にお前が作ったのか」
「はい」とイリスは言った。「公爵閣下の会議で得た情報をもとに、補給線の欠陥を見つけ、修正案を作りました」
「欠陥を見つける、というのは……」
「数値の矛盾と無駄を探すのが、得意です」とイリスは言った。「魔力量は少ないのですが」
会場に、苦笑のような空気が流れた。
国王が笑った。珍しいことだった。
「面白い娘だ」と国王は言った。「レグルス、この者を手放すな」
「承知しております」と公爵は言った。
王子の席から、視線を感じた。
イリスはそちらを見なかった。
自分が見るべきものは、もう決まっていた。
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第七話 赤い顔の王子(視点:エドワード王子)
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会場を出たエドワードは、廊下を早足で歩きながら、内側で燃えている何かを持て余していた。
恥だ。
これは恥だ。
国王の前で。将軍たちの前で。あれほど多くの貴族の前で。
「彼女です」——あの公爵の、言葉が、すべてを壊した。
エドワードは柱の陰に入り、拳を握った。
わからなかった。本当に、わからなかったのだ。
追放したとき、イリスは泣かなかった。取り乱さなかった。ただ「承知いたしました」と言って、去っていった。
その姿を見たとき、エドワードは思ったのだ——この女は、思ったより諦めが早い、と。
悔しくもなかったのか、と。
だから見くびっていた。
魔力量が少ない。舞踏会でも目立たない。会話も少ない。ただそこに在るだけで、何もしない。あの婚約は、家同士の政略であって、彼女に特別な価値を見いだしたことなど一度もなかった。
しかし。
会議室に提出されたあの計算書を、エドワードの側近は「使える」と言って買い取ってきた。内容を読んで、エドワードも同意した。単純に見えた。補給経路を変える。中継を減らす。それだけのことだと思っていた。
だから登壇できたのだ。
だから言えたのだ。「私が提案したものをもとに」と。
しかし将軍に財源を問われた瞬間、頭が真白になった。
計算書の後半——財源設計のページは、側近が「省略してよい」と言ったページだった。「細かい数字は将軍に任せればいい」と言ったのだ。
馬鹿な側近め、と思った。
だが。
エドワードは、廊下の壁に背をつけた。
……本当に、そうなのか。
財源の話が出るとわかっていれば、準備できたはずだ。それができなかったのは——自分が、あの案を理解しようとしなかったからではないか?
いや。そんなことはない。
あれは難しすぎた。
あの計算式は、普通の貴族には理解できない水準だ。そもそも、なぜイリス・ヴァルモンドにあれができる? 魔力量最低限の、無能な令嬢に?
……魔力量と、関係がないのか。
その考えが頭をよぎった瞬間、エドワードは顔を歪めた。
関係ある。あるに決まっている。
魔力量が多いほど、優れている。それは貴族社会の常識だ。父王もそう言っていた。教師もそう言っていた。だからこそイリスは「相応しくない」と——
「彼女です」
あの公爵の声が、再び頭の中で再生された。
レグルス公爵。エドワードより五歳上の、戦場帰りの無骨者。いつも無表情で、社交界にもほとんど顔を出さず、ただ戦果だけを積み上げてくる男。
あの男が、あの女を認めている。
あの男の目の前で、今日、国王がイリスを称えた。
エドワードは、深く息を吐いた。
悔しかった。
腹が立った。
しかし一番耐えられないのは——あの瞬間のイリスの顔だった。
国王に呼ばれ、前に出て、「魔力量は少ないのですが」と言ってのけたあの顔。
感情がなかった。怒りも、悔しさも、勝ち誇った様子もなかった。ただ淡々と、事実を述べていた。
まるで、こちらのことなど、もうどうでもいいかのような——
それが、エドワードには、何より堪えた。
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第八話 拒絶
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報告会の翌日。
イリスが公爵邸の執務室で資料を整理していると、廊下に人の気配がした。来訪者の名を聞いて、彼女は少しだけ手を止めた。
エドワード第三王子。
通すかどうか、使用人が確認を求めてきた。
「通してください」とイリスは言った。
王子が入ってきたとき、イリスは立ち上がり、礼をした。相手は王子だ。礼儀は守る。
「……久しぶりだな」とエドワードは言った。
「そうですね」とイリスは答えた。
王子は、昨日より随分落ち着いた様子だった。あの場の赤面した顔とは違い、今は……何か言い訳を探している顔に見えた。
「昨日のことは」と王子は口を開いた。「……その、俺の側近が勝手に動いた。俺は君の案を盗もうとしたわけでは——」
「殿下」とイリスは言った。
王子が言葉を止めた。
「それが事実であれば、詳細は側近の方にご確認ください。私の関知することではありません」
王子は少し黙った。
「……怒っていないのか」
「怒っていても、仕方がありません」
「……そうか」
また沈黙。
王子は、部屋の中を一度見回した。地図と資料と計算書が積み上がった部屋。イリスの仕事場だ。
「俺は……お前を、間違って評価していた」と王子は言った。
声に、何か苦いものが混じっていた。
「わかっている。今さら何を言っても、言い訳にしかならないことも」
「はい」とイリスは言った。
「だが……戻ってきてくれないか」
静寂。
「婚約の件は、再考できる。今のお前を見れば、父王も——」
「殿下」
イリスは、静かに遮った。
それまでと同じ声だった。感情のない、穏やかな声。しかしその中に、細い芯のようなものがあった。
「あなたは、あの夜、私を無能と言いました」
