第27話:時を越えて(3)
ウェールズの首都カーディフ。
僕は朝のカーディフの街を歩きながら困惑していた。
歴史ある石造りの建物が左右に建ち並び、その中を携帯電話を片手に歩くスーツを着た会社員や僕と変わらない年頃の人たちが忙しなく歩いている。更に遠くに目を向ければビルやマンションなどの近代的な建設物が見え隠れしていて、現代に数世紀前の都市がそのまま現れたように感じられる。まるで、今の僕の状況を写しているようだった。
世界が統一されて世界的に治安が悪くなったと聞くが、この街を見ているとそうは思えない。それは、ウェールズ――――――いや、イギリスが今では数少ない独立国であるのにも影響がないとは言えない。島国であるイギリスは食料などの物資の大半を輸入に頼っていたため、世界統一当初は随分と荒れたそうだ。しかし、今では輸入に頼ることなく国民同士で協力し合い、自国を賄えるようになったため、こうして平穏に暮らせるのだそうだ。
「おなかすいたー」
ティエルが僕の横で眠たそうな目で呟く。ティエルだけでなく、エディックとカルアも同じように疲れた顔をしていた。
「もう少しだから我慢してくれ」
「うん・・・・・・」
これで何度目になるか分からないやりとり。
僕は溜め息をついて、さっきまでの出来事を思い出す。
ドアの前で二回ノックをした。はい、とすぐに返ってきたので僕はドアを開ける。
「失礼します」
そう言って僕は恐る恐る病室に入る。特に理由はないのだが、病室というのは何故か緊張してしまう。
僕が入ったのは六人部屋ではなく、二人用の病室だった。正確には個室に無理矢理ベットを二つ置いているのだが。そのせい、ですごく窮屈な部屋となってしまっている。しかも、その内装が一般の病院のように清潔とはかけ離れていた。床は剥がれ、壁は何枚も板が張り合わせてある。そして、病人が使うベットのシーツも黄ばんでいて、ここがどれだけ古いのかを感じさせる。
そんな病室の患者である優作さんは僕の顔を見るとニコッと笑いかけてきた。
「お騒がせしてすみません。驚いたでしょう?」
「・・・・・・いえ、無事で良かったです」
ベットで上半身だけを起こした優作さんを見て僕は安堵する。
優作さんの体には仰々しく包帯が巻かれている。実際に出血が多くて重傷だったのだが、医者が言うには一ヶ月もしない内に完治するらしい。右の脇腹が焼き溶けたように抉れていたけど、臓器は一切傷つけていないため無事だったという。正に不幸中の幸いだった。
無事だったのは良かったが、住んでいた教会はなくなってしまった。例え住めたとしても、あの場所は教団にも財団にも知られているため戻ることは出来ない。また新たな住処を探さなくてはならないが、この怪我では遠くへは行けない。いくらここが非公開の病院とはいえ、バレるのは時間の問題だ。
「そんな顔をしないでください。私たちは慣れていますから」
優作さんがそう優しく微笑んでくる。どうやら顔に出てしまったらしい。
僕はどう答えていいのか分からず顔を俯かせて黙ってしまう。
「問題は私ではなく、あなたです。春幸さん」
「え?」
意外な言葉に僕は顔を上げる。
「昨晩であなたは教団に巨兵魔器を見られた。もしかしたら私たち以上に危険な状況かもしれない」
「・・・・・・そうかもしれませんね」
自嘲気味に呟く。
それは僕も考えていたことだ。真堵を殺した教団の教祖の水無瀬薫瑠が僕を放っておくとも思えないし、魔器狩りとかワケの解らないことまでしているらしいから余計に安心出来ない。
だからといって、この国では通貨も無いうえに言葉も通じない。勿論、頼れる組織が高校生にあるわけもない。逃げることなど不可能なのだ。例え逃げる方法があったとしても、同じように狙われているティエルたちを見捨てて、自分だけ逃げることなど僕には出来ない。
「これからどうするか、決めていますか?」
「いえ、どうすればいいのか分からなくて困ってます」
本当にどうすればいいのか、僕には分からなかった。僕の目標は最終的に陽山たちと合流することだが、そのためにも必要なものがある。それは、金銭でも、言語でもない――――――もっと大切な。
僕はポケットからグリモワールを取り出し、思い出すようにそれを見つめる。
