素直になれずにデスロールでごまかす後輩の鰐渕さん
「ごめんなさい……生理的に無理」
「──ぇっ!?」
放課後の屋上で、一人の健全なる男子学生が、戦花となりて散った。夏もまだ始まったばかりの頃だった。
「せ、せいりてきにとは……ど、どのようないみあいでございますですか?」
死してなお諦められぬ男は、それが介錯の一声になることを知らない愚か者であった。
「水泳部の練習見たさに隣の弓道部に入部したの知ってるんですけど? いつもチラチラ見てて気持ち悪いし、そのせいで山村先生のカツラ打ち抜いて反省文500ページ喰らったの忘れたの!?」
男は死んだ。見る影も無く地面に伏した。
女子生徒は足早にその場を立ち去り、そして虚無だけが訪れた。
「ま、いいか。次だ次!」
男は立ち直りだけは早かった。
さっさと立ち上がると下校し、いつもの本屋へ立ち寄るかと見せかけていきなりダッシュした!
「鰐渕ぃぃぃぃ!!!!」
それは悲痛な叫びだった。
無口がたまに傷な女子、鰐渕は、突然の来訪に呆れみ、そして天を仰いだ。
まるでテレビアニメで見たかのような、そんな光景がそこにはあった。
「鰐渕ぃぃ!! またフラれちゃったよぉぉぉぉ!!!!」
「…………」
グリグリと頭をすり寄せ咽び泣く男に、鰐渕は無言でそっと頭を撫でた。
「だよな! いつか必ず上手くいくよな!」
「…………」
何処からそのポジティブ思考が出て来るのか、鰐渕は呆気に取られながらも、黙って頷いた。
「よし! 次のラブレターを書くぞ! 良い子が居たら即渡すチャンスだ!」
「…………」
順序が違うのでは?
そう思いながらも、鰐渕は男を止める術を持ち合わせては居なかった。
「放課後屋上で待ってます、と──」
「…………」
もうコピーで良いじゃん。
鰐渕はそう呟きかけて止めた。男が楽しんでいるのならそれでいい。そう思うことにした。
「よし! 会心の出来だ! 鰐渕! ドーナツ食べに行くぞ!」
「…………!」
彼女も彼女でただ我慢しているだけではなかった。
機嫌が良くなると、男が何かをご馳走してくれるのを知っている鰐渕は、ここぞとばかりにピンと体を張り、期待の眼差しを向けて強く頷いた。
「三個までなー」
「…………」
並んだドーナツを前に悩む鰐渕。
季節キャンペーンも終わりかけの抹茶ドーナツに目がとまる。
「普段さ、抹茶なんか食べないけどさ、たまーにあるよね、抹茶味が美味しいときってさ」
「…………♪」
鰐渕は微笑みながら頷いた。口いっぱいに抹茶味を頬張り、幸せを噛みしめていた。
二つ目のカスタードドーナツを食べ、指についたクリームを吸う鰐渕。
三つ目のチョコドーナツを食べ終えると、少しだけ寂しさも覚えた。
「……半分、食うか?」
「…………!」
綺麗にちぎられた抹茶ドーナツを向けられ、鰐渕は喜んでそれを受け取った。
鰐渕は知っている。彼は鰐渕の為に少し残してくれている事を。
鰐渕はそれがとても嬉しかった。
「ごめん、いきなり言われてもあなたのことそんなに良く知らないし……」
「──っ!!」
数日後、男は再び屋上で死んでいた。
「ジロジロ気持ち悪いから、合唱部ももう辞めて」
「……はぃ」
完膚無きまでに打ちのめされ押し花と化した戦花は、メガトンプレスで潰されて地面に張り付き、誰にも剥がすことが出来そうになかった。
「……次!」
しかし立ち直りだけは早かった。
「鰐渕ぃぃぃぃ!!!!」
グリグリと頭をすり寄せる男に、昔飼っていた子犬のコロを思い出し、ついつい頭を撫でてしまう鰐渕。
「何が悪かった!? 何が悪かった!?」
