9.ダメ、だろうか?
プレヤさんは止める間もなく、俺の隣の席にどっかりと腰掛けてくる。俺は思わず反対側に体を反らした。
「まったく、ハルトは女心ってものがわかってないなぁ」
プレヤさんはそう言って、俺の肩をバシバシ叩いてくる。思わずムッとして手を払ってしまった。
「そのくだり、クラルテとも話しましたけど……」
「あっ、そうなの?」
「ええ。女心がわかっているなら、今頃未婚じゃないはずだって」
本当に。俺には女心なんて高尚なものは理解できない。だからこそ、ロザリンデは愛想をつかして浮気をしたのだ。
そう考えると、クラルテともいつかは同じことが起きるのではないかという気がしてくる。今はこんなに慕ってくれているが、いつかは彼女も俺のことが嫌になる。愛想をつかして、会話すらも厭うようになって、あの家から出て行ってしまうのではないだろうか?
(それは嫌だなぁ……)
想像するだけで胸が痛い。
クラルテがいなくなってしまったら、家がものすごく暗く、空っぽに感じられるだろう。というか、単純に寂しいに違いない。このものすごく押しが強い令嬢は、ほんの数日の間に俺の懐に入り込み、日常の一部になってしまったのだから。
「おまえな、いい加減ロザリンデのことは忘れろよ。あれは不幸な事故だったんだって。あの女が相手じゃなかったら、おまえも今頃は普通に結婚して、幸せになっていただろうよ」
プレヤさんはそう言って、やれやれと首を横に振っている。
「そうですよ! 旦那様という最高で素晴らしい婚約者がいながら他の男性にうつつを抜かすなんて、女の風上にも置けません! わたくし、絶対に許せません! もしもわたくしがロザリンデさんとお目にかかる機会があれば、大いに懲らしめてやりますのに!」
「やめてくれ……クラルテが言ったら冗談に聞こえない」
つぶやきながら、俺は思わず額を押さえた。
(俺のためならクラルテはなんでもしてしまいそうだ)
本当に。自分の身に危険が及ぶようなことすらしてしまいそうで、傍から見ていて怖くなってしまう。俺がいるときなら止めようもあるが、クラルテは俺よりも行動範囲が広く、活動的だ。なにが起こるかわからないじゃないか。
「もちろん、めちゃくちゃ本気ですよ! 旦那様はワインをかけるのがお好みですか? それとも、指輪をはめた手で頬をバチーンとしばくほうがいいですか? ロザリンデさんはどっちのほうがこたえるタイプでしょう?」
「なんで物理攻撃なんだ!? 俺のことはいいから! 仮に今後彼女と顔を合わせることがあったとしてもなにもしないでくれ……君の名誉が傷つくから」
やっぱり、俺の想像以上のこたえが返ってきた。頼むからもっと自分を大事にしてほしい。これでは俺の身がもたない。
「え〜〜? 自分の名誉よりも旦那様の名誉! 心を救うほうがよっぽど大事ですよ! ……まあ、ロザリンデ様には借りがあるので、ノーモーションで報復を仕掛けるなんてことはさすがにしないと思いますけど」
「借り?」
俺の問いかけにクラルテはコクリと大きくうなずく。それから彼女は上目遣いで俺を見上げた。
「もしもあの人が旦那さまと結婚していたら、わたくしにアタックのチャンスは巡ってこなかったわけですから。旦那様を傷つけたって意味では敵ですけど、わたくしの恋路的には味方でもあるなぁって。もちろん、ロザリンデ様と結婚していたとしても、気にせずアタックしていた可能性もありますけど……だって、旦那様が幸せになっていたとは思えませんし」
何故だろう? 半ばいじけたような表情でつぶやくクラルテが、ものすごく愛らしく見える。結構ひどいことを言われている気がするんだが、まったくもって悪い気がしない。無性にクラルテの頭をワシワシと撫でてやりたい気分だ。
「それはそうとプレヤさん、いつも旦那様の情報をありがとうございます。本来ならばわたくしからご挨拶に伺うべきところを、遅れて申し訳ございません」
クラルテはそう言ってすっくと立ち上がり、プレヤさんに向かって頭を下げる。普段より五段階ぐらいトーンが低く、丁寧で上品、とても落ち着いた印象だ。これぞ貴族の令嬢といった立ち居振る舞いである。
