第1話「見知らぬ空、見知らぬ世界」その1
蝉の鳴き声が、遠くから響いていた。
耳鳴りのように、絶え間なく鳴き続けるその声に包まれて、佐藤翔太はぼんやりと空を見上げていた。真夏の陽射しは容赦なく照りつけ、校舎の屋上から見える景色は、どこまでも白く滲んでいた。
終業式の日。放課後の教室は、すでに誰もいない。
カーテンが風に揺れ、机の上に射し込む西日が、ゆっくりと傾いていく時間の流れを知らせていた。
教室の隅では扇風機が止まったまま沈黙しており、窓の外では蝉の鳴き声だけが生き生きと響いていた。
「……はぁ」
ため息をひとつつく。今日も、何も起きなかった。
特別なイベントも、誰かとの思い出もないまま、夏休みが始まる。誰かと遊びに行く予定もなければ、部活に打ち込むことも、バイトの面接を受けたことすらない。
スマホを確認しても通知はゼロ。クラスのグループチャットはすでに海の話や合宿の話で盛り上がっていたが、自分はそこに必要とされていない。
(……今年も結局、同じか)
昼休みのことを思い出す。
隣の席の女子が友達と夏の予定を楽しそうに話していた。海、花火、フェス、泊まりの旅行。どれも翔太には縁がないものばかりだ。声をかけるチャンスはあった。話に乗ろうと思えばできた。でも、できなかった。
(どうせ、俺が入ったところで場が白けるだけだ)
そんな思いが先に来て、何もできない。
それなのに、内心では「変わりたい」と願っている。だからこそ余計に、動けない自分に苛立ちを感じる。
翔太は、静かな教室の中で一人きり、自分の影だけを床に落としながら、しばらく席に座っていた。
誰にも気づかれず、誰にも呼び止められず、夏という季節だけが、確実に進んでいく。
「……帰るか」
机にかけた鞄を手に取り、翔太は立ち上がった。
ガラリと開けた教室の扉の音が、廊下にむなしく響いた。もう生徒の姿はほとんどなく、すれ違う教師が「おう、気をつけてな」と軽く声をかけてくるだけ。翔太は小さく会釈をして、靴音を響かせながら下駄箱へと向かう。
上履きを脱ぎ、スニーカーに履き替える。
その瞬間、足元から熱がじんわりと伝わってくる。校舎の中よりも外の暑さははるかに強烈だった。
駅までの帰り道。
アスファルトは陽に焼かれ、歩くだけで体力が削れていく。空は真っ白に照りつけ、遠くの景色が蜃気楼のように揺れて見える。日陰もなく、汗は止まる気配がない。
「……やってらんねぇな」
自販機で冷たい缶コーヒーを買うか迷ったが、すぐそこのコンビニまで我慢することにした。
アイスコーヒーを片手に、店の前で腰を下ろし、ほんの少しだけ一息つく。
飲み込んだ苦味が、体の芯まで冷たさを届けてくれる。冷気と共に、少しだけ心のもやが晴れるような気がした。
「……来年の夏は、ちょっとは変われるかな」
誰に向けたわけでもない独り言。
そう口に出すことで、自分自身に問いかけていたのかもしれない。