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第4話「風鳴く森の先で」その3

 翔太の目の前で、空気が震えた。

 リアーナが静かに手をかざすと、その周囲の風が一気に渦を巻き始める。まるで彼女自身が風の核になったかのように、草木のざわめきが吸い寄せられた。


風裂ふうれつ――」


 その呟きとともに、鋭い風の刃が生まれた。

 透明な刃はうなりを上げながら一直線に魔獣へと走り、鋭く空気を裂いた。次の瞬間、魔獣の前脚のあたりがざっくりと裂け、鋭い悲鳴とともにそれが後退した。


「ぐぉっ……!」


 魔獣――カリュスの幼獣は、傷を負いながらも逃げようとはせず、逆に牙を剥いて飛びかかってきた。傷口からにじむ魔素が空気を歪め、暴走寸前の気配を帯び始める。


「まだ来るのか……!」


 翔太が思わず身を引くと、リアーナがすぐさま次の詠唱に移った。


「風よ、壁となりて守り給え――《風盾》!」


 彼女の前に立ち上がった透明な風の壁が、跳びかかってきた魔獣を弾き返す。ドンと鈍い音を立てて獣が地面に転がった。尻尾を振り乱しながらすぐに立ち上がるその動きに、翔太は思わず拳を握りしめた。


 (……あれが、魔獣。現実に存在する脅威)


 どこかで“異世界”の危険は物語の中のように思っていた。それがいま、目の前で、仲間を襲おうとしている。


 (リアーナが……あの獣に……!)


 リアーナは平然とした表情をしているが、翔太には分かった。あれほどの魔法を続けて使うには、相応の魔素と集中力が必要なはず。長期戦になれば、確実に負担が増える。


 そのときだった。

 翔太の足元から、何かがふわりと立ち上った。風。いや、空気の揺らぎ。その中心に、確かに“あの感覚”があった。


 (……感じる。魔素が……俺の中で、動いてる?)


 翔太は思わず手を前に出していた。

 恐怖がなかったわけではない。けれど、それ以上に――自分の中で何かが目覚めようとしている。それが確かにあった。


 (もう一度、あの感覚を――)


 彼の掌に、薄く青い光が集まり始める。

 リアーナが振り向いた。驚いたような、けれどすぐに真剣な眼差しになり、声を放った。


「翔太、無理は――!」


 だが、その言葉が届くよりも早く、翔太の掌から小さな風の弾が放たれた。魔獣の視界を横切るように飛んだその風は、狙いこそ逸れていたが、十分にその注意を引くには足りた。


「があっ!」


 魔獣が翔太の方を振り向いた瞬間、リアーナの再度の風裂が横から直撃した。今度は、胸元深くまで風の刃が抉りこむ。魔獣の動きが鈍った。よろめきながらも、それは最後の力を振り絞るように吠えた。

 魔獣の咆哮が森に響き渡った。木々の葉が揺れ、鳥たちが驚いて飛び立つ。

 翔太は一歩も動かず、その場に立ち尽くしていた。自分の掌から“何か”が出た。それは間違いなく魔素の放出――魔法の発動だった。


 (……本当に、出た……!)


 思い返せば、集中して放ったというより、感情のままに力があふれ出たような感覚だった。恐怖、焦り、リアーナを守りたいという想い――それらがひとつに溶け合い、あの風を形にしたのだ。


「翔太、今のは……」


 リアーナがわずかに息を弾ませながら振り返る。その目には驚きと、別の何か――微かな期待のようなものがあった。


「わからない。でも、勝手に体が動いて……」


 翔太が言い終える前に、再び魔獣が吠えた。

 すでに傷は深く、動きも鈍っていたが、それでもなお、最後の抵抗を見せようとしている。全身の毛を逆立て、口元には唾液をたらしながら、ふらつく足で翔太の方へと向かってくる。


