第5話「旅立ちの朝と騎士の誓い」その3
静かな夜明け。駐屯地の空はまだ薄紅に染まりきらず、空気には冷たい静寂が残っていた。
翔太はぼんやりと目を覚まし、木製の天井を見上げた。
――昨日の出来事が、夢のように感じる。
少女との遭遇。封呪の痕跡。騎士団への到着。
目まぐるしく変化する現実に、まだ心が追いついていない。
(でも……あの子、大丈夫かな)
ふと思い立ち、翔太は部屋を抜け出した。廊下には誰もおらず、警備の交代があったばかりのようだった。
階段を下り、廊下を進む。目指すのは、昨夜彼女が運ばれた医療室。
部屋の扉の前に立つと、中から微かに話し声が聞こえた。扉をノックすると、女性の衛生兵が顔を出した。
「あら、君が翔太君? 入っていいわよ。さっき、目を覚ましたばかりなの」
翔太が部屋に入ると、簡素な寝台の上に少女が座っていた。
色素の薄い髪はまだ乱れていたが、目には意志の光が宿っている。痩せてはいるものの、その瞳には不思議な強さがあった。
「……あなたが、助けてくれたの?」
小さな声だったが、はっきりと翔太を見つめながらの問いだった。
「えっと……俺は何もしてないよ。ただ、森で君を見つけて、それで……」
「でも、気づいてくれた。見つけて、運んでくれた。ありがとう」
少女は、ふと目を伏せた。
その仕草の奥に、長い恐怖と孤独の影が見えた気がして、翔太はそっと椅子を引き寄せた。
「……名前、聞いてもいい?」
少女は少し迷ったあと、静かに答えた。
「エルミナ。エルミナ・ノヴァリア」
その名を口にしたとき、翔太は何となく胸の奥がざわつくのを感じた。聞き覚えはない。けれど、耳に残るその響きに、言い知れぬ重みがあった。
「エルミナ、君は……どうしてあんな森に?」
翔太の問いに、彼女は短く息をついた。
そして、戸惑いながらもゆっくりと語り始める。
「私は、帝国の“学院”にいたの。魔法の才能を調べられて……でも、ある日突然、別室に連れていかれて……体が動かなくなって……目が覚めたら、森の中だった」
リアーナの予感が、的中していた。
ヴァルモール帝国の“実験”。魔素の強い子供を集め、何かに利用しようとしている。
翔太は無意識に拳を握りしめた。
「君は、逃げたんだね。あんな封印をされてでも」
エルミナは頷いた。瞳の奥に、怒りではなく、諦めでもない“意志”があった。
「私は……自分を誰かに決められたくなかっただけ。ただ、それだけなのに」
その言葉が、翔太の心を突き刺した。
(俺も……そうだった)
誰かに言われた通りに生きるんじゃなくて、自分の足で、自分の意志で――。そう誓ったばかりじゃないか。
翔太はそっと言葉を返した。
「じゃあ、俺と一緒に行こう。君も、この旅の仲間になってほしい」
エルミナは驚いたように翔太を見つめた。
「……いいの? 私みたいなのが」
「“みたいなの”なんて関係ない。君は、ここにいていい。それだけで、十分だよ」
エルミナの目に、涙が浮かんだ。
それは恐怖や悲しみではなく、生まれて初めて“居場所”を感じた者が流す、静かな涙だった。
翔太はその場に立ち上がると、医療室の窓を少し開けた。朝の澄んだ風が部屋に流れ込み、重く張り詰めていた空気が少し和らいだ。
「……気持ちいい風だね」
翔太が何気なくつぶやくと、エルミナも小さく頷いた。
「そう……こんなに静かな朝は、あまりなかったから」
帝国の学院という場所が、どんな環境だったのか。彼女の口ぶりから、そこが安心して眠れるような場所ではなかったことが伝わってくる。
翔太はふと、医療室の隅に置かれた小さな花瓶に目を留めた。誰かが手折ってきた野花が、水を張った器の中で揺れている。
「綺麗だな……。あ、リアーナに見せてあげようかな。あの人、花とか好きそうだし」
「……リアーナって?」
「ああ、俺たちの仲間で……魔法使いなんだ。すごく賢くて、優しくて、ちょっとお姉さんっぽい感じの」
翔太の説明に、エルミナの表情がわずかに緩んだ。
「ふふっ……君、誰かを紹介する時、すごく一生懸命になるのね」
「えっ? そう?」
「うん。でも、そういうの、悪くない」
エルミナがわずかに笑みを見せたのは、その朝の中で初めてのことだった。翔太もつられて笑みを返す。
そんなささやかなやり取りの背後で、医療室の扉が静かに開いた。
現れたのはリアーナだった。彼女は手に文書を持ち、いつもの落ち着いた表情で翔太たちの元へ歩み寄った。
「おはよう、翔太。それから……あなたが“エルミナ”ね」
エルミナはベッドに座ったまま、少し緊張した様子で頷く。
「昨日はありがとう。助けてもらって……」
