第5話「旅立ちの朝と騎士の誓い」その2
昼を過ぎた頃、三人は緩やかな丘陵を抜け、小川沿いの小道に出ていた。水音が心地よく、木々の間を通り抜ける風が汗ばんだ額を冷やしてくれる。
翔太は岩の上に腰を下ろし、水筒を口に運んだ。
「この辺りで少し休もう。あと三刻ほど歩けば、駐屯地に着く」
ガレスの言葉に翔太は安堵の吐息を漏らした。旅は順調だったが、慣れない道のりに身体のあちこちが軋みを上げている。
「……足が棒って、こういうことか」
「筋肉が目覚め始めた証拠よ」
リアーナが笑いながら薬草の束を取り出し、水で湿らせて翔太の足に巻いた。ひんやりとした感触がじんわりと染み込み、翔太は思わず肩の力を抜いた。
「ありがとう。……リアーナって、何でもできるんだな」
「そう見えるように振る舞ってるだけよ。旅は予測不能だから、準備がすべてなの」
そう言いながらも、彼女の手つきには確かな経験と知識が宿っていた。翔太は彼女が“ただの魔法使い”ではないことを、改めて実感していた。
ふと、ガレスが何かに気づいたように顔を上げ、森の奥を睨んだ。
「……静かすぎるな」
その言葉に、翔太も空気の変化に気づいた。
先ほどまで聞こえていた鳥のさえずりや風の音が、ぴたりと止んでいた。
「これは……?」
リアーナも身を起こし、魔素感応石に軽く触れる。淡く光った石が一瞬、青から黄に変わった。
「……周囲に、微弱な魔素の揺らぎ。けれど、敵意は希薄。何かが通り過ぎた跡かもしれないわ」
「確認してくる。翔太はここで待て」
そう言ってガレスは一歩、森の影へと踏み出す。だが、翔太は思わず立ち上がった。
「俺も行く」
「……敵の気配が薄いとはいえ、油断は禁物だぞ」
「分かってる。でも……怖いから、じゃなくて。何が起きるのか、この目で確かめたいんだ」
翔太の声に、ガレスはしばらく沈黙し――やがて一歩後ろに下がった。
「いいだろう。ついてこい。ただし、勝手な行動はするな」
「はい!」
二人は森の中へと踏み込んだ。
湿った土の匂いと、わずかな魔素の残滓。翔太の感覚は以前よりもずっと敏感になっており、空気の揺らぎすら肌で感じ取れるようになっていた。
やがて、開けた一角に出た。そこには踏み荒らされた地面と、折れた枝、そして何かを引きずったような痕跡が残されていた。
「これは……誰かが戦った跡?」
翔太が問いかけると、ガレスはうなずいた。
「だろうな。だが、血痕は見当たらない。追い払ったのか、逃げたのか……それとも」
そのとき――
「……だれか……」
微かに、木々の奥から声が聞こえた。
翔太とガレスは即座に身構え、声の方向に向かって足を進める。茂みをかき分けた先にいたのは――
ボロボロのローブをまとい、うつ伏せに倒れた少女だった。
翔太は思わず駆け寄ろうとしたが、ガレスが手をかざして制止した。
「下がれ。罠の可能性もある」
鋭い視線を周囲に巡らせながら、ガレスは慎重に一歩ずつ少女に近づく。そして、剣の柄でそっと彼女の肩をつついた。
――反応はない。微かに肩が上下しており、呼吸はあるようだ。
「……意識を失っているだけか。怪我もしている」
翔太はそっと近づき、顔を覗き込んだ。
少女の髪は土にまみれ、頬には薄い擦り傷。年の頃は翔太と同じか、少し下に見える。ボロボロの外套の下からは、ところどころほつれた白い服が覗いていた。
「こんな森の奥で、一人で……?」
「状況が分からん。まずは安全な場所へ運ぶ」
翔太は黙って頷いた。
ガレスが少女を抱きかかえると、その身体は想像以上に軽かった。顔色も悪く、栄養が足りていないのが一目でわかる。
二人は元いた小川沿いの道へ引き返し、リアーナと合流した。少女の姿を見るなり、リアーナの表情が険しくなった。
「……ただの迷子じゃなさそうね。魔素の反応が微妙に乱れてる。しかも、近くに“封呪”の痕跡があるわ」
「封呪……って?」
翔太が問うと、リアーナは魔素感応石を再び取り出し、少女の手元にかざした。すると、石が不安定な光を帯びて揺れ始める。
「魔素を無理やり封じられた痕。体内の流れを強制的に止める術式。禁術に近い行為よ。これは……普通の村人には使われない」
翔太は思わず少女の顔を見つめた。
泥だらけで表情も読み取れない彼女の姿に、妙な違和感を覚えた。
「じゃあ、この子……魔法が使える?」
「たぶんね。しかも、かなり強い素質を持ってる。だからこそ封じられた可能性もある」
リアーナは少女の脈をとりながら、深く息を吐いた。
「すぐには目覚めないでしょう。でも、このまま放っておけば命に関わる」
「だったら、騎士団の駐屯地まで連れていこう」
ガレスの提案に、翔太はすぐ頷いた。
「それが一番安全だと思う。そこなら、医療設備とか、ちゃんとしてるんだよね?」
「最低限は整っている。傷の手当て、安静にする部屋、そして……事情を調べる手段も」
翔太は少女の顔にもう一度目をやった。
――なぜこの子はこんな場所に? 誰に、何のために封じられたのか?