昨晩。巨人兵器に銃撃されそうになった時、僕は反射的に《月讀》を呼んだ。《月讀》は僕の呼びかけに応えて現れてくれた。
しかし、その姿はひどく傷ついていた。漆黒の鎧は全体的に亀裂が走り、顔は右半分が中身の結晶が剥き出し状態。腕は右腕が肩から無く、左腕は指が有り得ない方向に捻じ曲がっていた。両足は今にも折れてしまいそうに弱々しく見えた。秋菜が見えていた部分が隠れているのはおそらく自己修復機能のお陰だろう。
そんな満身創痍で《月讀》は闇の壁を作り出して銃弾を防いだ。そして、無事だった背中の翼のエンジンを稼動させ、飛んで逃げてきた。なんとか教団から逃れて街外れに着くことが出来たが、全員が降りると同時に《月讀》の両足が大破した。更に皆を支えていた左腕はこれ以上動かせば、両足と同じように折れると言っているみたいに、胸に伸ばしたまま動かない。今頃は自己修復を行っているところだろうが、それもいつ直るのは分からない。もしかしたら、完全に直らない可能性もある。
僕自身やティエルたちを守るためにも《月讀》の力は絶対必要になる。だから、一度専門の人に診てもらわなければならない。次にいつ襲われるのか判らない以上、自己修復を待っている暇はないのだ。
「――――――それなら商団を訪ねるといい」
僕の後ろでドアが開くのと同時に訛りのある日本語が聞こえた。
振り返ると白衣を着た初老の男が狭い病室に入って来る。優作さんを診察したモグリの医者だ。ここは否認可の病院であり、彼の隠れ家でもある。優作さんが以前言っていた知り合いがこの闇医者だ。普通なら絶対に関わることはないが、優作さんたちのような逃亡生活を送っている人たちにとっては有り難い存在である。
「商団?」
聞き慣れない単語に僕は首を傾げる。
「確かに彼らなら色々コネを知っているでしょうが、そんな都合よく会えるでしょうか」
優作さんが当然にように医者の言葉に問い掛ける。
「今この街に滞在している。明日の朝には別の国に発つらしいぞ」
「どうしてそんな情報をあなたが?」
「こういう仕事をしているとそういう情報が入ってくるのさ。それに・・・・・・私もそのコネの一つだ」
初老の男が不快な笑い顔をする。こんな男をコネにするとは商団と呼ばれる連中も危険な集団なのかもしれない。
「どうする? とりあえず私の招待状を持っていけば話くらいは聞いてもらえるぞ」
そう言って医者は右手の人差し指と親指の先をくっつけて輪を作る。
「もちろん・・・・・・ただではないがね?」
そんなわけで僕らは商団が今拠点にしている港を目指している。
聞いた話では商団は船で世界を渡っている商業団体だそうだ。元々日本の民間企業だったものが時代に合わせて大きくなったと聞くが、実際そんなことが有り得るのだろうか。日本が居辛くなったとはいえ、すぐに国際的な商業団体になるのは不可能だ。モグリの医者をコネとしているくらいだから、昔から危ないことに手を出していたのではないか、とマイナスな想像ばかり膨らむ。
嫌な考えばかり浮かばせていると、
「蒼明のせいでみんなのところに帰れなくなったじゃん! どうするの!?」
「ごめんってさっきから言ってるだろ。とりあえず今度はこっち行ってみよう」
二〇メートルほど先で男女が揉めていた。
それが揉めていると判ったのは、二人が話しているのが日本語だったからだ。さらりとショートボブの日本人の少女が、中国人っぽい青年を一方的に叱咤する。男の方は少女よりも頭一個分背が高いのに、勢いで負けてしまっている。
どうやら仲間との待ち合わせ場所が判らなくなって困っているようで――――――
「あっ!」
とショートボブの少女が声を上げる。
何に対しての言葉なのかは、目が合った時点でなんとなく解った。激しく嫌な予感を抱きつつも、進路的にはあの二人の方向なので僕は真っ直ぐと歩いて行く。
「ねえねえ、君って日本人だよね!?」
予想通り声を掛けられてしまう。
「そうですけど・・・・・・」
「カーディフ港ってどこにあるか知らない?」
それの名前を聞いて頭を抱えそうになる。
「それなら僕たちも向かってるところです」
「本当? よかったー」
パッと少女の顔が明るくなる。
「お願い! 途中まで連れてって!」
「い、いいですけど・・・・・・」
勢いに負けて僕は即答で了承してしまう。連れの男が言い返せない理由がなんとなく解った気がする。