「――翔太、下がって!」


 リアーナが叫んだ。だが翔太は、一歩も動かなかった。

 むしろ、足がすくんで動けなかった。目の前に迫る牙。その凶暴さに体が硬直する。動け――と叫ぶ心とは裏腹に、足が地面に縫い付けられたかのように重かった。


 魔獣が飛びかかろうとした、そのとき。


「《疾風障壁》!」


 再びリアーナが詠唱を終えた。風の壁が翔太と魔獣の間に瞬時に立ち上がる。

 魔獣の突進は風の障壁に弾き飛ばされ、よろめいた体が岩に激突して、そのまま崩れ落ちた。


 森が静まり返った。

 翔太はようやく膝をつき、震える手を見下ろした。まだ掌が熱い。それが魔素の残滓なのか、恐怖の余韻なのか、彼には分からなかった。


 リアーナが駆け寄り、しゃがみこんだ。


「……大丈夫?」


 翔太は黙って頷いた。返す言葉がなかった。体が震えていた。

 力を放った直後の高揚。魔獣に睨まれた恐怖。命を奪おうとした本能的な殺気。そのすべてが一気に押し寄せて、胸の内が混乱していた。


「怖かったよな」


 リアーナの言葉は、どこまでも優しかった。

 翔太は力なく苦笑した。


「……怖かった。でも、それ以上に……」


 翔太は言葉を探しながらも、ようやく続けた。


「誰かを守りたいって思った。その気持ちだけは……強かったと思う」


 リアーナはその言葉に、ふっと目を細めた。

 風が二人の間を通り抜ける。その流れに、翔太の魔素が再びふわりと揺れるのを、リアーナは敏感に感じ取っていた。


 (……やっぱり、ただの転移者じゃない)


 そう確信したのは、このときが初めてだった。

 翔太が無意識に放った魔法、そして魔素の質――それはただ“才能がある”では片づけられない何かを含んでいた。


「……もう大丈夫。魔獣は動かないわ」


 リアーナが魔素を流し、魔獣の体を検分していく。意識を失っていることを確認し、彼女は立ち上がった。


「翔太、立てる?」


「……うん、なんとか」


 翔太はゆっくりと立ち上がり、自分の足が思ったよりもしっかりと地面をとらえていることに気づいた。

 体は疲れていた。けれど、心のどこかで、ひとつ“壁”を越えたような感覚があった。

 森の静寂が、ようやく本来のものに戻りつつあった。

 翔太は倒れた魔獣をちらりと振り返りながら、リアーナの後を歩いていた。すでに魔素の気配は薄れ、危険は去ったとわかっていても、まだ鼓動は速かった。


「さっきの魔法……あれ、本当に俺が?」


 ぽつりと呟いた言葉に、リアーナは歩を緩めて翔太の横に並んだ。


「ええ。あなたが自分の意志で放った“風素”の魔法。属性はまだ不明だけど、感応の深さからして風への適性が高いのかもしれないわね」


「でも……まぐれだよ。狙って出せたわけじゃない」


「まぐれでも、今は十分よ。むしろ、まぐれだからこそ意味があるの。意志がなければ、魔素は絶対に反応しない。あなたの中には、それだけの動機があった」


 翔太は立ち止まり、森の葉越しにこぼれる陽光を見上げた。

 まだ戸惑いはある。だが同時に、“何かを掴みかけている”という感覚があった。


 (俺は、ただ巻き込まれて転移してきたわけじゃない。……ここで、何かを見つけるために来たんだ)


 そんな考えが、ふと頭に浮かぶ。

 彼の中で、現実感のなかった異世界が、少しずつ“地に足のついた場所”になっていくのを、翔太自身が感じていた。


「……リアーナ」


「なに?」


「俺、本気で魔法を覚えたい。自分の力で、誰かを守れるようになりたい」


 リアーナは少し驚いたように翔太を見たあと、頬を緩めて微笑んだ。


「その言葉が聞けて嬉しいわ。だったら、次からはもう一歩進んだ訓練に移りましょう」


「え、もう?」


「ええ。あなたの魔素は、すでに目覚めている。次は“制御”の段階に入るべきよ」


 翔太は思わず肩をすくめた。身体はまだ重いが、不思議と前向きな気持ちが胸に灯っていた。


 森の出口が近づいたとき、リアーナがふと立ち止まった。


「この件、村にはまだ報告しないでおくわ」


「なんで?」


「今はまだ……翔太、あなたがどこから来たのか、この世界にとってどういう存在なのか、私にもはっきりとは分からない。だけど、今日の魔素の揺らぎは、普通の“来訪者”では説明がつかないの」


 翔太は彼女の横顔を見つめた。

 そこには一人の導き手としての静かな決意があった。


「あなたが何者なのかを知るためには、もっと多くのことを経験しなければならない。そして……この世界の深層に触れていく必要があるわ」


 翔太は頷いた。もう後戻りはできない――いや、するつもりもなかった。

 この世界に来た意味は、まだ分からない。けれど、自分にできることがあるのなら、知りたい。力に目覚めたその先にあるものを、見てみたいと思った。


「リアーナ。次の訓練は……いつから?」


 彼の問いに、リアーナはくすっと笑って答えた。


「明日の朝。日の出とともに。遅刻は許さないわよ」


 翔太も笑った。


 ――異世界“アルセリア”での新たな一歩が、今まさに踏み出された。


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