リアーナが包帯を巻き終えると、ガレスが背中に彼女を背負った。
「急ぐぞ。陽が傾き始めている。駐屯地まではあと一刻ほどだ」
翔太も再び荷を背負い、足を踏み出した。
旅の始まりは静かだった。けれど、こうしてすでにひとつの“事件”が彼らの前に現れようとしている。
その少女は、翔太たちの運命にどう関わってくるのか――
まだ誰も、それを知らなかった。
日が傾き、森の影が長く伸びていた。
翔太たちは少女を連れ、駐屯地への最後の坂道を登っていた。疲労は蓄積していたが、翔太の足取りは思いのほか軽かった。
「……あの子、目を覚ますといいな」
翔太がつぶやくと、リアーナが頷いた。
「きっとね。魔素の循環はゆっくりだけど戻り始めている。問題は――あの封呪が誰によって、何のために施されたか、よ」
「そんな危ない術を使える相手が近くにいたってことだよね……」
「あるいは、“送り込まれた”可能性もあるわね」
翔太が眉をひそめると、ガレスが静かに口を開いた。
「この辺りは国境に近い。ヴァルモール帝国の密偵が潜るには、十分な立地だ。何かしらの実験体――あるいは処分対象だった可能性もある」
「処分って……人を、物みたいに……」
翔太の声が震える。
現代日本で暮らしていた彼にとって、それは信じがたい残酷さだった。だが、異世界での現実は、時として容赦がなかった。
「だからこそ、彼女を保護する価値がある。放っておけば二度と真実には届かない」
ガレスの言葉は冷静だが、その奥に確かな信念を感じた。
翔太は強く頷いた。
しばらく進むと、木々の切れ間から石造りの砦が姿を現した。
高くはないが厚みのある外壁、監視塔の影、歩哨の姿。そこがエルダリア第三騎士団の駐屯地であることは、すぐに分かった。
「ようやく着いたか……」
翔太が安堵の声を漏らすと、砦の門が開き、二人の兵士が現れた。
ガレスを見るや、彼らは姿勢を正し、敬礼した。
「ガレス殿、お戻りですか!」
「緊急だ。指揮官に通せ。この少女を至急治療室へ。特別扱いで構わん」
「はっ!」
兵士たちは手際よく担架を用意し、少女を運び去っていった。
翔太はその背中を見送りながら、心に小さな痛みを覚えた。
(俺は……何もできなかった)
力を手に入れたいと思っていた。魔法も剣も学び始めた。
けれど、いざというとき、自分はただ見ていることしかできなかった。
そんな翔太の肩に、リアーナがそっと手を置いた。
「後悔する必要はないわ。翔太がいたからこそ、あの子は助かった。あの場に、あなたがいなければ、見過ごされていたかもしれない」
「でも……」
「“守る”っていうのは、剣を振るうことだけじゃない。見つけること、気づくこと、手を差し伸べること――それも、立派な力なのよ」
その言葉に、翔太は少しだけ顔を上げた。
ガレスもまた一歩後ろから言葉をかけた。
「力とは、振るう前に鍛えられるものだ。今のお前は、正しく鍛錬の道にいる」
翔太はゆっくりと頷いた。
自分がこの世界に来た意味――それはまだ分からない。だが、一歩ずつ歩む中で、その答えに近づいている気がした。
その夜、翔太たちは駐屯地の一室を与えられ、久々に屋根の下で休息を取った。
夜空には星が瞬き、遠くから聞こえる兵士たちの足音が、不思議と心を落ち着かせてくれた。
そして――
明け方近く、翔太の眠る隣室で、小さなうめき声が響いた。
「……あれ、ここ……どこ……?」
それは、少女が目を覚ました最初の言葉だった。