18.見ちゃダメ?
(朝か……)
カーテンから漏れる日の光にぼんやりと目をこする。
昨夜は緊張のあまり、よく眠れなかった。寝よう寝ようと思っては、あれこれ考え事をしてしまい、意識が覚醒してしまったのだ。
(本当に大丈夫だろうか……)
プレヤさんにも助言をもらいながら何度も何度もシミュレーションをしたというのに、未だに不安にかられてしまう。
俺は生まれてこの方、女性をデートに誘ったことなどない。ロザリンデと婚約していたときでさえ、一度もないのだ。
だから、どうしたら女性が喜ぶのか、楽しいと思ってもらえるのか、まったくもってわからない。
もしもクラルテが『つまらない』と感じたら――俺に愛想をつかしたらと思うとかなり怖い。一緒に暮らしはじめてほんの二ヶ月程度だが、もはや彼女なしの生活は俺には考えられないのだ。
きっとロザリンデに婚約を破棄されたときなどとは比べものにならない――俺は立ち直れないだろう。
ため息をつくと同時に、寝室の扉が静かに開く。クラルテが俺を起こしに来てくれたのだ。目をつぶり、声をかけられるのをそっと待つ。
「……旦那様、朝ですよ」
愛らしい声音。胸のあたりをポンポンと撫でられ、心臓が少しずつ高鳴っていく。ゆっくりと目を開き、クラルテの笑顔を見る――一日のなかで一番好きな瞬間だ。とても温かくて優しくて、心が幸福感で満たされる、かけがえのないひとときである。
「クラルテ……」
クリアになる視界。俺は思わず言葉を失う。
今朝のクラルテはいつもの数倍可愛かった。化粧も髪型も、気合の入り方からして違う。もちろん、普段からびっくりするほどきちんとしているし、本当に愛らしいのだが、今日は別格だった。
(俺のため……なんだよな?)
心臓の音がドキドキとうるさく鳴り響く。いつまでもいつまでも見つめていたくなる。……思い切り抱きしめたくなる。
クラルテに吸い寄せられそうな心地を覚えて、それではいけないと思い直し、俺はゆっくりと深呼吸をした。
「おはようございます、旦那様」
「おはよう。クラルテ、その……今朝の君はすごく可愛い。いや、いつも可愛いんだが! 本当に、びっくりするぐらい、可愛いよ」
もっと気の利いた言葉をかけたいのに、感動のあまり語彙力がどこかにすっ飛んでしまった。
おまけに、気づけばクラルテの頭に手を伸ばしかけていて、俺はハッと息をのんだ。
(せっかく綺麗にセットしてくれたのだ)
出かける前から乱しては、きっとクラルテも嫌だろう。
けれど、クラルテは俺が引っ込めた手のひらの下に頭を滑り込ませ「えへへ」と唇をほころばせる。
「……撫でてくれないんですか?」
「なっ……!」
こんなことを言われて平気でいられるはずがない。食い気味によしよし、と髪を撫でれば、彼女はとても嬉しそうに笑った。
「今日は旦那様とのデートですからね! いつもよりも気合を入れておめかしをしました! 可愛いって言っていただけて嬉しいです」
クラルテはそう言って、目の前でターンをして見せる。
彼女が選んだのは鮮やかな青色のドレスだった。そういえば以前、好きな色は『青』だと話していたことを思い出す。俺の瞳の色だから、と。
「うん……よく似合っているよ」
まるで全身で『俺が好きだ』と告白をされているかのようだった。クラルテはいつだって俺のために頑張ってくれている。
嬉しくて、照れくさくて――それから幸せだと心から思う。不安だなんて言っていられない。クラルテにもらった幸せを、今度は俺が返す番だ。
「そろそろ行こうか」
「はい! すっごく楽しみです!」
嬉しそうに笑うクラルテに、俺は思わず目を細めた。
***
朝食を食べたあと、俺たちは馬車で王都の中央へと向かった。
「わたくし馬車って大好きです! 転移魔法を勉強して以降、あまり乗らなくなったので、なんだかすごく新鮮ですし! 子供の頃はよく乗っていたんですけどね」
クラルテはウキウキと声を弾ませつつ、窓から景色を眺めている。
「……どうせ買うなら魔力車のほうがいいか迷ったんだが」