「…………」
天を仰ぐ鰐渕。しかし結論ありきの答えしか浮かばなかった。
「手紙の内容が悪かったか!?」
「…………」
まぁ、それもある。と、鰐渕は小さく頷いた。
「そうか! ならば書くぞ!」
鰐渕の机に向かい手紙を書き始めた男を見て、メンタルの強さの底が知れないと、鰐渕は少しだけ怖くなった。
「拝啓──突然のお手紙に驚かれたかと存じ上げ奉り申し上げ候」
「…………」
鰐渕が隣に座り、訂正箇所を赤ペンでつつく。
「だ、だめ?」
「…………」
眉をひそめる鰐渕。その顔は『何故これでいけると思った?』と言いたげだった。
「直すぞ!」
今日は長くなるなと、鰐渕は時計を見た。
「──お返事お待ちしております、と」
「…………」
考えながら書いた手紙は、ヨレヨレのクタクタの文が並んでいたが、今までで一番まともだった。
「よし! 鰐渕何か食べに行こうぜ!」
「…………」
立ち上がる男の袖を、鰐渕はそっと掴んだ。
「どうした鰐渕?」
「…………」
鰐渕が首を振る。そして新たな紙を一枚取り出してトントンと小さく指で突いた。
「……え? 清書?」
「…………」
小さく頷く鰐渕に、男は「確かに!」と座り直して清書を始めた。
「出来た!」
「…………♪」
ようやく出来た清書を三つ折りにし、封筒へ優しく入れる。
「よし! 明日溝口さんに渡そう!」
「…………!?」
その名を聞いた鰐渕が、男の腕を噛んだ。中々にいい音がした。
「いでっ!! な、なんだ鰐渕!? どうした!? はうどぅゆーどぅいえすたでー!?」
「…………」
無言で噛み続ける鰐渕。
そして噛んだまま回ろうとする鰐渕。
「分かっだ! 分がった!! いきなり渡すのは時期曹操だったな! 焦らず作戦を練ろうじゃないか!」
「…………」
鰐渕がそっと口を離すと、腕には大きく噛み痕が残っていた。
「おー痛ぇ」
「…………」
「いや、いいんだ鰐渕。また突っ走ってやらかす所だった。ありがとう」
「…………」
噛んだ腕を擦りながら、鰐渕は複雑な顔をした。
鰐渕は知っていた。溝口が『えー? アイツ意外と浮気しなさそうだし、惚れたら一途っぽいし、案外気遣いとかパないかもよー!?』と、友達と話していた事を。
そして鰐渕は知っている。彼はお近づきになるのが超絶に下手なだけで、冷静にお付き合い出来れば後は何ら問題は無いことを……。
鰐渕は少しだけ罪悪感を覚えた。
「おう、来てたのか? もう遅いから風呂入って飯食ってくか?」
「あ、先輩! あざーっす!」
既に学校を卒業した一つ上の先輩が、仕事を終え顔を出す。鰐渕の兄だ。
幼少は三人でよく遊んでいたが、鰐渕が二人の後ろをついていくだけの事が多かった。
それでも男は鰐渕を置いていったり仲間外れにはしなかった。
無口な鰐渕が上手く馴染めているか、常に気に掛けていた。
「先輩の家シャンプーめっちゃあるから好きなんですよね~」
「まてぃ!」
「グエッ!」
襟を掴まれ首が絞まる鰐渕。
「レディファーストだ。それに飯はコイツが作るからな。お前が先に入ってどうする」
「あ、うス」
促され先に風呂へと向かう鰐渕。突然の事に耳まで赤くなっている。聞いてない。そんな顔だ。
「お前はそこで勉強でもしてろ」
「ゲーッ」
「どうせ学校でやらねぇんだから良いだろ?」
「……ッス」
男は一人部屋に残され、渋々教科書を開いた……フリをした。
「マイシスターよ」
「…………」
向けられた眼差しは、やや怒りが込められていた。
「悪い悪い。だが、そろそろ頃合いだろう? アイツの噂は何故かコッチにまで届いている。このままだとアイツ伝説を作り上げるぞ?」
