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ガブリエル洋品店

王都から、汽車で6時間ほど。海に面した中枢都市ブレンナーるは、朝の光に磨かれていた。御者の掛け声、馬の蹄が石畳を打つ音、街路樹がわずかに揺れて撒き散らす緑の匂い。通りを行き交う人々の衣擦れが連なって、私の耳にさらさらと触れる。日傘の骨に初夏の陽が透け、レースに小さな火花のような光が散る。私はその光を肩に受けながら、通りの一角にある自分の店へ視線を止めた。


看板の上で金の文字がうっすら朝露を弾いている──〈ガブリエル洋品店〉。馬車の車輪が店先をかすめ、ふと止まる。見慣れた上等の車体。扉が開き、艶のある布地がさらりと揺れて、夫人が一人降り立つ。背筋の通った、笑い方の柔らかな人だ。


「いらっしゃいませ、カトリーヌ夫人」


ベルの音と一緒に私の声が店内へ転がる。帽子の山、ショーケースの留め金、並べられた新作の手袋。自分で選んだ色でも、並べ終えるといつもほんの少し驚く。これが今日の私の武器なのだと。


「新作が入ったと聞いたから来てみたのよ」

カトリーヌ夫人は入口で微笑み、うっすらと視線を巡らせる。

「次の社交会用に見繕ってくださる?」


私は頷き、ソファ前のローテーブルに用意していた箱を開けた。羽根飾りを低く寝かせた帽、深さの異なるクラウン、縁に細いリボンを巻いた控えめなもの。それから、今回は思い切って仕立てた日傘も。柄の先に小さな真鍮の輪を付けたのは、歩くたび微かな音が鳴って楽しいからだ。


「まあ、どれも素敵」

夫人の目尻がほどける。

「次のパーティに着ていくわ。全部いただけるかしら?」

「もちろんです。お買い上げありがとうございます」


奥に目配せすると、店員たちがすばやく動く。包み紙の音、リボンを引く指の音、布地が紙の上で一度だけ鳴らす小さなため息。私はそのすべてが好きだった。ここでは私の手から生まれたものが、誰かの装いの一部になっていく。


「また人が増えたみたいね」

夫人がお茶に口をつけながら目ざとく言う。

「はい、仕立て職人を一人、店員を一人」

言葉にすると、胸のどこかが静かに温かくなる。

「女のあなたが、しかも貴族出身のあなたが商売なんて、最初はどうかしてると思ってたけれど──順調のようね」

「すべて奥様方のおかげです」私は軽く会釈する。

「あなたのデザインが好きなのよ。周りもみんな欲しがっているわ」

真正面から言葉を受け取るのは少し照れくさい。けれど、私は笑った。

「光栄ですわ」


扉の前に立ったとき、夫人の表情がわずかに曇る。

「でも、最近。あなたの元旦那様はどうなの?」

指の先で扉を押しながら、私はほんの一瞬だけ呼吸を止めた。

「方々で遊びまわっているようだけど……」

「旦那様は旦那様。私は私、ですから」

そう答えるとき、口の中に金属の味がする。言い慣れた言葉は、時々刃物に似ている。


「何かあったら、相談してね?」

「ありがとうございます、カトリーヌ夫人」


馬車が通りへ滑り出る。私は見送ってから、日傘を手に取った。

──さて、帰ろう。

陽は傾き始め、店の影は通りの石目をまたいで伸びる。郊外の屋敷へ続く道は少し寂しいが、日傘の下は自分だけの部屋みたいに落ち着く。


玄関の鍵を回す。空気は家の匂いがした。磨いた木、古い本、そして薄くたばこの残り香。鞄をテーブルに置いて、息をひとつ吐く。

「……ふう」

「ああ、ガブリエル」

背筋のどこかが跳ねた。思わず振り返る。


貴族風の男が立っていた。広い肩、無造作に片手で持つパイプ。ジャック。

「帰ったのか」

嬉しくはない。なのに私の声は礼儀正しく整う。

「旦那様……」


「珍しいですわね、こんな時間に家にいるなんて」

「いや、たまには君と夕食を共にしたくてね」

作り笑いの上手な人だ。私は台所に合図し、テーブルに食事が並ぶ。玉ねぎをじっくり炒めたスープは、今夜はよくできている。


「なかなか上手いな。このスープ」

「……何か、お話があるんですよね?」

私の声の影に、自分でも気づくほどの硬さが混じる。

彼が私に穏やかに接してくる時は決まっている。

──金の話。


ジャックも私も下級貴族の末子だ。継ぐべき領地はなく、形だけの家名が肩に乗る。結婚して間もなく、夫婦の営みは静かに消えた。彼の興味は早々に別の場所へ移り、私は私の生き方を探し始めた。


「最近、羽振りが良いそうじゃないか」

ジャックは平静を装ってスプーンを置く。

「新しく使用人を雇ったって聞いたぞ」

「ええ。店が忙しくなりましたから」

「どうだろう、私の仕事にも少し資金を……」

笑顔が皮一枚分だけ薄くなるのが見えた。

私は黙って彼を見た。言葉にしない拒絶は、時に言葉よりもよく伝わる。彼の目の色が、わずかに苛立つ。


結婚した頃から、彼はお金を家に入れなかった。生活はひっ迫し、私は侍女から教わっていた仕立てを引っ張り出した。ミシンのハンドルを回し、布を送る。針が落ちる音に呼吸を合わせるうち、指先に生き物が宿る感覚を覚えた。試しに作った帽子を社交会に被っていくと、好奇の視線が集まった。輪の中心にいたのはカトリーヌ夫人。彼女の指先が縁をなぞり、笑みが広がる。評判はすぐ商売になり、私は小さな店を持った。布の手触りと、お客様の目の輝きが、私の毎日を形づくるようになった。


