冬の明日
「ねぇ」
声が聞こえた。冬のバス停でまどろむ最中であった。声につられて、私は残雪の滴るバス停の屋根に空を仰いだ。再び声は響いた。
「これ、みてよ」
私は見た。吐き気を催すほど素早く頭を振った。目線の先には鼠がいた。痩せこけたドブネズミの様だ。ドブネズミは雪塊に寝そべったまま、じっと動かない。
「珍しい」
私が言った。私の声も幾分響き渡った。錆びたトタン屋根がここの甍であるため、反響するのも無理はない。しかし彼女の気を逸らせば不快になるのは私の方であり、私は大人しく彼女の二の句を待つ。その唇を見ている。胸を躍らせる。彼女は私の恋煩いである。
「死んでる?」
問いである。答えるべきだ。問い、とは答えるものだ。
「動かない。確かに死んでいる。ご愁傷様なこと」
「そっか」
そっけない返事が来た。私のせいである。それかこのドブネズミのせいだ。ドブネズミの住処は側溝の底だけだ。ドブネズミがどうしてここにいる。どうしてくれる。
「可哀そう。どこから来たんだろ」
ドブネズミは都会に巣食う。都会の日陰をちゅうちゅう這っている。こいつも都会っ子である。
「貴方が今から行く場所だろう」
「そう? 私もこんな風?」
「全くだ」
私のようだ。私は日陰者だ。私は死んでいる。もう二百年も前、牛車に轢かれて死んだ。都会に行く道中だった。
「楽しかったよ」
私も楽しかった。毎朝彼女が都会に行く様を見届けるのが嬉しかった。最初、私は彼女のキスによって目を覚ました。大雪の後の日だった。眠り姫を起こしたと彼女は言った。曰く私はそれまでずっと眠りこけていたらしい。当初私は彼女の恋煩いに違いなかった。キスの語も彼女から覚えた。
もう彼女が私を好いているのかは知らない。彼女とキスしたのはもうずっと前で最後だ。雪はもう溶けかけていて、彼女は今日都会へ行く。もう会えない。これっきりだ。つくしの芽を数えることは叶わなかった。山肌に沈む雪形が彼女との思い出だろう。
「じゃあ、行くよ」
「早い」
「うん」
すると地平の向こうからバスがやって来た。雪に車輪を押し付けて、あらゆる地に轍をつけながらここへ迎えに来た。バス停に停まった。粉雪が彼女のもとへ散った。彼女は雪にせき込むと、私の方を小さく振り向いて、小さくこう言った。
「さよなら」
「いやだ」
小さく呟いた。私も小さく彼女の方を向いた。彼女の眼差しが赤く変わっていた。目尻に長いつららが釣り下がっていた。それでも彼女は私を気にも留めず、ドブネズミを踏んでバスの後方に乗り込んだ。水濡れた窓は彼女の顔を隠し、私にはもう見えない。彼女は殿上人だ。私はドブネズミだった。扉は閉まった。私の侵入を拒んだ。バスは遂に発車した。私は追いかけた。いつしか走っていた。
逃げる。恋が逃げる。恋煩いが逃げる。残雪が逃げる。冬が逃げる。冬、とは逃げるものである。繰り返すものである。バスは再び来る。ここはバス停である。二度目の冬が来る場所だ。田舎の四季は強い。二度目の恋が来れば、胸騒ぎも幾分落ち着くに違いない。
彼女は行った。バスに揺られて向こうの都会へと行った。私は次のバス停まで追いかけて力尽きた。結局私はドブネズミのもとへ戻ってきてしまった。私は座り込んだ。彼女のバスの行く方を向いた。それはもう見えなかった。伸びる地平さえ朝に焼けていた。もう八時を回った。
都会の雪解けはここより幾分早い。明かりが丑三つにもあまねく場所だ。彼女は明かりに行く。思えばここは田舎である。側溝である。ドブネズミを愛でる。もう七回目である。滴る残雪は屋根を滑っている。