「…………」
鰐渕は返す言葉が無かった。
お風呂の加減を見るため、静かに背中を向けた。
「お前のことを可愛い妹か何かだと思ってるんだろ。結構な事じゃないか!」
「…………」
強く、首を振った。
「……なら、仕留めろ」
「…………!」
兄の不気味な笑いに意を察した鰐渕は、小さく、そして力強く頷いた。
「風呂出来たぞー」
「イエッサー!」
「あ、お前は石けんと試供品シャンプーな」
「あい!?」
「お前が使うと滅茶苦茶シャンプー減る事件が十年前にあったろ?」
「……あ、はい」
苦い思い出を胸に、風呂を頂く男。
「お風呂頂いただきました……」
「おう! 飯だぞー」
鰐渕が作った即席の焼き飯がテーブルに並んでいた。
「頂きます!」
「いただきます」
「…………」
三人が手を合わせ、食事にありついた。
久し振りに三人で食べる食事に、懐かしさが込み上げた。
「どうせなら泊まってくか?」
「あ、すみません何から何まで……」
食後に洗い物を手伝い、いざ就寝という間際。事件は起きた。
「じゃ、俺仕事するから、お前はアッチな」
「──!?」
鰐渕の部屋を指差す兄に、男は少したじろいだ。
この人は何を言っているんだろう? そう眉に現れていた。
「良いよな?」
「…………」
鰐渕が静かに頷いた。心なしか緊張した面持ちである。
促され部屋に入ると、電気もつけずに鰐渕は男をベッドへと押し倒した。
「──おわっ!?」
「…………」
ゴロリと横になり、鰐渕は男を抱き寄せ、そして首を噛んだ。
「痛いぞ鰐渕」
「…………」
少しだけ噛む力が弱まった。
鰐渕の使ったシャンプーの良い香りが、二人を包み込む。
「どうした?」
「…………」
鰐渕はそっと口を離し、男の耳を自分の胸に押し当てた。
「…………」
それが嘘では無いことは、異常なまでに高鳴る鼓動が証明していた。
「……鰐渕……」
男の中で世界が一瞬にして変わろうとしていた。
まるで揺れ動く地に、踏ん張り立つのが精一杯な状態で、少しでももたつけば地面が割れて落ちてしまいそうだった。
「…………」
言葉の端々に震えが見えた。
強く抱きしめられ、男はしばし返答に迷った。
頬に伝う雫をそっと指で拭い、鰐渕の目を見た。
「彼女が出来たら最初にしたいこと、話したの覚えてるか?」
「…………」
鰐渕が小さく頷いた。
近所のカフェのカップル限定スペシャルドリンクである。常夏を思わせる爽やかなロコジュースを、二つのストローで頂く。
ただし、皆が恥ずかしがり、頼む人は稀であった。
「行こうぜ?」
「…………」
鰐渕は少し躊躇いがちに、小さく頷いた。
男の気持ちは嬉しかったが、あのジュースは恥ずかしい。
「鰐渕……ありがとな」
いつの間にか清書した手紙を持っていた鰐渕。
少し意地悪そうな顔で男に問いかける。
「……そだな」
手紙を破こうとして手を止めた。そして鰐渕は、手紙をそっとベッドの下へと置いた。
二人で書いた思い出を捨てたくは無かったのだ。
「ちょっと恥ずかしくなってた。捨ててくれ」
「…………!」
手を伸ばし手紙を拾おうとする男に、鰐渕が噛み付いた。
「いででで……!!」
「…………」
「分かった! 分かりました!」
「…………♪」
鰐渕は疲れたのか、男に抱き付いたまま静かに寝息を立て始めた。
「ふふ、変な奴……」
男もまた、鰐渕にピタリと寄り添い、眠りについた。
「なんでお前凄い齧られてるの?」
「いえ、これにはちょいと深いわけが……」
翌朝、兄は二人の将来を心配した。