魔力車というのは文字どおり魔力で動く車のことだ。形は馬車と似ているが、原動力が馬じゃないため、コンパクトだしスピードも出る。ただし、その分だけ値段は高い。十数年前に開発され、一部の上流貴族のみに使用されていたのだが、最近では流通台数が増えてきている。クラルテは流行に敏感だし、どちらがいいか割と本気で悩んだのだが。
「いえいえ、馬車のほうがなんだか特別感があって嬉しいです。わたくしには転移魔法がありますし。ここなら旦那様と思う存分くっつけますし! 旦那様、密室に二人きりって、なんだかドキドキしません?」
「……クラルテならそう言うだろうと思った」
魔力車の場合は運転手がずっと同じ空間にいる。馬車なら完全に二人きりだ。
しかし、クラルテが好むと思った――というのは完全に言い訳で、俺がそちらを望んだ、というのが実は正しい。
「ところで、ずっと気になっていたことがあるんだが」
「はい、なんでしょう?」
「どうして『旦那様』なんだ?」
俺が尋ねれば、クラルテは目を丸くし、頬を真っ赤に染め上げる。
「え? と、それは、どういう……」
「よくよく考えると、俺はクラルテに名前を呼ばれたことがほとんどないなぁ、と思って。どうして『旦那様』なんだ?」
家に押しかけてきたそのときから、クラルテは俺を『旦那様』と呼んでいた。他に突っ込みどころが多すぎたので、これまでスルーしてきたものの、密かにずっと気になっていたのだ。
「まさか、俺の名前を知らないなんてことは……」
「そんなことあるわけないじゃありませんか! こんなにこんなに大好きなのに!」
「だったらどうして?」
「それは、その…………」
クラルテは珍しく俺の目を見ようとしない。それがなんだかもどかしくて。どうしてもこちらを向かせたくて。両頬を包んで覗き込んだら、クラルテはボン! と音が聞こえてきそうなほど、さらに真っ赤になった。
「俺には言えないことなのか?」
「いえ、その……『絶対に旦那様と結婚するんだ』という強い意志が『旦那様』というワードに結びついた――的な?」
しどろもどろになりながら、クラルテがそう解説する。あまりにも思いがけない回答に俺は思わず笑ってしまった。
(可愛いなぁ)
本当に、クラルテは可愛い。言動も、仕草も、なにもかもが可愛い。思い切り抱きしめて、愛で倒したくなってしまう。
「俺はってきり『名前を呼ぶのが恥ずかしい』なんて言われるものかと思ってたんだが」
「もちろんそれもあります。旦那様の名前、かっこよすぎて、大好きすぎて、お呼びするたびに愛しさが溢れ出してしまいそうですし。恥ずかしすぎて呼ぶのをためらってしまいそうで……」
「そうか。……それは困ったな」
「え? なんでですか?」
クラルテが目を丸くする。俺は思わず口元を押さえた。
「今日は一日『旦那様』じゃなく『ハルト』と呼んでほしいってお願いするつもりだったから」
「へ……?」
驚きのあまり、クラルテがピョンと飛び上がる。彼女はもはや涙目だった。困ったような――けれど嬉しそうな表情を浮かべて、俺のことを呆然と見つめている。
「クラルテ、俺のお願い、聞いてくれるだろう?」
「えぇ……? だ、だん」
「ハルト」
手を握り、懇願する。クラルテは、俺と繋がれた手のひらとを交互に見つつ、口を何度もハクハクと動かしている。
(可愛い)
可愛くて、触れたくて、たまらない。もう何度、あの愛らしい唇に口づけたいと願ったことか。――――どれだけ我慢をしたことか。
(まだだ。まだそのときじゃない)
「ハルト……様」
だけど、クラルテに名前を呼ばれたその瞬間、身体が勝手に動いた。
唇同士が触れ合う柔らかな感触。鼻腔に広がるのは口紅――いや、クラルテ自身の香りだろうか? ほんのりと甘い香りが胸いっぱいに広がって、なんだか全身がむず痒くなる。
(あぁ……)
しまった。順番、守るつもりだったのになぁ。
――いや、違う。悪いのは俺じゃない。クラルテが可愛すぎるのが悪いんだ。
「なっ! なな……!」
クラルテはへにゃりと俺に身体を預け、必死に顔を隠している。恥ずかしくてたまらないのだろう。
……だけど、見なくてもわかる。きっと今、最高に可愛い表情をしているんだろうなぁ。
「……見ちゃダメ?」
「絶対ダメです!」
あまりにも可愛いその返事に、俺は思わず声を上げて笑うのだった。