皆に視線だけで今更だけど確認を取る。エディックは何勝手に決めてんだよ、と目を細め、カルアは諦めたように苦笑いしている。
「蒼明! この人たちが一緒に連れてってくれるってさ!」
「おいおい。また勝手なことしやがって。・・・・・・すいません。コイツいつもこんなんで」
蒼明と呼ばれた男は少女に文句を言ってから僕らに軽く頭を下げる。たが、その反応が不満だったのか少女が眉をひそめる。
「何それ私が悪いの?」
「雅弥は他人の領域に踏み込みすぎなんだって」
再び口論を始めてしまった。止めるべきなのかな、と悩んでいると小さく腹が鳴る音が響いた。
音の発信源を見ると少しだけ頬を赤らめて僕を見上げる。
「ハルー」
どうやらそろそろ限界らしい。
朝から何も食べていないのには理由がある。それは商団と呼ばれる連中がカーディフ港を拠点にして船ごと移動しているからだ。朝ならまだ船は出てない可能性があったので、さっさと行って用件を済ませてから朝食にしようかと思っていたのだ。
「なんだ。朝飯食べてないのか?」
「色々あって・・・・・・」
「よし! ちょっと待ってろ」
そう言ってすぐ近くにある売店へと入っていく。
暫くして袋片手に蒼明は出てきた。
「これ食えよ。小さいわりに結構腹膨れるぞ」
袋を開けてティエルに差し出す。
中から取り出されたのはパンだった。出来立てらしき独特の香りが袋を開けると同時に広がってくる。空腹ということもあってそれはすごく食欲をそそる匂いだった。
ありがとう、とティエルは満面の笑みを浮かべながらパンを受けとる。
「お前らの分もあるぞ」
と蒼明が僕らに袋を差し出してくる。
「でも、いいんですか・・・・・・?」
「良いって良いって。どうせ世話になるのはオレらなんだ。道案内してくれるお礼と思って受け取ってくれ」
「それなら・・・・・・いただきます」
受け取って、エディックとカルアにも回す。
そして、パン片手に街を歩く。
「お二人は旅行中なんですか?」
黙って歩くのもつまらないので僕は思い切って二人に尋ねてみた。
「観光感覚の旅行ってわけじゃないけど・・・・・・まあ、旅はしてるかな。世界を転々と、ね」
少し疲れたように蒼明は答える。どうやら楽しい旅というわけではないらしい。
「世界中を旅してるんですか・・・・・・どんな国に行ったんですか?」
「色んな国に行ったよ。でも、世界が統一しちゃったからどこも一緒。治安が悪いところばっか。それに比べて独立国のイギリスは長閑で過ごしやすいね」
「まあ、イギリスは平和な国だけど所詮はそれだけだよ」
「どういうこと?」
皮肉気に言う蒼明の意味が解らずに僕は訊ねる
「確かに平和なのは良いことだが、他国に比べて技術も軍事力もレベルが低すぎる。これじゃ教団や財団の抗争に巻き込まれたらひとたまりもない」
「独立国って言っても、この国にだって十世戒教団の教会あるしね」
他人事のように雅弥が呟く。
十世戒教団は世界中に信者を抱えている。それは独立国のイギリスも例外ではない。
「簡単に言うと、この国は平和であって安全じゃない。一番の防衛手段が一世代前の巨人兵器じゃ自国を守るには物足りないな」
「他の国は治安が悪いって言ってたけど、それも安全って言えないんじゃないか?」
「それは国自身が国民を放置してるからだよ。何を躍起になってるか知らないけど、無法地帯にもほどがある。今まで行った国で普通に買い物が出来たのだって両手の指で数えられる程度だぜ? 荒れた社会で生きていくために傭兵になるか軍人になるかって言われてるくらいだ。そんでもって心も体も弱いやつは教団に入信して神頼みって感じ」
蒼明の話を聞いて唖然とする。
予想以上に世界は深刻化しているらしい。イギリスが独立国だから、とは言うがどうも想像出来ない。陽山たちは大丈夫だろうか。僕のように平和な街に居てくれたらいいけど・・・・・・。
「どうしたの? 顔色悪いよ?」
僕が陽山たちのことを考えていると雅弥が心配そうに僕の顔を覗いていた。
「いや、何でもないよ」
蒼明も申し訳なさそうに僕を見る。
「もしかして・・・・・・と思ってたが、今の話知らなかったのか? てっきりオレはお前らも似たようなもんだと・・・・・・」
「どうして?」
「だってそんな国際色豊かな家族いないだろう」
そう言われて、チラッと後ろを覗く。
