第4話「風鳴く森の先で」その2
訓練場に訪れた朝の喧騒が一段落した頃、子どもたちはそれぞれの訓練を終え、木陰で水を飲みながら談笑していた。
翔太はしばらくその様子を見つめていたが、やがて立ち上がり、リアーナの方を向いた。
「俺も、やってみたい」
リアーナは頷くと、広場の中央に立つ木製の標的を指さした。
「いいわ。今感じられるようになった“魔素”を、少しだけ外へ流すイメージを持って。決して力を無理に出そうとしないこと。あくまで、自然に導くつもりで」
翔太は深呼吸をして標的の前に立った。
風の音、草の香り、日差しの暖かさ。五感がゆっくりと解きほぐされていく。
(さっきみたいに……空気が、少し重たくて……)
目を閉じて集中すると、身体の内側を何かがゆっくりと巡る感覚があった。
それは血液の流れとは異なる。もっと静かで、けれど確かな“気配”――。
「流れを感じて。そのまま、手のひらへと意識を運んで」
リアーナの声に従い、翔太は手をゆっくりと前に差し出した。
自分の中を流れていた何かが、手のひらに集まってくる感覚。
それは不思議と熱を帯びていて、けれど痛みや重さはなかった。
(いける……かも)
その瞬間だった。翔太の掌に集まっていた魔素が、不意に方向を変え、腕の中で暴れるような感覚が走った。
「っ――!」
思わず後ろによろめき、翔太はその場にしゃがみこんだ。手のひらには何も残っていなかったが、体中に走ったざらつく感覚だけが強く残っていた。
「無理しないで」
リアーナが近づき、そっと翔太の背に手を置いた。
その手から伝わるぬくもりが、魔素の乱れを穏やかに鎮めていくのが分かる。
「魔素は流れが乱れると制御が難しくなるの。特に初めての通しでは、よくあることよ」
「……完全に失敗、だな」
翔太は苦笑した。だが、リアーナは首を横に振った。
「いいえ、むしろ上出来よ。最初の通しでここまで感応できる人は滅多にいない。力が流れるのを感じられた、それだけで今日は十分」
言葉では納得できたつもりだった。けれど、自分の中にはっきりとした悔しさが残っていた。
(俺は、やれると思った……のに)
訓練場に吹く風が、肩をすり抜けていった。子どもたちの笑い声がどこか遠くに聞こえる。自分だけがこの世界に置いていかれているような、そんな孤独感が胸を締めつけた。
「でも、悔しい。……もっとできると思ったのに」
ぼそりとつぶやくと、リアーナはしばらく黙っていた。そして、静かに口を開いた。
「悔しいって思えるのは、ちゃんと前を見ている証拠よ。後悔や諦めとは違う。悔しさは、あなたの中の“願い”を浮かび上がらせる力になる」
翔太はリアーナの言葉をゆっくりと噛みしめた。
その瞬間、自分が本当は何をしたいのか、少しだけ見えてきた気がした。
この世界で、自分の力を知りたい。
自分が何者なのか、どこまで行けるのか、確かめたい。
日差しが傾きはじめ、木々の影が訓練場を長く覆いはじめる頃、子どもたちは帰り支度を始めていた。翔太は地面に座ったまま、木製の標的をじっと見つめていた。
「翔太。少し、休憩しましょうか」
リアーナが水筒を手に近づいてくる。彼女の声は柔らかいが、わずかに翔太の疲労を気遣うような響きがあった。彼はリアーナから水筒を受け取り、口をつけると冷たい水がのどを滑り落ちていく。
「ありがとう。……ちょっと、気が抜けたかも」
そう言って翔太は苦笑した。魔素を通すことに失敗した後も、彼の心にはざらついた悔しさが残っていた。それは、自分が“できる”とどこかで思っていたことの裏返しだった。
「あなたはよくやったわ。たった一度の通しで感覚を掴める人なんてほとんどいないのよ。それに、力が“暴れた”ってことは、それだけ反応が強かった証拠」
リアーナは静かに語る。翔太は頷きながらも、まだどこか納得しきれない自分がいることを感じていた。
「……リアーナは、初めて魔素を通したとき、うまくいった?」
その問いに、リアーナはほんの少し驚いたような表情を見せた後、微笑んで答えた。
「いいえ。私も最初は失敗したわ。というより、失敗の連続だった。魔素は繊細だから、焦れば焦るほど遠ざかっていくの。でも、ある時ふと、何も考えずに深呼吸していたら、自然と流れ始めたの」
「……ふと?」
「そう。無理に何かをしようとせず、ただ自然に呼吸して、感じたままに任せたときにね。魔素は、そういうときに寄ってくるものなの」
翔太はその言葉を噛みしめた。