「いいよ、そんなにかしこまらないで。僕自身、好きでやってることだからさ」
プレヤさんがクラルテを座らせる。ニコニコと、とても楽しそうに笑いながら。先程の『クラルテとなら結婚してもいい』なんて発言を思い出して、胸がムカムカしてきた。
「そう言っていただけるとありがたいです。おかげで、旦那様のことが色々とわかりました」
「それはよかった。お役に立てて嬉しいよ。それで? うちの職場はどう? 困ったことはないかい?」
ごく自然に話題が切り替わる。
これは本来なら、俺が一番にクラルテに聞くべきことだったはずだ。初めての仕事、初めての場所、初めて会う人々……ストレスがないわけがない。話すことで気持ちが多少楽になるだろうし、なにより自分は大切にされていると思えるだろう。
(もっと気遣ってやるべきだった)
先程の『女心』が云々という話にも通じる部分だが、こういうところがダメなのだと――そう思い知らされた気がする。
クラルテは俺とプレヤさんとを交互にちらりと見てから、そっと目を細めて笑う。それから、おもむろに口を開いた。
「まだ初日ですから。語れるほどなにもしていないと申しましょうか……午前中はずっと仕事の説明を聞いてました。仕事の説明といっても、勤務体制のことや服務規律のことがほとんどで、今はまだなにも動いていない、という感じですね」
普段まくしたてるように話すクラルテの、意外な一面。こんな話し方もできるのだと感心すると同時に、俺の胸が小さく疼く。
(俺を気遣ってくれている……んだよな?)
クラルテは優しい。自分の聞きたいことばかり聞いて、彼女のことをちっとも聞いてやれなかった俺の罪悪感を温かく包み込んでくれる。
(本当に、俺にはもったいないぐらいいい子だよな……)
一体クラルテは、こんな男のどこがいいのだろう? いや――すでに何度も尋ねてしまったものの、どうしても理解できない。
(このまま突き進んで――いや、押し通されてよいのだろうか?)
葛藤はある。彼女にはもっといい道があるんじゃないか――俺が導いてやるべきなのではないか、と。
だが、クラルテは頑固だ。現状、納得してくれそうな気はしない。
「……お互い仕事をしているんだ。使用人が来るまでの間、せめて家事は折半にしよう」
俺からクラルテに返せるものなんてほとんど思いつかない。……どうしたら喜んでもらえるのかもよくわからない。
けれど、自分に思いつく限りのことをしてやりたいとそう思う。
「え〜〜? 旦那様に家事を分担をさせるなんてダメですよ! ほら! わたくしは旦那様みたいに日々体を鍛えるわけじゃなくていわば裏方。普段はデスクワークが主ですし、毎日家にも帰れますし! さほど疲れないと思うのですよ。それに、わたくしは旦那様に尽くせることが幸せなので、まったく負担に思わないというか、むしろ嬉しいわけでして……」
「だったら、分担ではなく一緒にする、というのはどうだろう?」
「え?」
「そうすれば効率がいいし、少しでも長くクラルテと一緒にいられる。……ダメ、だろうか?」
「そっ、れは……」
俺の問いかけに、クラルテは顔を真っ赤にしながら急いで顔を下に向ける。一瞬だけ見えた彼女の表情は、ものすごく恥ずかしそうで……けれど口元がニヤけていて。なんというか――――ものすごく可愛かった。必死に表情をうかがおうとすれば、クラルテは両手で顔を押さえながら、いやいやと首を横に振っている。
(可愛い)
シンプルに。ものすごく可愛い。
普段の積極的で天真爛漫なクラルテも可愛いが、俺の言葉で照れて真っ赤になっているクラルテは完膚なきままに可愛い。
(これは……癖になりそうだ)
もっとドキドキさせたい。喜ばせたい。クラルテの色んな表情が見たい――。
にやけた口元を手のひらで隠しつつ、俺はそんなことを思うのだった。
次回、2章からいよいよハルトのターン(クラルテ視点)がやってまいります! よろしくお願いいたします!
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