王子が、身を固くした。
「皆の前で。それが王妃に相応しくない理由だと。それを、家族も含めた全員の前で」
「それは……」
「間違っていたのかもしれません。私の能力は、確かに見えにくかった。ですから誤解が生じたのは、理解できます」
イリスは一歩、前に出た。
「ですが——あなたの世界では、私は無能でした」
王子は答えなかった。
「あなたの評価基準で、私は無価値でした。そしてあなたはその基準で私を断じ、皆の前で捨てた。それは事実です」
「……しかし今は——」
「今は、私にも見える場所ができました」とイリスは言った。「あなたの場所ではない、別の場所が」
静かな声だった。
怒りではなかった。恨みでもなかった。
ただ、事実だった。
「戻る理由が、ありません」
王子はしばらく、何も言えなかった。
部屋の窓から、午後の光が差し込んでいた。その光の中でイリスは立っていた。淡い銀髪が、静かに光を受けている。
この女は、怒っていない——とエドワードは思った。
怒ってくれれば、まだよかった。怒りは感情だ。感情があれば、つけ入る余地がある。
しかしイリスは怒っていない。
ただ、こちらを、もう必要としていない。
それだけだった。
「……失礼します」
イリスが一礼した。
話は終わった、という礼だった。
エドワードはしばらく立っていたが、やがて部屋を出た。
廊下に出たとき、すれ違いざまに公爵と目が合った。
公爵は何も言わなかった。ただ、金色の目でエドワードを一瞥し、通り過ぎた。
その背中を見送りながら、エドワードは思った。
自分が捨てたものが、何だったか。
初めて、少しだけわかった気がした。
しかしそれは、もうどうにもならないことだった。
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最終話 選択
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王都での用務が終わり、公爵がレグルス領への出発準備を始めた夜。
イリスは中庭に出ていた。
王都の夜は明るい。魔法灯が街を照らし、どこかから音楽が聞こえてくる。半年前なら、あの音楽の聞こえる場所に招かれていたかもしれない——などと考えて、イリスは静かに首を振った。
招かれていたとしても、壁際に立っていただけだ。
足音が聞こえた。
「ここにいたか」
公爵だった。
珍しい。彼が人を探して来ることは、ほとんどない。イリスは一礼した。
「何か?」
「いや」と公爵は言った。「いや……ある」
珍しく、言葉が詰まった。
イリスは少し驚いた。この男が言葉に詰まるのを、初めて見た気がした。
「王子が来たそうだな」
「はい。戻るつもりはないと伝えました」
「……そうか」
公爵は、中庭の先を見ていた。
しばらく沈黙が続いた。
虫の声がした。風が、緩やかに通り過ぎた。
「聞くが」と公爵が言った。「お前は、自分のことを、どう思っている?」
「どう、というと」
「力があると思うか。価値があると思うか」
イリスは少しだけ、考えた。
「……わかりません」と彼女は言った。「今の私は、役に立てていると思います。でもそれは、閣下が適切な仕事を与えてくださっているからで——」
「違う」
断言だった。
「俺は仕事を与えたのではない。お前が問題を見つけ、お前が解いた。俺はただ、その場所を提供しただけだ」
「それが、大切なことです」
「……頑固な女だな」
公爵は、わずかに息を吐いた。
そして、向き直った。
「俺の隣に立て」
イリスは、その言葉を一秒、受け取れなかった。
「……隣、に」
「参謀として、ではない。それ以上の意味で言っている」
はっきりとした言葉だった。
回りくどくなかった。飾りがなかった。ただ事実のように、告げられた。
「私は」とイリスは言った。「駒です」
「何?」
「今まで、そう思ってきました。誰かの役に立つために存在する駒。婚約という形で使われた駒。それが私の在り方だと——」
「違う」
また断言。
「お前は駒ではない。駒は場所を選べない。しかしお前は今、自分で選んだ」
イリスは目を瞬かせた。
「……王子の申し出を断った。それはお前が選んだことだろう?」
「それは」
「対等だ」と公爵は言った。
その一言が、静かに落ちた。
「俺の隣は、駒の場所ではない。対等な者が立つ場所だ。それがお前には相応しい」
イリスは、長い間黙っていた。
対等、という言葉が、胸の中で反響していた。
十八年間、誰にも言われなかった言葉だった。
期待されなかった。必要とされなかった。あるいは利用はされたが、対等とは見なされなかった。
この男は、初めて会った日から、ただ事実だけを言い続けていた。
「精度だ」と言った。
「戦場を変えられる」と言った。
「彼女です」と、国王の前で言った。
そして今——「対等だ」と。
イリスの手が、わずかに動いた。
公爵が、先に手を差し出していた。
大きな手だった。戦場で剣を握り続けた手。しかし、今夜は穏やかに、開かれていた。
イリスは、その手を見た。
そっと、自分の手を重ねた。
手のひらが触れた瞬間、公爵の指が静かに絡んだ。
それだけだった。
抱擁もなく、涙もなく、大げさな言葉もなかった。
ただ、二人が中庭に立っていた。
どこかで夜風が吹いて、イリスの銀髪を揺らした。
彼女は、繋がれた手を見ながら、静かに思った。
——私は無能ではなかった。
——ただ、場所を間違えていただけ。
虫の声が続いていた。
風が、緩やかに流れていた。
それで、十分だった。
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございました!
「追放された無能令嬢は、冷酷公爵にだけ本性を見抜かれる」、いかがでしたか?
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