自分は焦っていた。成果を急いでいた。だけど、本当に大事なのは――感じること、委ねること。
そのときだった。
訓練場の奥、木立の向こうから何かの気配がした。翔太が顔を上げると、一本の枝が不自然に揺れ、森の奥へと何かが素早く動いていく気配を感じた。
「……今、何かいた?」
「ええ。森の方から、微かな揺らぎを感じたわ。あれは……」
リアーナは立ち上がり、空気の流れを感じ取るように目を細めた。
翔太も立ち上がり、森の方をじっと見つめた。だがそこにあるのは、ただ風に揺れる葉と木々のざわめきだけだった。
「魔獣、じゃないよね?」
「おそらく違うと思うけど……念のため、確認した方がいいわね。翔太、ここで待ってて」
「俺も行く」
即答だった。リアーナが意外そうに目を見開く。
「まだ体が慣れてないでしょ?」
「でも、知りたいんだ。さっきの気配……なんとなく、嫌な感じがしたから」
リアーナはしばらく考えていたが、やがて静かに頷いた。
「分かったわ。無理はさせない。ゆっくり歩いて、警戒を怠らないようにね」
翔太はリアーナの後に続き、森の中へと足を踏み入れた。初めて訓練場へ来たときよりも、地面の草の感触や空気の重さに敏感になっている自分に気づく。
魔素に触れたことで、彼の感覚はわずかに研ぎ澄まされていた。
森の中は、昼間とは思えないほど静まり返っていた。
鳥の鳴き声も、風の音も、どこか遠くに押しやられたようで、代わりに足元の草を踏む音や、葉が擦れるわずかな音が耳に残る。
翔太はリアーナの背中を追いながら、先ほど感じた“嫌な感じ”の正体を探っていた。
それは視線のようでいて、違う。肌を撫でる風の中に、どこかぞわりとした違和感が混じっていたのだ。
「リアーナ……この森って、安全なのか?」
低い声で尋ねると、リアーナは少し間をおいて答えた。
「基本的には、ね。だけど森は生き物。ときおり、外から流れ込んだ魔素の影響で、性質が変わることがあるわ」
「外から?」
「魔獣が移動したり、地脈の揺らぎが起きたり……人の手では制御できない“自然の変化”よ。この世界には、理屈だけでは測れないものがたくさんあるの」
翔太は唾を飲み込んだ。
この世界に来てから、自分がまだ何も知らないということを痛感する瞬間だった。
二人は小道を抜け、やがて苔むした岩の根元にたどり着いた。その岩の裏手に、小さな水場があるのをリアーナは指差した。
「この辺り。さっきの気配はここから流れてきたわ」
翔太も目を凝らして辺りを見回す。すると、水辺のそばの土が、何かに踏み荒らされたように乱れていた。人のものではない、小さな三つ爪の足跡――。
「これは……動物?」
「いいえ。魔素の残り香がある。おそらく、下位魔獣。まだ幼体ね。危険性は低いけど、放っておくのはよくないわ」
リアーナは指先をかざして、淡く緑色の光を浮かべた。光は足跡のあたりを漂い、やがて東の方向へと薄く伸びていく。
「痕跡追尾の魔法。これで、おおよその進行方向が分かるわ」
翔太は目を見張った。魔素が風のように流れ、まるで道しるべのように揺れている。目には見えない“痕跡”を、こうして可視化できるのか。
「便利だな、これ」
「まあね。でも持続時間は短いし、魔素が薄れたら追えなくなる。だから、行くなら今のうちよ」
翔太は頷き、足元を確かめながら前に出た。
「……俺も行っていい?」
「止めても、行くつもりなんでしょう?」
リアーナは少し笑って、先に進む。
翔太はその背中を見ながら、自分でも不思議だった。昨日まで、怖くて仕方なかったこの世界で、今、自分は誰かのあとを追って歩いている。それは確かな“意思”だった。
小道を抜けた先、少し開けた場所に出たときだった。
「……いた!」
リアーナが低く声を出した。
そこには、体長一メートルほどの灰色の獣がいた。背に棘のような毛を持ち、瞳は鈍く光っている。まだ子どもの個体だが、警戒心は強く、こちらに牙を見せて唸っている。
「……あれが魔獣?」
「正確には“カリュスの幼獣”ね。この辺りには珍しいわ。地脈のゆがみで流れ着いた可能性がある」
「戦うのか?」
リアーナは静かにうなずいた。
「手早くね。翔太、後ろに下がってて」
そう言ったリアーナの周囲に、再び風の気配が集まる。髪が舞い、空気がうねり始めた。魔素が渦を巻き、彼女の掌に集中していく。
翔太は息を呑んだ。
これが、“魔法”。目の前で展開される力の本質に、ただ圧倒されるしかなかった。