31.お呼びでないんだよ②
「ハルト様っ!」
そのとき、背後から愛らしい声音が聞こえてきた。振り返るまでもない、クラルテだ。彼女の声を聞くだけで、ささくれ立っていた心がみるみる癒やされていく。ホッと安堵のため息をついたその瞬間だった。
「キャッ!」というクラルテの声と、
バシャ! という水音と、
「なっ!」というロザリンデの声が連続で聞こえてくる。
「ヤダ、ごめんなさい!」
クラルテが言った。どこか演技がかった声だ。それと同時に、クラルテは俺からロザリンデを引き剥がし、困ったように首を傾げる。
「わたくし、つまずいてしまって……お召しものを汚してしまいました。本当に申し訳ございません」
見れば、ロザリンデの背中がビッショリとワインで濡れていた。クラルテの手には空になったグラス。どうやらクラルテはロザリンデにワインをかけてしまったらしい。
『もしもわたくしがロザリンデさんとお目にかかる機会があれば、大いに懲らしめてやりますのに!』
クラルテの表情と、過去のセリフと、今の状況とが重なり合う。俺は思わず吹き出しそうになってしまった。
「あっ、あなた……! 今の、わざとやったでしょう?」
「え〜〜、こんなこと、わざとするはずがないじゃありませんか!」
そう言いつつ、クラルテはちゃっかり俺の腕に抱きついてくる。……独占欲が丸出しだ。俺は思わずクラルテを撫でながら、彼女をぐっと抱き寄せた。
「嘘をおっしゃい! あなた、あたしがハルトと話しているのが気に食わないんでしょう?」
「ええ、そりゃあ気に食いませんよ。だって、ハルト様はわたくしの婚約者ですもの。とっても大好きな人ですもの。浮気者の元婚約者であるあなたとなんてお話してほしくありません」
ムッと唇を尖らせて、クラルテがことさら俺の腕にしがみついてくる。こんなときだというのに……あまりにも可愛い。本音を言えば、今すぐ俺の部屋に連れて帰りたいところだ。
「大体あなた、ハルト様に向かって失礼すぎます! ハルト様のことを自ら好きになる女はいない? ――ここにおりますけれども! わたくし、めちゃくちゃハルト様のことを愛してますから! 政略結婚じゃなくて、めちゃくちゃ恋愛結婚ですから!」
ふと見ると、クラルテは涙目になっていた。そういえば身体も小刻みに震えている。
「クラルテ……」
『旦那様はワインをかけるのがお好みですか? それとも、指輪をはめた手で頬をバチーンとしばくほうがいいですか? ロザリンデさんはどっちのほうがこたえるタイプでしょう?』
『なんで物理攻撃なんだ!? 俺のことはいいから! 仮に今後彼女と顔を合わせることがあったとしてもなにもしないでくれ……君の名誉が傷つくから』
『え〜〜? 自分の名誉よりも旦那様の名誉! 心を救うほうがよっぽど大事ですよ!』
きっと彼女は、俺のために怒ってくれているのだろう。……いや、己の独占欲も混ざってはいるだろうが、決してそれだけではないはずだ。
「な、にを……!」
「はい。ドレスはこれで綺麗になりましたよ。ああでも、魔法で綺麗にするだけでは足りないでしょうから、後日ドレスの価値に見合うだけの金銭的な補償もさせていただきますね!」
クラルテはニコリと微笑みながら、ロザリンデのドレスの汚れを魔法でとる。周囲の人間で俺たちのやり取りに気づいている者も見当たらない。これですべては元どおりだ。
「そ、そんなことで済むはずがないでしょう? こんな恥をかかされて、こんな、こんな……」
「えーー? 人間誰しも失敗ってあるじゃないですか? すでに謝罪はさせていただきましたし、物理的にも金銭的にも、きちんと補償をさせていただくのですから、目くじらを立てても仕方ないと思いません? そもそもここは夜会会場の出口で、誰もわたくしたちのことなんて見てませんし、一体誰に対して恥をかいたのでしょう? ――それとも、ザマスコッチ子爵家はこの程度のことを大事にしなければならないほど、度量と財力を持ち合わせていないのでしょうか?」
「なっ……!」
ロザリンデが屈辱に顔を歪める。俺は口元がニヤけそうになるのを必死にこらえ、クラルテの頭をそっと撫でた。
「そんなこと、あるはずがないでしょう? ――金銭的な補償なんていらないわ。うちはお金になんてまったく困ってませんから!」
「あら、そうですか! それでは寛大なお言葉に甘えさせていただくことにします! ハルト様、行きましょう?」
無事、自分の望みどおりの返事をロザリンデから引き出せたのだろう。クラルテはとても嬉しそうに笑っている。
「まっ、ちょっ!」
対するロザリンデのほうは「いえいえ、それではわたくしの気が済みませんから」なんて言葉を想定していたのだろう。見るからにうろたえている。相手はあのクラルテなのに……俺はふぅと息をついた。
「あっ、そうだ。金輪際、ハルト様には近づかないでくださいね! ハルト様、わたくしのなんで! わたくしの大事な旦那様なので!」
クラルテはそう言って、ロザリンデをキッとにらみつける。ロザリンデはまたもや頬を真っ赤に染めた。
「こう見えてハルト様ってわたくしにべた惚れですし! あなたと隠れて会うとか絶対ありえませんから!」
「嘘よ! そんなこと、あるはずないわ。だってこの男、あたしのことを引きずって、結婚を拒否していたって聞いたもの。それに、あたしのほうがずっと……」
「クラルテの言うとおりだよ」
言いながら、俺はクラルテの額に口づける。頬に、鼻頭に、と口づけているうちに止まらなくなって、結局唇にもキスをしてしまった。
「なっ……!?」
「お前はお呼びでないってこと。いい加減わかれ」
真っ赤になっているクラルテを抱きしめつつ、俺は静かに息をつく。
ワイングラスだけを置きに戻り、俺たちは夜会会場から背を向けた。けれど、数歩歩いたところで、クラルテがふと足を止める。
「あっ、そうだ。最後に一つだけ忠告を。ロザリンデさん……ハルト様にちょっかいを出す前に、もっとご自分の夫を気にかけたほうがいいのではないでしょうか?」
「なにそれ。どういう意味よ」
ロザリンデは眉間にしわを寄せ、クラルテのことをにらみつける。
「いえ……そのまんまの意味ですよ?」
クラルテは無邪気に笑ってみせると、俺の手をグイグイ引っ張って歩くのだった。