「礼は必要ないわ。むしろ、無事に目覚めてくれて安心した。いくつか、確認させてもらえるかしら?」
リアーナは声の調子を変えることなく、穏やかに問いかけた。
翔太は一歩下がり、静かに見守る。
「……帝国の学院にいた、と聞いたけれど、そこから脱出する直前、何か“異変”を感じたことはある?」
「異変……?」
「たとえば、突然聞こえなくなった音、見えないはずの光、誰かの声……」
エルミナは目を伏せ、しばらく沈黙した。そして、ゆっくりと口を開く。
「……誰かの“夢”を見たの。私じゃない、誰かが過去に見た景色。黒い塔、空に浮かぶ島、崩れ落ちる神殿。……知らない場所なのに、なぜか懐かしい気がして……」
リアーナは一瞬だけ息を飲んだが、表には出さなかった。
翔太はすぐに尋ねた。
「それって、もしかして“幻視”とか……?」
「可能性はあるわ。魔素が暴走したとき、一部の高位適性者に起こる“時空共鳴”。過去や未来の断片が、無意識下で流れ込んでくる現象……でも、普通はもっと後になってから現れるものよ。エルミナは……」
言いかけたリアーナは、慎重に言葉を選ぶように続けた。
「……あなたは、本当に稀有な資質を持っているかもしれない」
翔太は、その意味をまだうまく理解できなかった。
けれど、エルミナが語った“見知らぬ過去”の記憶は、彼の中にも何かを呼び起こす気配があった。
「……あの光景を見たあと、気を失ったの。目が覚めたら、もう森の中で……記憶が曖昧で、時間の感覚も分からなかった」
エルミナの声は震えていたが、その瞳は真っすぐだった。
リアーナは彼女の言葉を黙って聞き終えると、しばらく考え込むように視線を伏せた。
「……時空共鳴が本当だとすれば、君の魔素は特定の“鍵”に反応した可能性がある。浮かぶ島、崩れる神殿、そして黒い塔……それらは、古代文明《エルヴィン王朝》の失われた記録にしか現れないはずの場所よ」
「古代文明……?」
翔太が聞き返すと、リアーナは頷いた。
「今のアルセリア大陸が築かれる遥か以前、膨大な魔法知識と技術を有していた伝説の王朝。《エルヴィン》の遺産は今なお各地に封じられていると言われているけれど、その詳細を知る者は少ないわ。エルミナの見た景色がそれなら――ただの幻視では済まされない」
翔太は息を飲んだ。
エルミナという少女は、偶然助けた存在ではなかったのかもしれない。何か大きな“導き”がそこにあったような気がしてならなかった。
「ねえ、リアーナ。これって……もしかして、俺たちがこの旅で向かうべき場所とも、関係があるんじゃないか?」
「……可能性は高い。むしろ、これが“始まり”なのかもしれないわ」
リアーナはゆっくりと立ち上がると、医療室のカーテンを閉めた。
朝日はすっかり昇りきっていたが、その光が何故か冷たく感じられた。
「翔太、準備を整えなさい。午後にはこの砦を発つ。次の目的地は“ルグラン丘陵”を越えて、《大地の祠》へ向かう。そこには古代文明の祭器が眠っているという伝承がある」
「わかった。……エルミナも、一緒に行こう。無理はしなくていい。でも、君自身のことを知るためにも」
翔太の言葉に、エルミナはしばらく沈黙し――そして、決意を帯びた眼差しで頷いた。
「……うん、行く。自分のこと、過去のこと、はっきり知りたいから」
翔太は微笑んだ。その横顔には、もはや“守られる側”ではなく、自分の意志で進もうとする少女の強さが滲んでいた。
その後、リアーナは砦の文書庫にこもり、古文書の断片を調べ始めた。
エルミナの語った“黒い塔”という単語は、伝承に何度も登場する“終焉の起点”と呼ばれる場所と一致する可能性があった。翔太はその様子を黙って見守りながら、静かに拳を握った。
「俺も……知りたい。なんでこの世界に来たのか。エルミナだけじゃなく、俺だって、何かに導かれてる気がしてる」
誰にも答えはわからない。だが、それでも進まなければ始まらない。
やがて日が高くなり、砦の中庭では旅の準備が整えられていた。
騎士たちが荷馬車を整備し、ガレスは旅程を確認していた。
「三日後には“ルグラン丘陵”を越える。途中には魔獣も出るが、避けては通れん。覚悟しておけ」
翔太は力強く頷いた。隣には、少し緊張した面持ちのエルミナもいる。
「……私、戦う準備、何もできてないけど……」
「無理はしなくていい。けど、怖くなったら言ってくれ。逃げてもいいし、俺たちが守る。だから、大丈夫」
翔太の言葉に、エルミナはゆっくりと頷いた。
彼女の顔に浮かぶ微かな笑みは、ほんの少しだけ晴れやかなものだった。
こうして、翔太たちの旅は新たな仲間と共に再び動き出す。
それぞれの“過去”を胸に、そして“未来”への扉を探しながら――。