秘湯
・・・いやあ、露天風呂は、いい。
・・・実に、露天風呂は、いいものだ。
冷え切った体に染み渡る、温かい湯。
緑多い自然の中に滾々と沸く奇跡の湯。
これを人類の宝とせずして、何を宝と崇めよというのか。
僕は、幸せだなあ・・・。
自然の恩恵に、時を忘れて、ただ身をあずける。
ゆらり、ゆらりと、湯気が湯面でなびいている。
山間部に湧き出るこの秘湯は、知る人ぞ知る、名湯なのだ。
昔から野生動物たちが人知れず浸かっていた、名湯なのだ。
昭和の開拓で発見され人が浸かるようになった、名湯なのだ。
人が浸かるようになっても、サルが入浴にやってくる事があり、その様子はたびたびメディアに取り上げられている。
なかなかお目にかかれないとのことだが、僕は何度も・・・湯を共にしたことがある。
僕のささやかな、自慢話のひとつだ。
今日はまだ・・・僕の貸しきり状態。
ゆっくり、ゆっくり・・・この名湯を楽しむことにしよう。
大自然の恵みを、ただじっと堪能する。
大自然の恵みを得ようと、誰かが来るかもしれないな。
大自然の恵みを得ようとするもの同士、顔を合わせることは珍しくない。
遭遇したからといって、おどろく必要はない。
遭遇したからといって、声を上げる必要はない。
遭遇したからといって、追い払う必要はない。
ただ、大自然の恵みにあずかるもの同士、湯を共にするだけの事だ。
ただ、大自然の恵みに感謝し、共に湯に浸かり続けるだけの事だ。
熱い湯に、ただ身を沈め・・・湯を楽しむ。
染みてゆくのは、湯の成分・・・この秘湯の効能はなんだったかな?
・・・成分など、関係ないのさ。
染みてゆくのは、いわゆる、わび・さびといった、情緒、風流、そういったもの。
時を忘れて湯を楽しむ僕の目に、オレンジ色の光が差してきた。
この秘湯は山間部の森の中にあり、あまり太陽の光が届くことはない。
けれど、夕焼け色に染まる空の色は木々の合間から・・・やや消極的にではあるものの、届くのだ。
・・・今日も、日が暮れた。
一日が、終わる。
・・・時間が過ぎるのは、実に早いものだ。
・・・あっという間に、一日が、終わる。
今日は、誰も湯を共にしなかったな。
今日も、誰も湯を共にしなかったな。
・・・ずいぶん、長い間、ぼくはこの秘湯を独り占めしているのだ。
この名湯、最近やけに寂しいのさ。
幽霊が出る温泉だってんで、人がより付かなくなってしまったんだな。
・・・極悪な幽霊なんて居やしないのになあ。
ここには、ただただ、湯を楽しみ続けるおっさんが一人浸かってるだけなのになぁ。
湯に浸かるときってのはさ、おおよそ他人同士が顔を合わせて当然だろう?
知らないもの同士が同じ湯に浸かり、湯のありがたみを各々感じる、それが普通だろう?
知らない奴が浸かってたら、いきなり逃げ出すなんて・・・おかしくはないかい?
知らない奴が浸かってたら、いきなり逃げ出すなんて・・・失礼じゃあないかい?
知らない人がいたって、別にいいじゃないか。
むしろ、こんな山奥の秘湯で知り合いが浸かっているのが当たり前と思う人の気が知れない。
・・・僕は、別に知らない人にどうこうしようってわけじゃないのに。
見ず知らずの人にいきなり攻撃したり、しないでしょう。
知ってる人にだって、僕はいきなり攻撃なんて、しない。
・・・そういう人もいるって?
そりゃ、たまにそういう人もいるけどさ、それって犯罪だから。
全国ニュースに取り上げられて当然の傷害事件なんて、ごく普通の一般人である僕が起こすはずないでしょう。
僕はただただゆっくり湯に使っていたい、ただそれだけなのさ。
・・・湯に浸かる僕の耳に、足音が聞こえた。
・・・誰かがこの湯に浸かりに来たのだ。
湯を楽しもうと願う同志よ、良くぞいらした!
さあ、共にこの名湯を楽しもうではありませんか!
「ここ出るって噂なんだろ?」
「らしいな、でもまあ、近々出なくなるだろう。」
同志と思われたが、どうも違うみたいだ。
いっこうに衣服を脱ぐ様子はない。
「秘湯過ぎるんだよ、ここは。」
「・・・発見されたのが二週間後だったもんなあ。」
やけに汚れた作業着を着込んだ男が二人、なにやら大きなものを抱えて・・・。
看板のようだ、露天風呂脇の岩のところに立てかけて・・・ワイヤーで固定している。
「湯をさらうのも大変だったらしいよ、今でこそ普通の色に戻ってるけどさ。」
「完全に溶けちゃったんだろうなあ・・・。」
僕は湯につかりながら、看板の文字を見た。
・・・埋め立て工事のお知らせ?!
この秘湯を、埋めるというのか?!
僕ははじめて、怒りというものを感じた。
・・・許さん!!!!!!!
僕は浸かっていた湯から立ち上がり、こぶしを握った。
「ちょ・・・おい!!あれ、あれ見ろよ!!!」
「ひっ!!ひゃあああああああ!!で、でたああああああ!!!!」
作業着の男達は、全裸でこぶしを掲げる僕の姿を見て、一目散に逃げ出した。
怒りに燃える男の雄姿を見て逃げ出したとでも言うのか。
勢いよく湯から立ち上がった僕の足元の湯面は、飛沫ひとつあげず、穏やかに湯煙をなびかせている。
湯はこんなにも穏やかだというのに、僕の心の中は怒りの感情が沸き立ち、今にも噴火しそうだ。
・・・次に誰かが来たら、そのときは。
浸かっている湯から飛び出して、直訴をするんだ。
この湯を埋め立てないでくれと、訴えるんだ。
訴えてもだめだったら、そのときは。
・・・メディアに取り上げられるくらいの傷害事件を、起こそうか。
普段穏やかな人ほど、怒らせたら怖いってね。
生前、僕は・・・ずいぶん穏やかな人として名を馳せて居たんだ。
穏やかに生を全うした人を怒らせたら、どうなっちゃうんだろうね?
僕は、握り締めたこぶしをおろし、静かに湯に浸かった。
山間部にひっそりと湧いている秘湯は・・・穏やかに滾々と湧き出て、いる。
山間部にひっそりと湧いている秘湯は・・・穏やかに湯煙をなびかせている
ただ穏やかな秘湯に浸かっているうちに、僕の心もずいぶん落ち着いて、来た。
・・・さすがだ、天然秘湯露天風呂の湯の効能には恐れ入る。
こんなにもすばらしい湯を埋めさせてなるものか。
決意を胸に、完全に日が落ち光の消えた山間部の秘湯に浸かる。
冷え切った僕に染み渡る、温かい湯。
・・・いやあ、露天風呂は、いい。
・・・実に、露天風呂は、いいものだ。
・・・なあに、この湯に浸かっていたら、すぐに朝はやってくる。
僕は朝日で色づく、この秘湯の表情も大好きなのさ。
この場所を愛する僕は、目を閉じ・・・ただ、ただ、湯に浸かった。