髪や肌の特徴から三人共出身国はおそらく違うだろう。
そして、財団管轄の軍施設に数年の逃亡生活。その間ずっと優作さんの世話になっていることから、三人はすぐに家族に会える状態ではないのは間違いない。逃亡生活をしている身のせいで危害が及ばないように家族を避けている可能性があるが、蒼明の話を聞くと生きているのも怪しい。元々苗字の違う四人が一緒に暮らしている時点で何かあると思っていたので、敢えてその話題は訊かないようにしていたのだが・・・・・・。
どう答えようか迷っていると、
「孤児だ」
口を開いたのはエディックだった。特に気にした様子もなく淡々と答える。
「俺たちは同じ施設で育ったんだ。生まれてすぐ捨てられた子供とか、荒れた国から逃れてきた親のいない難民が集まったところでな。ま、血は繋がってないけど、俺たち四人は家族だ」
その言葉に僕は驚くと同時に嬉しさが込み上げてくる――――――家族の中には僕も含まれていた。
それを聞いて自分が言った言葉が失言であることに蒼明は気づいて、気まずそうに頭をボリボリと掻く。
「そうだったのか・・・・・・悪いこと訊いたな」
「良い。慣れてる」
何事もなかったかのようにエディックを言う。本当に慣れてるみたいだった。旅先にも似たような質問をされたことが何度もあるのかもしれない。実際にカルアもティエルも同じように気にした素振りを見せない。
それから少し歩いていると、潮の香りが風に乗って僕の肌に当たる。その香りに誘われるように道を進むと、広い海が視界いっぱいに映った。
カーディフ港――――――僕たちの目的地だ。
広大な海が広がっていて、そこに船が何隻も並んで停泊している。小さなボートからフェリーのような巨大な船まで見え、船の大きさと種類によって泊めてあるエリアが分けられてあった。しかし、港にはコンテナなどの大型の荷物を運び出すための機械や通路を除いて、殆どの沿岸部付近には石張りの建物が並んでいた。
白とベージュを基調色として軽快感のある建物が大蛇のように続く。実際には小さな建物が数センチから一メートルの間しか空けずに詰めて建てられている。しかも、どれも飲食店や観光グッツなどを扱ったお店だった。元々古い建物を改装して作ったのか、古い外装に比べて内装がすごく綺麗だ。飲食店はともかく観光グッツは売れているのだろうか?
そんな建物を区切るように所々人が並んで歩けるほどの幅の道が見えた。その道は水辺にあるデッキに行くためのものだ。中には店の二階から水辺側に降りられるように階段が降りているところも少なからずあった。ここは船を泊めるための場所、と言うよりは、観光客を楽しませる、場所に近かった。今は観光客はいないが、代わりに地元の人間で賑わっていた。
水面沿いに作られたデッキを歩いていれば商団の船を見つけることが出来るだろう。
「・・・・・・やっと辿り着いた」
蒼明が重い溜息と共に呟く。僕たちに会う前に相当苦労したのだろう。
「ありがとう! お陰で仲間のところに戻れるよ!」
雅弥が弾んだ声で僕たちにお礼を言う。本当に嬉しそうだ。
「それじゃ、早いがここで失礼するよ。予定よりも大分待たせちまったからな」
「お世話になりましたー」
二人はそう言って人混みに消えていった。そういえば、お互い名乗らなかったな、と思ったが、もう会うことがないのだから別に良いかとすぐに考えを消し去る。
さて、商団の船を探すか、と気持ちを切り替えると同時に周囲の空気が変わった。なんだろう? と周囲を見渡すと人々は一点を直接ではないがチラチラと見ていた。直接見れない理由は僕にもすぐに解った。
道のど真ん中を五人の黒スーツ姿の男が歩いていた。パッとみただけでも、ヤクザなどをイメージさせる危ない部類の人間であることが雰囲気で伝わってくる。全員がサングラスを掛けているから判らないが、おそらくその向こうでは刃物のような眼光がぎらついていることだろう。
何より目立つのは、彼らが五人共日本人だということだ。そして、最初は気づかなかったが、五人の中心には一人の男がいた。貫禄のある五〇代に入るか入らないかくらいの年齢。五人のスーツ男たちに守られるように着物を着た男は堂々と歩いていた。
僕は動けないでいた。ヤクザのような連中を見てビビッているわけでも、この状況に困惑しているわけではない。
