だんさん池
今は✕✕市となっているが、当時は✕✕町だった私の故郷には、夜にひとりで近づいてはいけないと言われている池があった。特に何池という名前はなかったはずだが、湖かと思われるような大きな池だったと記憶している。
池は、山から少し下ったところにあった。鬱蒼とした林の中の、細い山道をしばらく進んだ先だ。昼間でも薄暗い場所にあり、夜に見るとその暗さはひとしおで、私はどうしてもひとりで行く気にはなれなかった。
夏休みには虫かごを持って友人と山へクワガタ取りに行くことがあった。背の高い蓼か何かをかき分けて歩くのだが、池の近くは蚊が多く、息を止めて走って通り抜けた記憶がある。
私が池で生き物を見たことは、一度もない。しかしある日、当時仲の良かった友人から「池に鯉がいる」と教えられた。しかもなかなかの大きさらしく、私は一目見てみたくなった。そこで夜中に家を抜け出し、懐中電灯を持ってひとりで池に向かったのだ。
昼間も不気味な場所だが、夜は段違いだった。梟の声にびくつきながら山道を行き、ようやく着いた池は真っ暗で、水面は森と同化したかのように見えなかった。私は懐中電灯であちこち照らしてみたのだが、鯉どころか生き物の姿はなかった。
餌でもあれば食いつくだろうか。足元に懐中電灯を向けてみるが、雑草が茂っているばかりだった。コオロギやオケラでもいればと思い探してみるが、虫もいない。池の周りに沿って、草の深くない歩けそうな地面をじっと俯き歩く。草はライトを黄色に跳ね返し、その下の影を一層黒くしていた。
突き当たった樹の下あたり、土が露出しているところに、小豆ほどの大きさの赤黒い木の実がいくつも落ちていた。私はそれらを手ですくい、ひとつ摘んで池へと放り投げてみた。ぽちゃん、と音が響き渡る。しかし何も現れない。ひとつふたつでは駄目なのかもしれない。そう思って木の実を全部投げ入れたところで、ふと顔を上げて水の方へ目を向けた。
黒い闇の中に、白く光るものがあるのが見えた。月が映っているのだろうと最初は思ったが、よくよく見るとそれは月よりもずっと大きい。これが鯉だろうか。いわゆる「ヌシ」なのかもしれない。しばらく音を殺して眺めていたが、影は水面に上がってくる様子も、池の中に潜っていく様子もなく、ただ円いシルエットを揺らしていた。夢中になっていた私は、誰かに池に突き落とされた。
パニックの私の頭を押さえつける。呼吸ができずもがく。決して深くないのに。池のどぶのような臭い。泥と藻が口に入り込む。必死に腕を振り回してもがきつづけたが、その後の記憶がない。意識を失ったらしい。
体が半分ほど水に浸かっているような状態で目が覚めた。異臭と強い胃のむかつきで私は吐いてしまった。
落ち着いてから周りを見回すと、まだ真っ暗だった。池に映っていた影も、私を突き落とした人物も、そこにはいなかった。朦朧とした頭のまま池から這いずり上がり、重たい体を引き摺るようにしながら帰路についた。
こんな二十年ほども前のことを思い出したのは、同窓会の話を聞いたからだ。あいにく私は仕事の都合で参加できなかったが、三カ月前に小学校の同窓会があった。そのときの話を、最近飲みに行った旧友から聞いたというわけだ。
彼から聞いて、今さらながら池についてわかったことが三つある。
ひとつめは、池は「だんさん池」と呼ばれていたこと。おそらく通称のようなものだろう。人づてということもあり「だんさん」がどのような字なのか、どのような意味なのかはわからない。段三? 団散? あるいは、「さん」は敬称で人名なのだろうか。
ふたつめは、池には何者かが棲んでいるといういくつかの噂があったらしいこと。私が聞いた「鯉がいる」というもののほかにも、「鯰がいる」「ヌシがいる」「河童がいる」「逆さまの月がある」なども言われていたそうだ。
みっつめは、私の他にも同じように池で溺れた人がいたということ。一人は男子でもう一人は女子だった。どちらも夜に池に近づいたらしく、女の子が溺れてしばらくは教員が見回りをしていたとわれわれの元担任が話していたそうだ。
私は気になって少し調べてしまった。なぜあんな辺鄙で無名な池で三人もが溺れてしまったのか。私たちは何かに引き寄せられてしまったのだろうか。地図アプリで調べると、記憶にあるだんさん池の場所には、池や湖はなく何もない平地が続いていた。ずいぶん経っているので、埋め立てられてしまったのだろうか。水不足の年もあったので干上がったのかもしれない。
ネットにもまったくといっていいほど情報はなかった。「✕✕町」という単語も含めて検索し、あるブログにたどり着くまでに二時間近くかかっただろうか。そのブログは、ひと昔前のデザインで、自分の身の回りであった何気ないことを隔月で投稿している個人サイトだった。そこにあった写真のキャプションに「だんさんいけになにかいる…」とあったのだ。投稿日を確認すると八年前。夕方に撮影したのだろう写真には、記憶と変わらぬ暗い池と、奥に赤黒い実をつけた木が写っている。私が昔見た水面の白い光は、月ではなく顔だった。木の実は夥しく土に広がっていた。