うん〇漢字ドリル
蜂蜜に砂糖をまぶしたような輝く金色の髪に、紫華鬘のすみれ色の瞳、夾竹桃の花のように柔らかで赤い唇、睡蓮の花のようにきめ細かい白く美しい肌、仄かに苦扁桃のような果実の香ばしさを身に纏う少女、シーナは、辛気くさい場末の酒場の一角で一人つっぷしていた。
テーブルにはシーナひとりきり。ああァ、などと一人うめき声をあげる姿はなんと表現したらよいのやら。
苦労が滲み出ている? 不穏な悲鳴? そんな姿も可愛らしい? 確かに椅子に座り、薄い赤色の靴を脱いでブラブラさせているその少女の姿はとても可愛らしい。
靴を脱いだとしても素足ではない。生足は簡単には拝められないのだ。
さりとて靴下を履いているわけでもない。絶対領域とも違う。
履いているのは黒のストッキングだ。
その黒のストッキングは異世界では珍しいものであり、彼女をより一層艶めかしく魅せるのに一役も二役も買っている。
なにしろそのストッキングには、近代魔術の一つである偉大なる錬金術士(fluorine alchemist)が生産し始めたとされるナイロンと呼ばれる繊維が贅沢にも惜しげもなく使っているのだから――
「なぁあんた。見ない顔だねぇ。こんな昼前っから、こんなところでなにしてんだい?」
そんなシーナに声を掛けるのは恰幅のよい赤毛のおばさんである。いわゆる酒場の女将だ。
声は野太かった。それは良いおばさんだから仕方がないか。
シーナは顔だけ酒場の女将に向ける。流し目っぽい視線を送る。
その声は美少女が出すにふさわしい可愛らしい声だ。
「あはは。せっかく王都からここまで来たんだから、少しは黄昏れてもいいでしょう?」
しかし力なく笑うシーナは、どこか疲れていた。
「へぇ、王都の出身かい! そんなのがなんでまたこんな場末の場所に?」
ここはカタルニ民国の王都からは遠く離れアメジスト王国に続く国境の村なのだ。
確かに場末というか、辺鄙な村であるには違いないだろう。
だいたい、距離にして王都から150kmほどか。分かりやすくいうのであれば、だいたい東京から静岡程度の距離はある。
「修行よ。こうみえて、わたしは錬金術士なので――」
「おやまぁ錬金術士かい! あんた若いのに凄いさね。もしかして修行ってことは隣国にでも行く気なのかね?」
王都から来たとなればなれば行先は街道沿いの隣国アメジストしかない。
その手前にはウェスタン男爵の砦もあるが、何もないところだ。さすがにそこに要はないだろう。
女将は錬金術士が何のことかはなんだか知らないが、特別なクラスであることだけは理解して驚いて見せた。珍しいことは間違いない。
恰好からしても魔術師系なのは明らかだから、錬金術士は魔術師系の特殊なクラスなのだろう。
シーナは肯定するように頷いた。
「えぇ、そうよ。でもつく前にすでに挫折しかかってまーす……」
そう言うと、シーナは再びテーブルの上に再びつっぷした。
女将は、あきれたようにシーナをみる。
見ればシーナの服装はあきららかに魔術師系が好む貴族のそれで、黒のストッキングだけでなく、服全体で高そうな素材をふんだんに使っているのがわかる。
なにしろその発色が良い。薄いシアン色のキャミソール。濃い目のボレロ、薄桃色に近い赤い靴。そのパステルカラーの色鮮やかさ。とても村などではお目にかかるものではない。
しかも、それらには繊維ポリエステルであったり、コットンのニットであったり、女将が聞いたこともないような未知で高額な素材が使われていた。
そう、いかにも温室で育てられて来たような少女である。一人旅がつらいというのは女将にも簡単にわかる。
貴族なのに従者が一人もいない。というのは気にかかるが。
それも錬金術士というなんだか凄そうな職業であり、修行の一貫と言うのであれば分からないでもない。
魔法使い系の、そして貴族という職業はおよそ平民からは考えられない思考パターンを持つのものだということを、女将は経験から知っていた。
この世界はいまだ魔物の跳梁跋扈する場所である。
女将は錬金術がどんなものか知らないが、しかし、訓練された魔術師と考えればそういった戦闘系であるのとするのであれば、女将が出るまでもなく魔物程度はこの少女はなんとでもするのだろうと確信していた。
――しかし、シーナの場合、魔物よりも騙されて売られそうとかいうイメージが沸くのはなぜなんだろうか。
「あぁ、旅がつらい訳じゃなくてね。旅は楽しいのだけれどね……」
女将の同情じみた視線に気づいたのか、シーナは言い訳をする。
「師匠から餞別にいただいた牛さんがね……」
「牛がどうかしたのかい?」
「うちの牛さん、茶毛と赤毛の雌牛なんだけどね」
「おぉ、すごいじゃないか! 茶毛だって!? それに赤毛――。一財産だねぇ。おばさんも一頭欲しいくらいだよ!」
女将はごくりと唾を飲んだ。
この世界の牛は毛の色によって出る牛乳の種類が違うのだ。
白毛であれば普通の白の牛乳が。
茶毛であればチョコレートミルク味の牛乳が。
そして赤毛に至ってはなんとぉ、ストロベリーミルク味の牛乳が採れるのだ。
従ってそれらの成牛ともなればその値段は天井知らずのものになる。仔牛でも多少お値段は下がるが高価であることに違いはない。
そういった意味ではシーナのお師匠さまは餞別としては破格の贈り物をしたというわけだ。
きっとシーナ自身、チョコレートミルクやストロベリーミックスが好きだったから、お師匠さまにおねだりしたに違いない。
そんなシーナは恥ずかしそうな表情で苦労を語る。
「その牛さんたち――、毎日うん〇するのぉ」
その言葉に女将はあきれた。
漢字ド〇ルでも作りたいのだろうか。
「そりゃまぁ――、うん〇くらいするだろうさ。牛だって生き物なんだから。あんただって毎日するだろ?」
「えーっと、そりゃぁまぁそうだけれど……」
ともかく、そこまで聞いて女将はようやくこの幼い少女が疲弊している理由が理解できた。
おそらくは生き物を飼うということを知らずしてお師匠さまに牛をおねだりしたのだろう。
シーナはおいしい牛乳を飲もうとしていたころに、うん〇である。どの処理に辟易しているのだ。
牛乳が食卓にあがるにはそれなりの工程があるのだ。
豚さんだって、鳥さんだって、屠殺場という処理を行うことでおいしいお肉に変わるように。
ただ、いままで蝶よ花よと育てられていた少女が、そんな『処理』を簡単に出来るはずがないのだ。
手を見てもとても綺麗でいままで労働してきたようには見えない。
女将はそれでも、心を鬼にして怒って見せた。
「そんなもの、牛飼っている村娘なら誰だって簡単にこなすさね。旅に出てるんだから、そのくらいやりなさいな」
「でも嫌なのよ――。毎日毎日……。牛さんのイメージが変わっちゃうよ」
シーナの中では、おいしい牛乳のイメージがどんどん崩れていた。このままでは――あと何日か続けていればおいしい牛乳=うん〇という方程式がシーナの頭の中にできるに違いないだろう。
「それなら――。そうさねぇ、誰か雇えばいいんじゃないかな」
「それよ!」
シーナは思わず椅子から立ち上がる。
どうしてそのような簡単なことに気づかなかったのかと、シーナは反省した。