第5話 宿
夜が近づき、今日も野宿かと覚悟しかけていたところに、一人の男に声をかけられた。
「もし、旅の方。これから一山越えるのは危ない。今夜は家に泊まっていくといい」
体格はいかにも立派で、黒のオークと取っ組み合っても力でふせてしまいそうな頑強さであるが、身なりを見れば、それほど裕福には見えない。
饗応を求めているわけではないが、旅人を招いて、この者自身が食に困ったりはしないのかと心配になる。かと言って、食うに困って旅人の寝首を掻こうなどという悪漢でないことは、人相で分かる。
オークや盗賊の危険性を考えると、少なくとも山中での野宿は賢い選択ではないが、どうしたものか。
「マッツォ師、この方のご厚意に甘えませぬか。旅の道半ばどころか、イェドを出て一週間も経たない内に怪我でもしては、事です。」
ソルラも同じ思案をしたのだろうが、先に結論を出して進言してきた。
「うむ。では、お言葉に甘えさせていただこう。さしたる例も出来ぬが、それでもよろしいか」
男は笑った。
「なに、恩を求めてのことではありません。お気になさらず、旅の疲れを癒していって下さい」
こちらです、と男は先導する。
道すがら、あちこちの人が男に声をかける。
「ホッさん、うちの豆、持っていくかい」
「ホッさん、こないだはありがとうね」
「ああ、ホッさん、そろそろ田植えだから、今年もよろしくね」
「ちょっとホッさん、うちの旦那が釣りすぎてきたから、もらってちょうだいよ」
誰もがホッさん、ホッさんと声をかけ、男は笑顔で受け取ったり断ったり、断り切れずに受け取ったりしていた。
察するに、この里のものは誰もが「ホッさん」の世話になっているのだろう。
男の家に到着し、一息ついてから、私は尋ねた。
「あらためてお礼を申し上げる。私はマッツォ=バッショール。北の古都を目指して旅をしておる身です。こちらは弟子のソルラ。時に、辺りの人々が、あなたのことをホッさんと呼んでおられたが、お名前はなんと」
「ああ、本名ではないんですが、みなさんにホ=トゥンケだとからかわれているのです」
それを聞いて、今度はソルラが尋ねる。
「ホ=トゥンケといえば、神々と並び称される高位の霊。なるほど、見ず知らずの我々を泊めて下さるお心、そして辺りの皆様を日常的に助けておいでのその行いは、そのような名をつけられるにふさわしい」
ソルラの言葉に、男は頭を掻きながら首を振る。
「滅相もない。私はただただ正直に生きたいと願っているだけで。悪いことをしないなんてのは当然としても、困っている人がいれば手を貸したいし、見過ごせないもんでしょう。そうして暮らしてたら、みんなが大げさにほめてくれたんですよ」
男の言葉に、私は笑って頷いた。
「誰しもそう願う。しかし、実際には我が身かわいさに他者を顧みれなくなり、ややもすれば悪事に手を染める。大なり小なり、人は人に迷惑をかけて生きているものだ。あなたが為していることがいかに難しく尊いことなのか、私もソルラも、そしてあなたを知る全ての人が、分かっているのでしょう」
男は照れながら、滅相もない、滅相もないと頭を掻きどおしである。
供された夕餉は米と川魚、そして豆や野菜の汁だった。
ソルラが手伝おうと申し出ても男は休んでいてくれと言い、慣れた手つきで、小一時間で食事となった。
素朴で、体に染みる味だった。
せっかくだからソルラの料理を味わっていただきたいとも思って見ていたが、なるほど、これは人に振舞うに足る味である。
ソルラの舌も満足させられたようで、食べながら、二人は料理の極意について談義していた。
片づけようと立ち上がると、それも制された。さすがに上げ膳据え膳というわけにはいくまいと思ったが、男に気を遣わせることこそ非礼かとも思い、厚意に甘えた。
私もこれまでに幾度となく旅をし、こうして一晩の宿を借りてきたが、このような好人物に巡り合う幸運は稀である。
「素晴らしい方ですね」
寝床でソルラが言う。
「うむ。こう言ってはなんだが、特段に知勇に優れた大人物というわけではないだろう。だが、ただひたすらに正直一途に生きるというその姿の、なんと美しく尊いことか」
ふと、古い書の一節を思い出す。
「剛毅朴訥は仁に近し、か」
翌朝、男は里の外れまで私達を送り、途中で食えるようにと、干した魚を持たせてくれた。
「ありがたい出会いでしたね」
ソルラの言葉に、大きく頷いて応える。
さあ、見える険しい山を越えれば、霊験あらたかな地として名高い、かのニツコの地が待っている。
作者の成井です。
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