3.海霧 3
もし同一人物だとしたら、彼女は佐和ではなくて和佳が本名だと、五十がらみのほっそりした画廊の主人は教えてくれた。
山瀬和佳が同級生の名前だったと。
「あなたが若い頃の彼女によく似ていたので驚きました」
眼鏡の奥から、懐かしげな眼差しで容子を見つめている。
「お二人のご関係は?」と問われ「夫婦です」と修司が答えた。
山瀬和佳らしき人物がかつて八神家の家政婦だったこと、既に亡くなっていることを修司が伝えると「そうですか」と、店主はどこか悲しげな表情をしたように見えた。
「驚いたよ」
「来てよかったですか?」
画廊に隣接するカフェで珈琲を飲みながら、修司はなんとも複雑そうな笑みを浮かべている。
「仮定での話しで、まだ本人とは断定できませんよね」
でも、修司の様子を見る限り、本人としか思えないのだろうなと容子は思った。
「市内にいるというお兄さんに話を聞いてみますか?」
「できればね」
みつわ荘という名前の宿は日本全国に割とあるのだから、絵のタイトルの場所が容子の生家とは限らない。
それに、背景の景色が客室から見えるものとは少し違っているような気がする。
容子の高校の同級生に懐石旅館の娘がいたが、その旅館名は「みつは荘」だったことがあり、みつわ荘という名はそれほど珍しくもないのだなと思ったものだった。
佐和に関してはまだわからないことは沢山ある。
佐和が宮城県生まれだったとは、修司も知らないことだった。
もしかすると、これから色々なことがわかるのかもしれないが、修司にとっては複雑な心境なのだろうと、今は急がずそっとしておこうと容子は思った。
「夕飯は何が食べたいですか?」
「容子」
「え?!」
「容子が食べたい」
容子は眉間に皺を寄せた。
「修司さんは、そういうことは言わない人だと思ってましたよ!」
「言うよ、言う、普通に言う」
最近は修司のこういう時に言う「容子」が、修司の甥の純が口にする「ようこ」になんとなく感覚が近いような気がして、内心笑いが込み上げてしまう。
それは修司にはまだ内緒だ。
夕食後、ウトウトしている修司を、これでは風邪をひくと心配した容子は、ひきずるように担いでなんとか布団に寝かせた。
本当に疲れているのだろう。
「おやすみなさい、あなた」
そっと囁きながら眠った修司の髪にキスをした。
容子は修司を「あなた」呼びするのはまだかなり抵抗があった。
でも、眠っている修司にならば呼んでも大丈夫かなと、この日初めて呼んでみた。
別にあなた呼びを修司は求めていないのだが、生真面目な容子は、自分の母が父に対してそうしていたように、いつか自分も夫をそう呼ばねばと思い込んでいるのだった。
自分は母とは違い、子供ができたら、「あなた」から「お父さん」か「パパ」という呼び方になってしまう気もする。
あなた呼びは期間限定かもしれないから、呼べるうちに呼んでおきたかった。
修司は、自分の体を手こずりながらも引きずって運ぼうとする容子に途中から気がついていたが、あえてなすがままに任せていた。
寝たふりをしていた修司は「嫁が可愛い過ぎる」と心の中で悶絶していた。
結婚した同僚達が「嫁が可愛過ぎて出社したくない」「嫁を家に置いてくるのが辛い」などと言っていたのを、かつては流石にそこまでではないだろうと思っていたが、今は激しく同意できる修司だった。
思わず容子の手を引っ張り抱き寄せてしまおうかと思ったが、睡魔に抗えず眠りに落ちた。