「お金は渡しませんよ」

私はスープの湯気越しに告げる。

「私の仕事は私の仕事。旦那様の仕事は旦那様の仕事──そう約束したでしょう」

「いい馬がいるんだ。間違いなく走る。今投資すれば大儲けになる」

彼は身を乗り出す。私はスプーンを皿の縁に置き、沈黙する。苛立ちが彼の指先で跳ねる。

「誰が商売を認めてやったと思うんだ。女が、貴族が商売など……どれだけ私が恥をかいたか」

「私たちは名ばかりの下級貴族です」

私は淡々と返す。

「見栄だけでは食べていけません」


「元手を出したのは僕だ」

「あれは、私の父が持たせた持参金です」

「だがこの家の金だろう?」

皿の上のスープが、静かに温度を下げていく。


「……ガブリエル、金が必要なんだよ」

「そう申されても」

「子供ができたんだ」

空気が止まった。耳鳴りが遠くへ引いて、代わりに血の音が近づいてくる。

「は?」

「恋人がいる」

私はようやく自分の心臓の位置を思い出す。

「その間に男の子ができた。僕の子として育てたい」


怒りは熱ではなく、むしろ氷に似ている。中から静かに硬くなっていく。

「それは旦那様と、その恋人の問題です。私には関係がありません」

「だから──」

彼の目に、焦りと計算が一度に灯る。


「この家を継がせたいんだ。その子を私たちの養子にしたい」

「……継がせるべき領地など、私たちには無いでしょう?」

「私の競馬事業と……」

彼は握りしめた拳を緩め、目を見開く。

「君の店があるじゃないか」

私の中で、何かがはっきりと音を立てて切れた。


彼は早口になる。

「君の商売は固い。だが上限がある。そこの収益を、リスクはあるがリターンの大きい競馬に回す。いつか勝ち馬が現れて大儲けだ。そうすれば資産ができる。世継ぎが必要だろう?」

「……しい」

自分の口の中で言葉が砕ける。

「何か言ったか?」

咳払いで誤魔化す彼を見上げる。

「いいか、養子は迎える。君は事業は私に任せ、家事に専念するんだ。乳母も雇う。心配はいらない」


椅子が床を擦る音が、やけに大きく響いた。

「馬鹿馬鹿しいと言っているんですよ、旦那様」

彼の瞳孔がすこし開く。


私は止まらずに言葉を重ねる。

「なぜ私が、旦那様とどこぞの女との子を育てねばなりません? 乳母も、その“どこぞの女”でしょう? その雇い賃は誰が払うのですか。私、ですよね」

指先で空気を指す。

「どこからそんな発想が出てくるのです。旦那様は──アホなんですか」

「なんだと……言っていいことと悪いことが──」

「離縁しましょう」


静かだった。自分の声の輪郭だけがはっきりしている。

「離縁しましょう、と言っているんです」

「正気かい? 結婚は神に祝福されたもので、僕たちの意思では──」

「時代は変わっています」


この国では、破綻した夫婦に裁判所は財産分与と離縁を認める。私たちはとっくに壊れている。壊れたものを抱いて眠るほど、私は器用ではない。

「この家は差し上げます。私は店をもらいます」

彼は口を開け、私を指差した。

「行き遅れていた君をもらってやったのは僕だぞ」

「私が結婚を遅らせたのは、亡き父の領地を手伝っていたからです」

「いずれにせよ、君を引き取ったのは僕だ」

「放蕩人に何が引き取れます?」

「放蕩人だと」

「ええ。ご近所のご婦人方の評判です。まあ、もう放蕩するお金もなくなるのでしょうけれど」


音より早く、頬に熱が走った。視界が一瞬白く跳ねる。殴られた、と理解したのは、テーブルの角が腰に当たって痛みがまとまってからだ。私は目を開き、ゆっくりと鞄を探った。羊皮紙とペン。テーブルに置く音が、彼の胸のあたりで止まる。


「今すぐ、離縁届にサインを」

「……随分、用意がいいな」

「実際に出す気はありませんでした。ですが、もう──このような屈辱的な結婚は耐えかねます」


「屈辱? 最近、君を抱かなかったことか?」

彼の笑いは浅く、温度がない。手が伸びてくるのを、私は見た。軽く、しかし確かに、その手を払う。

「私に、二度と、触るな。ジャック・レ・バルサン」


ペン先が羊皮紙を引っかく。彼の名が黒い線となって沈む。

「いいんだな? 家だけじゃない。この家の金も私のものだ」

「ええ。使用人の給金は払ったばかりです。在庫があれば十分です。あとは私の商才で稼ぎます」

「ふん、女が商才ね」

彼の鼻で笑う音が、思いのほか軽い。


雨の匂いがした。遠くで雷が喉を鳴らし、最初の一滴が窓に当たる。私は傘を取った。

「さようなら、旦那様」


玄関を開けると、雨脚は本物になっていた。日傘の上で粒が弾け、細かい震えが掌に伝わる。石畳が暗く濡れ、街灯が夜を少しだけ早く連れてくる。

わからないなら、わからせればいい。女の力を──いや、違う。

私の力で。

レース越しの世界は少し霞んで、それでも前方だけははっきりしている。私は踵を返さず、そのまま歩いた。雨の音が、足取りの数だけ増えていく。


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