「源綯さんっ!」
気づけば、僕は叫んでいた。
その声を聞いて、スーツの男たちが僕を睨みつけ、片手を胸ポケットに入れる。おそらく、拳銃でもしまってあるのだろう。対して、中心にいた着物の男は僕を見て目を見開いていた。信じられない、と言う風に。
そして、
「なが、みね・・・・・・さん?」
声を振り絞るように僕の名前を呟く。
目の前にいたのは、陽山源綯――――――陽山沙月の父親だった。
春幸たちと別れた蒼明と雅弥は水面沿いに作られたデッキを歩いていた。補強はしてあるが、何十年も前に作られた木製の道は時々ギシギシと嫌な音を立てて彼らを不安にさせる。
「また怒られるんだろうな。早く帰らないといけないって解ってるけど、説教が待ってると思うとあまり気乗りがしないなぁ」
帰った時のことを考えて蒼明は溜息をつく。
「大丈夫だっていつものことだし・・・・・・きっと謝ったら許してくれるよ!」
「許してくれるんじゃなくて、呆れられてるんだって」
ポジティブな性格の彼女を羨ましく思いながらも内心で呆れる。
今回も集合時間に遅刻したのは二人共方向音痴だからだ。更に英語が苦手で、街の案内の地図を見てもさっぱり解らなかった。観光客のためにローマ字表記や他国の言語で案内されている場所もあったが、五年前以降から観光に来る外人は皆無になったのでそこらの管理が全くというほどされていなかった。お陰で読める案内を発見しても、次に見た時にはさっきのように観光客用に翻訳された文字が書かれていなかった、ということが何度も起きてしまったのだ。
そんな方向音痴で英語が苦手な彼らが二人きりで行動していたのには理由がある。
「うおっ」
雅弥が突然、蒼明を自分に寄せるように腕に絡み付いてくる。蒼明はいきなりの行動に一瞬驚いたが、それを解こうとは思わなかった。逆に離さないように絡めてきた手を握り返す。
「えへへ」
「この状態で船に帰ったら茉莉先輩あたりにボコボコにされるだろうな」
そう呟くと、
「嫌?」
悪戯っぽく雅弥が笑いかけてくる。
「嫌じゃねえよ」
言いながら蒼明は雅弥に顔を近づけ、唇を重ねる。
唇を離してから雅弥の顔を見ると、頬が火照っていた。その顔が愛おしくて、もう一度キスをしたくなる。
しかし、視界の端に見覚えのある人物が入ってきて、その考えを停止させる。視界に入って来た人物は完璧な笑顔で腕を組みながらこちらに近づいてくる。完璧であるが故にそれが作り笑いだと解ってしまう。絵に書いたら顔に判り易く怒りマークが付いていることだろう。
顔を逆の方へ向けている雅弥は蒼明の様子に首を傾げている。
「あら・・・・・・みんなを待たせておきながら二人はお楽しみ中? 良いご身分ね」
「いや、これは違うんです・・・・・・!」
すぐに弁解しようとしたが、相手はそれを許してはくれない。
「いいわけを聞くのも面白そうだけど、とりあえずボコボコにしていいかしら?」
「何で!?」
「さっき自分で『嫌じゃねえよ』って言ってたじゃない。自分から罰を受け入れる姿勢に私歓心しちゃった」
本気で歓心しているようで、ふふっ、短く笑う。怖っ!
「そういう意味じゃない! 雅弥、助けてくれ!」
「先輩。明日には完治する程度でお願いします」
「とりあえずボコボコ回避出来るように頼んでくれよ!」
心の底から、助けれくれっ! と叫ぶ。そして、先輩はわかったわ、と答えた。何が!? 何がわかったの!?
頭を抱えていると、先輩の後ろから新たな人物が現れる。
「あの・・・・・・そろそろ、戻って来ないとまずいです」
会話を遮ることを申し訳なく思ってか、控えめに彼女は蒼明たちに言った。
その人物を見て蒼明は声を上げる。
「助けて、姐さん!」
「・・・・・・?」
蒼明に呼ばれた彼女は言っている意味が解らずに首を傾げる。
「そうね。ボコボコにするのは船の中でも出来るしね。ほら、行くわよ」
先輩が蒼明の耳を引っ張って歩き出す。痛い痛い! と叫ぶが先輩は気にした様子もなく歩き続ける。
雅弥は苦笑しながらそれを眺め、今まで歩いてきた道を振り返る。もう訪れることの無いかもしれない国の名残を惜しむように。
「行くよ、雅弥」
彼女が雅弥を呼ぶ。気づけば、雅弥は置いていかれていた。
「待ってよ――――――沙月ちゃん!」
雅弥が、走りながら彼女の名を呼んだ。